1皿目【軽く塩を振って直火で炙るとおいしいドラゴン】
大変おなかがすいたので、このような話を書き始めました。
わたしは このうえなく けんこうであります。
うでのかわが ぼろぼろ むけます。
むけたかわは ずっとなおらなくて あかいにくが うっすら むきだしです。
わたしは このまま ほうるとまとに なるのでしょうか。
とまとになったら おいしいでしょうか。
わたしは このうえなく けんこうです。
このうえにいたる かのうせいは ついえてひさしく あとは おちてゆく のみなのですから。
もう なにも みえません。
おなかがすきました。
おなかが すきました。
くうきたべます。
くうきおいしいです。
もぐもぐ。
おいしい。
もぐもぐ。
きょうのくうきは すこし おしおの 味がします。
ふんわりと口の中に膨らむ熱には火精の気配が残り、生と死を凝縮した香りが口から鼻へ逆流すれば、乾き切っていた舌を湿らせる油の存在にも気付きます。最早尽きていたと思われていた涎が口腔内に染み出すのを抑えきれず、反射的に咀嚼すれば、弾力ある確かな歯応え。森の胡桃よりも濃厚な油は初めて口にするものですが、小さい頃にどこかで嗅いだことのある、あれはそう故郷の集落が人族の集団に襲われて家族が殺され村中に火を放たれ、必死で逃げる私の足をつかんだ手に振り返ったら全身の肉が焼け焦げた友達が助けを求めに縋り付いてきた時のにお
「おぼろろろろろろろろろ」
「うわっ、こいつ吐きやがった! きったねえな!」
ううう、余計な体力を使ってしまいました。胃液も出ないので、蠕動分の体力消費で済んだのは幸運と言えましょうか。言えるわけがありません。世の中は糞です。世界は滅ぶべきですし、私はもう無理です。無理ですが無理なりに、ぼんやりとながら目も見えるようになってきました。かすんだ視界には、土色の壁と、暗緑色の人影。
「いきなり肉は無理か。……邪道だが仕方ないな、これでも飲め」
人影は私に向けて手を突き出します。焦点が合った手の先には、液体の入った木の器。受け取る力も、逃げる力も残されていない私は、口元に押し付けられた器から流れ込む温かな液体を、どうにか気管に入らないよう喉に流し込みます。薄い塩味と溶け出した旨味が舌に広がり、飲み下した先の胃から、冷え切っていた体に温かさが伝わってゆきます。全身を循環した熱は目頭へと集まり、戻りつつあった視界が滲み――泣いているのでしょうか。水分が入った途端に、この体も現金なものですね。
それで残っていた体力も気力も、完全に使い切ってしまったのでしょう。私はそのまま気絶するように眠りに落ちました。
***
「蚊帳ですね」
目を覚ました行き倒れ女は、自分の視界に広がる光景を端的に評した。
蚊帳。こいつ、放っとくと蠅がたかるんだよなぁ。この辺には人間に卵を産み付けるような蠅はいないはずだが、単純に見ていて気分が悪い。体力が戻ったら早めに風呂に入ってもらいたい所だが、まぁ、よく考えたらそこまでする事もないわな。
本日未明、仕事帰りのいつもの帰り道。担いだ獲物の重さに気を取られて足元への注意が疎かになっていたのは認める。俺の爪先がこの行き倒れの鳩尾にクリーンヒットし、「ぐげえ」と潰れたカエルが更に潰れたような声を出した後はピクリとも動かなくなった相手を、そのまま放置するわけにもいかないだろう。夜明け前で目撃者のいないことを確かめた俺は、その生きているのか死んでいるのかもわからない相手を荷物と一緒に筵で包み直し、ダッシュで家へと運び込み、息があるのを確かめ、その明らかな栄養失調に気付いて食事を与えた次第だ。
爪先で与えたダメージと、スープで与えた回復量で言えば、どう考えても差し引きプラスだろ。多分。とはいえ、流石にこのまま追い出すのも寝覚めが悪いが。
「起きたか。スープの残りならあるぞ」
蚊帳越しに声をかけると、掠れた声で、
「いただきます」
と返ってきた。ノータイムだ。余程腹が減っていたんだろうが、状況の確認くらいしないものだろうか。いや、してたか。蚊帳だって。
一人で疑問に思い、一人で答えを出し、一人で納得した俺は、蚊帳の端を持ち上げてスープを手渡す。行き倒れ女は首だけをこちらに向け、俺と目があった途端、
「あ、死にました」
と言って、そのまま意識を失った。死ぬほど焦って脈を診たが、普通に生きてた。
