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ソファに深くもたれたまま目を開いた。スマートフォンの画面には変わらず彼の名前が映し出されている。その数センチ上で止まっている指も、そのままだった。短く息を吐いた後、指をそっと離した。側面にある電源ボタンを短く押すと画面は暗くなった。
ソファから腰を浮かせてアルバムを手に取った。リビングを出て、階段に足をかける。上りきってすぐ右手にある収納スペースを開き、そこの棚に卒業アルバムを戻した。ふと、視線は隣のアルバムで止まった。中学の卒業アルバムだった。寄せ書きのことを思い出して手に取る。小中高の学校生活で、良くも悪くも最も記憶に残っているのが中学時代であった。そしてその記憶はいつまでも美化されることはなく、むしろ苦々しいものだけが色濃く残っていた。そういった理由から、寄せ書き以外のページを見ようとは思わなかった。後ろからめくっていくと、すぐに、そのページは見つかった。
楽しかった、高校にいってもたまには遊ぼう、いつまでも友達、といったテンプレートなものがほとんどで、己の夢を語っているものや、登場流行っていたお笑い芸人のネタをもじったものが少数あった。
期待、という文字を見つけた。三年の頃担任だった教師のメッセージに使われた一語だった。そしてその言葉には、私の文字でルビが振ってあった。
忘れていた記憶がすっと甦った。下級生達に見送られ中学校をあとにして、両親と共に車で家へ帰る途中のことだった。 寄せ書きページを眺めていた私は、本当に何気なく、鞄から筆箱を、その中からペンを取り出した。そして私は、期待という文字に、重荷とルビを振ったのだった。
その日の夕方、私は最寄りのスーパーマーケットへ買い物に来ていた。正面ではなく側面にある入り口から店内へ入ると、目的である書店コーナーはすぐ左手にある。早速そこへ入ったとき、私は思わず足を止めてしまった。雑誌コーナーに立っている一人の人物。それは間違いなく、久住修斗だった。しかしその顔は記憶の中にあるやつれたものではなく、どちらかといえばふっくらとしたものだった。私の視線に気付いたのか、彼が不意に顔をあげてこちらを向いた。若干驚いた表情。しかしおそらく私ほどではないだろう。
彼が私の名前を呼んだ。私はどう返せばいいか分からずに頷いた。
彼に誘われるがままスーパーをでて、入り口付近にあるベンチに並んで腰掛けた。改めて「久し振り」と挨拶を交わす。
「こっちの方に住んでんの?」と私は訊いた。自然と口調が子供っぽいものになっていて、気恥ずかしく思った。
「一年くらい前からね。子供が生まれて、なんとなく、こっちの方で育てたいと思ったんだ。うちの親もいい歳だし、まぁ、そういう理由が色々と重なった結果だね」
「そっか」と生返事をした私に、彼は「結婚は?」と質問をした。私は首を振って答えた。今度は彼が「そっか」と言った。
大学について訊いてみようか逡巡している間に、彼のポケットから電子音が鳴った。
「買い物終わったみたいだからいかないと」スマートフォンの画面を見た彼が腰を浮かせる。
「また時間が空いた時にでも飲みに行こう」そう言って教えてくれた電話番号は、つい数時間前に目にしたものだった。
軽く手をあげて別れの挨拶を交わす。おそらく、他の大多数と同じように、彼から連絡が来ることはないのだろう。そう思うと、ひとつ、彼に聞いておきたいことが浮かんだ。
名前を呼ぶ。彼は自動ドアの前で振り返った。
「小学生の頃、どうして自主練に誘ってくれたんだ?」
彼は笑って答えた。
「俺と違ってお前はやればできる奴だったから、あのまま辞めていくのは勿体ないと思ったんだ。あの時、コーチに怒られて泣いてたんだろ?」
私は首を横に振った。
「あの時、砂浜に猫の死骸があったことを覚えてる?」
「いや、覚えてない」
「知ってる猫に似ていたんだ」
「もしかして、それが泣いてた理由?」
私は頷いた。今度は、きちんと笑いながら。




