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四年になると、ユニフォームを着て練習をするようになった。ひとつ年上の五年生は二人しかいなかったため、来年にはほとんどの部員がレギュラーに選ばれる。そのため、ポジションもほぼ固定されて、私はセカンド、久住修斗はショートとなり、二遊間の連携やカバーに入るタイミングなどを話したことをきっかけに、少しずつ距離が縮まっていった。いつしか、授業間の休憩時間も彼と話をするようになり、昼休みは野球部員達とグラウンドか体育館で遊ぶようになった。その関係は休日にもおよび、部活が終わったあとは友達の家でゲームをするようになり、私の生活から読書の習慣はなくなっていった。
その頃から私のなかに、苛立ち、不安、焦燥、言葉では表すことが出来ない何かが溜まっていくようになった。時にそれは小さなきっかけで爆発を起こして、非人道的な行動に私を駆り立てたのだが、それに関しては、ここで語る必要はないだろう。いや、正直に言おう。それに関して、私は思い出したくないのだ。誠に勝手な理由で申し訳ないが、この時の私がそういった状態であったとだけ頭に置いておいていただきたい。
心に溜まった何かは、いつしか表に現れるようになった。部活中も集中できず動きに精彩を欠き、慣れた筈のコーチの罵声は時にグローブを地面に叩き付けるほど心を波立たせた。バットでコーチを撲殺するところをどれ程想像しただろうか。当然、そのような状態で練習に身が入るはずはない。もう一人のコーチが練習後に私を残らせて、何かあったのかと尋ねてきたことがあった。何も、と答えるしかなかった。そしてコーチは、いくつか励ましの言葉を口にした後、こう言った。
「お前はやればできる奴なんだから」
その言葉は、私の心にすっと染み渡った。そして、そこに溜まっていたものをすっと包み込み、薄い膜になった。久し振りにいい気分で帰宅した私を待っていたのは、顔をしかめた両親だった。練習中にグローブを叩き付けたことを聞いたらしい。本当なのかと問う両親に、私は、空を飛んでいるところを撃ち落とされたような気分になっていた。落下の衝撃で薄い膜は簡単に割れて、抑えられていた反動なのか、大きく波打った。
叫んで、家を飛び出した。罵声を吐いたのか、それともただ意味もなく叫んだだけなのかは覚えていない。疲れきっている筈の両足は、心から配給される未知のエネルギーで嘘のように軽かった。
通学路にある海岸沿いの道で足を止めた。約一キロの全力疾走により心臓は全身に響くほど脈動していたが、心はいくらか落ち着いていた。そんな心持ちで、私は海を見た。遊泳禁止の汚れた海。冬には鴨とカモメで水面が埋め尽くされる。砂浜へ降りる階段の横に立っている看板には、冬になると白鳥が来ると書いてあったが、私は見たことがなかった。それは時が流れた今も変わらない。
砂浜へ降りると嗅ぎ慣れた臭いがした。磯の臭い。それから、砂浜に打ち上げられた海草やゴミが腐った臭いだ。ゴミの中に猫の死骸があった。白い毛が見えたが、その身体の大部分が腐って崩れていたため、もしかしたら三毛猫だったのかもしれないし、茶白や白黒模様だったのかもしれない。
不意に名を呼ばれて、私は振り返った。階段の上には久住修斗が立っていた。ユニフォーム姿のままの私に対して、彼は一度家に帰ったのだろう。私服に着替えていた。
「なにしてんの」
彼の問いに私は笑顔を作った。特になにも、とか、暇つぶし、とか、適当な返事をするつもりだったが、その前に視界がぼやけて涙が落ちた。
俯いて涙を拭っているうちに、彼は階段を降りて私の前にしゃがみこんだ。大丈夫かと訊かれたから頷いた。
「どうしたの」
ようやく嗚咽が収まってきた私に、彼は改めて訊いた。しかし涙の理由は私自身にも分からず、なんでもない、とだけ返した。それから、家に帰らないのかという質問をきっかけに、私は部活が終わってから先程までの出来事を彼に話した。
「俺も言われた」と彼は笑いながら言った。なんのことかと問うと、コーチの言葉だった。その事実は、私に僅かな衝撃を与えた。心が小刻みに揺れる。とても小さな揺れなのに、いつまでも収まる気配はなかった。
そんな内心に困惑を覚えている間も、彼は話を続けていた。曰く、彼があの言葉を言われたのは小学三年の頃だったという。入部に迷っていたところ、その言葉を受け、心を決めたらしい。しかしそれから一年以上が経ち、まるで成長が見られない自分に、彼も悩んでいるのだと言った。それでも最後は笑みを浮かべて「まだまだ頑張らなきゃいけんな」と口にした。
私はそんな風には笑えなかった。この時点で、私の中には、コーチは誰にでも同じ事を言っているのではないかという疑念が生まれていた。何故そんなことを。答えはすぐに出た。私や彼のように、やる気を引き出すことができる魔法の言葉だからだ。
私は魔法が解けてしまった。あの言葉で重要だったのは、やればできるという点ではなく、お前は、という点だった。自分は他の者とは違う。特別。才能がある。そんな幻想を見せる魔法。そこから生まれた自信。薄い膜の正体はそれだったのだ。シャボン玉のようにいともたやすく割れてしまったことも頷ける。私の中にあった苛立ちはコーチへと向かった。バットを握る。振る。振り下ろす。
