第一夜
夕暮れ時の紫が好きだ。自分がこの世にいない気持ちになれるから。面白みのないこの世界から逃げることができそうだから
でも夕は、オレンジの方が好きだと言った。自分が生きていると実感できるから、と。
そんなものはいくらでも感じられるだろうと言った俺を彼女は不敵の笑みを浮かべ、夕暮れの紫に溶けていった。
ーーー
いつもの散歩道、見慣れた田んぼ。散歩とは程遠くもはや徘徊に等しい同じことを繰り返す日課。
田舎は嫌いだ、とにかくやることがないから、でも都会は不快だ、喧騒としていて鬱陶しい。そもそもこの世界が嫌いで仕方なかった。平凡な日常を繰り返すだけの日々、そんなものに大きな価値を見出せずに平凡な日常よりどうしようもない日々を繰り返す。
救いようのない悪循環、息の詰まる怠慢に嫌気が募り、心を侵す。少しずつ廃人になっていく。
子供の頃から霊感があった。最初は見分けもつかなくて同い年くらいの子供だと思ってよく遊んでた。でも少しずつ理解していった。それはこの世ならざるものなのだと。目を背けなければならないものなのだと。
そんなことも忘れ大人になり、くだらない日々を謳歌してる時に彼女と出会った、殺風景な田んぼ道に風に髪を撫でられ佇む少女。
見慣れない制服に、少女とは思えない艶やかな容姿。何よりも浮世離れした彼女の雰囲気に俺は魅了された。
「こんな田舎道、人なんて珍しいわね」
少女は長い髪を滑らかな絹のような指で抑え、髪をさらわれながら振り返る、その瞳に俺の姿はなく、どこか遠くでも眺めるように、空気に語るように言葉を投げた。
「子供の頃からの日課でね、いつもここを通るんだ」
俺もそれに習い、独り言をつぶやく。少女は興味も無さげにまた夕日を眺める。両手を広げ、か細い身体を風に預けるように、橙色の空を仰ぐ。
夕日の橙と少女の姿は、天才的な画家の描く絵画よりずっと美しく、幻想的で、目を離すことができなかった。
「この場所には毎日来るの、この場所には毎日いる、この風景を眺めてると生きてるって実感できるの」
少女は目を細め、俺を見て呟いた、俺の言葉には返答はしていない、しかし、俺という人間をやっと認識したようで、何故か心が晴れたような気がした。
「毎日退屈よ、やる事もなく、これといった夢もない、でもこの場所は違う、毎日変化してる、毎日違う風景を見せてくれる」
実に晴々しいと言いたげに、夕日に照らされる稲穂の海を眺めた。稲穂の海は波打ち、さわめきが響き渡る。
当たり前でつまらなかった風景は、改めて見ると美しいと思うことができていた。
「あぁ、そうだな、すごく綺麗だ」
気付けば俺はつぶやいていた。心から漏れた言葉、でもその風景は嫌いなはずだった。
「あなたもそう思う? きっとあなたと私は似てるんだわ、とても嬉しい、記念にあなたの名前を聞きましょう、お名前は?」
少女は、子供をあやすように優しさに満ちた裏腹に、少女らしい顔を見せていじらしく名前を問う。
「本当はあまり好きじゃない風景だったんだがな、それは本心じゃなかったのかもしれない、目黒 千秋だ、君は?」
少女は、後ろで手を結び、何度かそこを往復しながら俺の名前を何度か呟くと、笑顔を夕日で照らしながら、再び口を開く。
「覚えたわ、貴方とはまた会える気がする、私の名前は、無昏 夕、また明日会いましょう、いいえきっと貴方は来るわ」
そう言って彼女は俺に背を向け、夕暮れの風にさらわれた。
少女が見えなくなる頃に、一番好きな風景が訪れる。美しい風景はどこかに消え、不気味な風景が眼前に広がる。
冷風が頬に纏わりつき、閑散とした稲穂の海、全身が凍てつき、その場所に磔にされ悪霊にでも取り憑かれて金縛りになった感覚。
誰に理解もされないだろう、しかし、その感覚に目黒 千秋という人間は魅入られていた。
辺りに人の姿はなく、自分という人間は既に死に絶え、あのくだらない日常から解放されたように感じられ、幸福感に浸ることができた。
ただ、今日は少しだけ違っていた。少しだけ今日は肌寒い、纏わりつく夜の風に対する不安感、俺の心はまだあの日常に残ったままだった。
