第10話 善意の過去
2階から降りてきたリクルは言い争いをする二人を見て、目を丸くした。フリートとグルガンはリクルの前でくだらない言い争いをする恥ずかしさから、言い争うのをやめて照れくさそうにそっぽを向く。リクルの頭上にはハテナマークが大量に浮かんでいたが、とりあえず帰って来たフリートに言わなければならないことがあった。
「――おかえりなさい、フリートさん!」
それは、彼女は何の気なしに言った言葉だろう。深い意味などない。
だが、それでも。
「……ああ。ただいま、リクル」
そう返したフリートの心境には、変化があったのだ。
「ここ、お前らの家じゃないぞ」
「うっ、すいませんグルガンさん」
「水を差すなよグルガン。今いい雰囲気だったろ」
「……お前、凹んでても普通でも面倒なヤツだな」
グルガンの渋面に笑って返したフリートは、リクルを伴って階段を上る。グルガンとリクルのおかげで心に余裕ができたとはいえ、これからのことを話しておかねばならないからだ。
「ありがとな、グルガン。もう少し前向きに考えてみるよ」
「そうしろ、若造。少なくとも俺より先に死ぬんじゃねぇぞ」
「ああ、そうするよ」
先輩冒険者のアドバイスをありがたく受け取り、フリートは2階に上っていった。自分の部屋は非常に汚いので、リクルに断りを入れてから部屋に入る。すると、慌てたようにテテリが体を起こした。
「これは、フリートさん! すみません、お礼も言えずに……!」
「ああ、テテリさん。体の具合はどうですか?」
「え、ええ、咳が少しだけ収まってきました……体力は、衰えたままで……情けないことに、立つのもままならず……」
「そうですか。無理せずに休んでくださいね」
「は、はい……ありがとうございます……」
テテリの眼に浮かぶのは、疑念などではなく感謝の色だ。フリートはその目を見ただけで、少し満たされる思いがした。自分が行った人助けは、決して無駄ではない、と。
「……これから話すことを、落ち着いて聞いてください」
フリートはそう前置きして、話し始めた。数日中には大暴走が起こるであろうこと。自分が砦でその戦いに参加すること。そのため、少なくとも数日はこちらに戻ってこれないこと。
そして。
「死ぬつもりはないですが、死ぬ可能性も――十分あり得ます」
「……」
「……」
押し黙るテテリとリクル。二人にとってみれば、ようやく手に入れた安心できる居住だ。就職にも成功し、これからというタイミングで、庇護者がいなくなるかもしれないという危機。
「……グルガンさんが言っていました。フリートさんは、とても強い冒険者だと。安心していい、と」
ぽつり、とリクルが呟く。それに対し、フリートは無言で続きを促した。
「……大暴走も無傷で生還するような、強い冒険者だって。そんなフリートさんが、死ぬかもしれないって……今回の大暴走は、普通のものではないんですか?」
フリートは驚きの表情を浮かべるのを耐えられなかった。
答えから言うのであれば、今まで通りの大暴走ではない。魔人である“道化”のシギーが関わっており、魔獣の数も今までの3倍近い。とてもではないが、無傷で済む戦いであるとは思えなかった。
だが、フリートはそれを悟られないように話していたつもりだった。そして客観的に見てもそれは成功していた――現にテテリは気づいていなかった。フリートの僅かな変化に気づけたのは、リクルが。
この少女が、真剣にフリートのことを想っているからに他ならない。
「……ああ。今回の戦いは通常の大暴走じゃない」
「……そう、ですか」
リクルの手が握りしめられる。引き留めたいのだろう。そんな危険な場所に行くよりも、自分と母親のそばにいてほしい、と。だがそれはできない。そんなわがままで、フリートの足を引っ張りたくない――ただでさえ、彼が戦場に赴くのは自分たち親子のためであるというのに。