子供には無限の可能性がある。その言葉が他人事としか感じられなくなった今にして思えば、コーチは心からそうーー私や久住修斗がやればできる子供だとーー思っていたのかもしれないし、それほど深く考えず、ただ私を励まそうとして言ったことだったのかもしれない。しかし子供だった私にとって大人とは絶対の存在であり、何かを間違えることなどあり得ないと思っていた。その思考が導きだした答えは、騙す大人と騙される子供の構図だった。そしてその被害者は、騙されていることにも気付かず、ここ一年間に行ってきた努力の数々を得意気に話していた。それを聞くたび、私の心は更に下方へと落ちていった。彼の運動能力について、私は同学年の誰より知っていたからだ。私が野球を初めて約一年。それほどまでに努力していた彼は、またしても、私とクラスの平均順位辺りで争うようになった。そして、彼が守っているショートには、正レギュラーの五年生がいた。
辺りが薄暗くなってきた頃、私達はそれぞれ帰路についた。別れ際、彼が自主練習を一緒にしないかと誘ってきた。私は「考えとく」と答えた。
例えば共に自主練習をしたとして、私が彼の一歩先を歩くようになった場合、彼はどう思っただろう。誘う際、そのことを少しも考えなかったのだろうか。だとしたら何故、私が部活の勧誘を受けたとき、あのような表情をしていたのだろう。この疑問に関しては、いまだに、口に出せるほど明確な答えは浮かばなかった。
五年生に進級し、私はレギュラーになった。久住修斗は補欠だった。自主練習の誘いに対する返答は曖昧なまま、気が向いた時だけ共に身体を動かした。
心のなかに溜まっていた何かは知らぬ間に消えていた。以前のようにコーチを見て撲殺のシーンを想像するようなこともない。怒鳴られても心に波風がたつことはなかった。
しかし、では関係が良好だったのかというと、そうではない。むしろ、グローブを地面に叩きつけていた頃のほうがまだ距離は近かっただろう。コーチが嫌いで遠ざけていたわけではない。心が既に、野球というものから離れていたのだ。故に、それに関係する人、物、事柄全てが遠かった。野球でしか繋がりがない監督やコーチはもちろん、野球部員としてのクラスメイトにすら興味が持てなくなっていた。その頃、学校ではサッカーが流行っていて、昼休みは高学年男子が集合し行っていた。私もその中の一人で、心の距離でいえば、野球よりもサッカーの方が身近に感じられていた。
その頃、授業で、討論会が開かれたことがあった。担任教師が用意した二択に分かれて、互いに意見をぶつけ合うというものだった。そのなかで唯一覚えている二択が、野球とサッカーのどちらが好きか、というものだった。
私は迷わずサッカー派へいった。当然他の野球部員達は野球派を選択しており、私に対して非難の声をあげ、担任教師が慌てて止めていたが、その声は私の心を揺さぶるどころか心地好ささえ感じさせた。
サッカー派の男子は私の他に三名しかいなかった。しかし女子はどういうわけかサッカー派が多いようで、人数的にはこちら側が僅かに勝っていた。
どういうところが好きなのか。どういうところが凄いと思うか。担任教師の質問に挙手で答える。それが意見となって、互いにぶつけ合った。私は積極的に意見を述べた。好きなところは野球よりもチームプレーっぽさがあるからと述べて、凄いと思うところは、世界大会が開かれるなど野球よりも世界的に普及している点をあげた。今では使えない意見であるが、当時は相手陣営に多大なダメージを与えたことを覚えている。反論も大いに述べた。野球派が野球は一発逆転があるから面白いと言えば、私はサッカーの一点の重みを力説して聞かせた。
担任教師からは有効性の高い意見を述べた者の一人に選出され、野球部員からは理解できないといった旨の視線を向けられた。
そして今にして思えば、彼らの視線は尤もである。自分のこととはいえ遠い過去として客観的に見ると、なるほど、私はサッカーが好きだったわけではなく、野球が嫌いだったのだと気付かされた。そうすると、更に納得できることがあった。時期までは覚えていないのだが、私が部活動を怠けるようになったのはこの頃だったのではないだろうか。遠ざけて見ない振りをしていた野球への嫌悪感を無意識のうちに自覚した。あるいは口にすることによって嫌悪感が膨らんだのかもしれない。どちらにせよ、私は私の本心を直視することとなったのだった。
怠けるようになってもレギュラーから外されることはなかった。野球から離れた身体と心で良いプレーが出来る筈もなく、打撃は無安打、守備では一試合で一回はエラーをした。その無気力さは監督やコーチ、部員はもちろん、応援に来ていた保護者にも分かるほどだった。
「あんなやる気のない子を出すならうちの子をだしてください」監督にそう言っている保護者の姿を見たことがあった。同じポジションを守っている四年の母親だった。私はその通りだと思った。
六年になると、練習にはまったく行かなくなった。辞めなかった理由は、親に言い出しづらいというただそれだけだった。
この頃にしていた練習といえば久住修斗との自主練習くらいだろう。正レギュラーとなった彼は今まで以上に張り切っており、大抵、私のほうが先にバテて、運動する彼を見ているという構図になった。この頃、身体能力面では全体的に私が勝っていて、持久力もそうであったはずだが、やはりそこはやる気の違いだったのだろう。そしてそうやって人一倍努力をする彼を見るたびに、私は魔法の言葉を思い出し、虚しさと、僅かな罪悪感が胸を刺すのであった。
結局、夏を迎える前に野球部を辞めた。久住修斗が自主練習に誘ってくることはなくなったし、私も付き合おうとは思わなかった。彼は最後まで部活を続けた。卒業アルバムに載っている野球部の集合写真には彼の笑顔があった。彼は最後までやり遂げたのだ。やればできる。それが部活を三年間ーー正確には四年間だがーー続けるということを指すのであれば、なるほど、確かに彼はやればできる子だったのだ。その言葉が生み出す幻は、明らかに、その程度のものではなかったが。