辺りは黒で彩られ、街灯のない田舎道を夜が染め上げる。そして、日常に無理やり引き戻される。あの世はまだ連れて行ってくれそうにない。
いつでもあの世は身勝手だ、死にたがりを連れて行かずに、生きたがり連れて行く。だから俺は皮肉を込め心からこう思う。
明日もまた生きて入られますように、と。
暗い道を慣れた足取りで進んでいく。一面を馬鹿みたいに黒で塗りたくり、月の明かりがなければまともに進むこともできない田舎道。
ただ俺は目を閉じていてもここを歩いていけるだろう。俺は何も考えずにただ、慣れた暗闇の帰路を歩き続けた。
今日はいつもと少しだけ違った日を送れた、だから今日は少しだけ、あの風景に怖さを感じた。
あの子のせいで自分は少しだけ死から離れた。それが少し腹立たしくあり、同時に少しだけ、救われた気がした。
少女のおかげで俺は今日、死ななかった。そんなことを思っていた。
ーーー
自分の住むアパート前に着く。階段を登り、一番奥の角部屋に入る、鍵は今まで閉めたことはない。
閑散として、布団だけを置いた殺風景な部屋、ゴミ一つ落ちておらず、生活感の一切ない部屋に俺は住んでいる。
いつからだろう、こんな日々を送るようになったのは、いつまでだろう、こんな日々を送らなければならないのは。
そのまま布団に倒れこむ、今日起きたことを思い返しながら、今日は出会った少女を脳裏に浮かべ眠りにつこうとした。
しかし、現実はそううまく事を運んでくれない。
家の扉を喧しく打ち付ける音、夜なのに周りのことも考えず、耳に障る声。
「おーい、おーい、帰ってきてるの知ってるんでーすよー、千秋さーん」
苛立ちを抑えながら、布団から立ち上がり、扉を思い切り開ける。
「うるさい、寝かせろ」
言葉には怒りを込めて、彼女に言葉を浴びせるが、そんなの事は、構いもせずに部屋の中に侵入、ガスコンロに鍋を乗せ火をかけ始めた。
「なんのつもりだ、錦」
彼女はこちらを見ることもなく、鍋の様子を眺めながら口を開いた。
「なんのつもりだ、じゃないですよー、ご飯また食べてないでしょ? もー、私がいないとほんとダメですね、千秋さんは、お嫁さんにしてくれていいんですよ?」
頭の中が三途の河原で出来た彼女の名は、錦 真紀。
近くの女子校に通う少女で、隣の部屋で一人暮らししている。一日に二回毎朝、毎晩、必ず飯を持ってきて俺を餌付けして帰っていく、なかなか趣味の悪い人間だ。
本音のところは感謝している所もある、ただ、率直に言えば、あまり関わりたくはなかった。
この歳で一人暮らししてるってことは何かしら理由を抱えているのだろうし、日々の暮らしを頑張っているということだ。
そんな人間は、俺みたいな奴に関われば、いい目では見られないし、何より彼女の迷惑になる。
大した見返りも与えられない、逆に求めてこないので、信用に値する人間だと思うが、そんないい人間なら尚のこと関わらせたくなかった。
「いい加減にしろ、お前まで変な目で見られるぞ」
彼女は、上機嫌に鼻歌を歌いながら鍋を煮込んでいる。
「別にー、いいじゃないですか、何より、千秋さんがそうやって私の心配してくれる方が嬉しいですしねー、ほらほら、千秋さん、あーん」
そう言って真紀はシチューをスプーンに掬い、俺の口元に寄せる。
真紀の笑顔は、俺という人間には眩しすぎた、当たり前の日々を楽しめる人間、そんな人間に、俺のような人間に興味を持って欲しくなかった。
日々死に場所を探すような人間と居て、幸せになれるわけがない。だからいつも彼女を遠ざけるように生きているつもりだった。
「わかったよ、食べる、食べるから、今日のところは帰れ」
そう言って彼女が持つスプーンを受け取ってシチューを口に入れる。真紀は上機嫌にエプロンを外して、玄関で靴を履く。
「今日は千秋さんが食べてくれたので、私は撤退したいと思いまーす、また明日の朝は持ってきますねー」
彼女は鼻歌を歌いながら、俺の部屋を後にした。
「だから来なくていいよ、はぁ、食べるか」
そんなことを呟きながら、シチューを真紀が持ってきた皿によそる。テーブルもないので台所に寄りかかり、一口シチューを口に運ぶ。
「…… うまいな、これ」
俺は一言だけ、呟いた。やっぱり今日は少しだけ違う日だった。