「……フリートさん。その戦い、不参加にすることはできないのでしょうか?」
娘の気持ちをくみ取ったテテリが問いかける。それは否定を前提にした問いかけだった。
「できないですね。遊撃隊に所属している以上、戦いから逃げれば信用を失います。それに、負ければどうせ逃げ場なんてないですからね」
砦は最後の防衛ライン。そこが突破されてしまえば、人類に逃げ場はない。ただ溢れてくる魔獣になぶり殺しにされるだけだ。人類存続のためになんとしても死守しなければならない、最低ライン――それがギベル砦という場所なのだ。
「テテリさん。貴女にお金を渡しておきます……もし、万が一、俺が死んだ場合。それで当座を凌いでください」
「……わかりました」
グルガンに頼んだときは、『いつ死んでもいいように』お金を渡そうとしていた。だが今のフリートは、『保険として』テテリにお金を渡した。その額も少なく、そんなに長い間暮らせるものではない。
フリートは、帰ってこなければならない。
「どうしても困ったらグルガンに頼ってください。あれは、優しい男ですから」
「ええ、それは感じているわ。ありがとうございます、フリートさん」
テテリは困ったような笑みを浮かべながら銀貨を受け取った。リクルはその光景を今にも泣きだしそうな表情で見つめている。
「そんな顔するな、リクル」
「フリートさん……」
「別に今すぐ死ぬってわけじゃないんだ。ちょっとばかし今回は危険ってだけだ」
嘘だった。魔人が出てくる以上、生半可な戦いにはならないだろう。今までのような『完勝に近い勝利』など望むべくもない。砦側にも看過できない被害が出ることが予想され――その被害のなかに、フリートが含まれない理由などどこにもない。
「帰ってきて、くれますよね?」
「ああ。約束しよう」
「約束、ですよ? 破らないでくださいね?」
「俺は嘘はつくが、約束を破ったことは――」
「ことは……?」
「あんまりない。はず……」
フリートが眉間にしわを寄せて答えると、リクルが噴きだした。そのまま肩を震わせて笑い始める。
「本当に、フリートさんは……なんというか、女の子の扱いに慣れてないですよね……!」
「むっ」
「そこは嘘でも、『約束を破ったことはない』って言う場面ですよ……」
でも、そんなフリートさんだから信じられるんですけど――そう呟いたリクルは、悲しみではなく笑いで浮かんだ涙を拭った。
「私、待ってますから。必ず帰ってきてくださいね」
「っ……! ああ。必ず、帰るよ」
健気にほほ笑むリクルの姿が、フリートの記憶の女性と重なる。決して似ているわけではない、性格も見た目も正反対と言っていい。だから、フリートもなぜ重なったのかはわからない。
(……君なら、なんて言ってくれる……?)
フリートはおかしくなって笑った。彼女なら、迷っている自分のケツを蹴飛ばして言うだろう。『いいからやれ』と、『死んでから考えろ』と、そう言うだろう。どこまでも前向きに理不尽に、未来を信じていた彼女ならば、そう言ってグダグダと迷い続けるフリートの背中を突き飛ばし、笑うのだ。
「じゃあ、行ってくる」
「はい。……行ってらっしゃい」
リクルにかけられた言葉に、思わず目を見開いてから、フリートは優しく微笑んだ。それは今までのような自嘲の入り混じった笑みではなく、まるで憑き物が落ちたかのように晴れやかな笑顔だった。
今度は、リクルが目を見開く番だった。まるで散歩にでも出かけるかのように、優しく微笑むフリート。たとえそれが一時的な悩みの解決に過ぎないとしても――
リクルは、フリートにはそうして笑っていてほしかった。扉が閉まり、フリートが遠ざかっていく。足音も立てずに、気配も感じさせずに、『無音』のフリートが歩いていく。
「ずるい、ですよ……フリートさん……」
親子だけになった部屋に、リクルの微かなすすり泣きの音が響いた。