目を覚ましたのは、日が中天に昇った頃だ。
「いやー、まさか人間の人に助けて頂けるなんて思ってもいなかったもので! 失敬失敬!」
皮脂と煤で黒ずんだ髪をぺちぺちと叩き、上機嫌な笑い声を上げながら形ばかりの謝罪をする目の前の相手が、先程まで死の淵で人間に怯えていた相手と同一人物とはなかなか信じがたいが、二度目に気絶してからはずっと目を離していないので、いつのまにか摩り替えられていたなんてこともないだろう。
「しかしこのスープ美味しいですねー! 何の豆使ってるんですか? 豆の味しませんけど!」
「お察しの通り、豆は使ってねえよ」
「ですよねー! しかし美味しいです! 重畳重畳!」
鍋に残っていたスープを飲み切った後も更にお代わりを要求してきたので、つい勢いに負けて追加のスープを作る。材料は今日狩ってきたばかりだし、ギルドに売りに行く前にこいつを拾ったせいで、まだまだ貯蔵場にも大量に残っている。普段は自分で食べる最低限しか手元には残していなかったが、原価なら一人の一食分くらい誤差の範囲、売る量を多少調整すればいいだけの話だ。
ナイフで切り出した肉に軽く塩を振って直火で炙り、余計な水気を塩で吸い出して飛ばしながら、軽く焼き目をつける。脂が流れ出さない内に火から取り上げ、病人用にスープへ煮出した。
「ほらよ、お待ち堂」
「じゅるり、って口で言っちゃったりなんかしちゃって! ありがとうございます、いただきます!」
無駄に高いテンションでスープを受け取り、喉を鳴らして飲み干す。気付けば、いつの間にか自力で体を起こせるようになっており、全身についていた細かい傷も再生していた。回復魔法でも使ったんだろうか。そんな一芸があって行き倒れるって余程だな。
この行き倒れ女、この辺の女にしては髪も短いし、服装も男物だったしで、拾った時は完全に男だと思っていたわけだが、風呂に入れようとした段で俺は己の誤りに気付いた。今や道行く子供に挨拶をするだけで事案発生等と言われる時代、人助けで告訴されても洒落にならない。それで仕方なく蚊帳を被せた。蠅は寄らなくても臭いは酷いし、ベッドのシーツも変えなきゃならないだろう。
……ここまで世話したんだから、もう少しくらいは面倒見てやるか。
「体力が戻ったなら、風呂にでも入ってこい」
着替えを用意しながら声をかけると、
「いやー、いいんですか!? 悪いですねえ、えっへへ、何から何まで感謝感謝です!」
と返事がある。行き倒れはしっかりと身を起こし、ベッドの縁に満面の笑みで腰かけていた。回復が早いのは良いことだが、些か釈然としないものがある。空になった器に頬ずりをする、という不気味な行動を取りつつ、行き倒れ女はこちらへ問い掛けてきた。
「ごちそうさまでした! ところで、これ結局何のスープだったんですか?」
「ああ、それは今朝獲ってきたばかりの、【軽く塩を振って直火で炙るとおいしいドラゴン】のスープだ」
「……え?」
問われた答えを返すと、質問者は笑顔を凍り付かせたように固まった。
まぁ、気持ちはわかる。【軽く塩を振って直火で炙るとおいしいドラゴン】をスープにする、というのは、邪道も邪道だ。作っている俺自身も意味がわからなかった。とはいえ、正確には【軽く塩を振って直火で炙るとおいしいドラゴン】肉に軽く塩を振って直火で炙ったものをスープにしたわけだから、百パーセントの大外れというわけでもない。実際、準高級料理屋ではそうした料理も供されるらしい、が、本物の高級料理屋では、初めから【季節の野菜と一緒にじっくり煮込むとおいしいドラゴン】辺りを素材にするわけだしな。やはり邪道ではある。
「俺もあまりこういうことはしたくなかったんだが、あんた固形物を受け入れられる状態じゃなかったからなぁ」
悪いな、と片手を立てると、行き倒れ女はガタガタ震えだした。いや。そんなにか。ベストの状態で食べさせられなかったのは、悪いとは思うけども。
「え……じゃ、じゃあ私、ドラゴンの肉を……食べ、食べたんです、か……?」
と思ったら、それ以前の問題で衝撃を受けていたらしい。げ、となると宗教上のあれか。
「あんた、ドラゴンシェパード教徒か。そりゃ悪かったな」
ドラゴンは頭が良いから食べたりしたらかわいそう、という頭の悪い理由でドラゴン種を保護するその過激派宗教団体は、「居酒屋で大声で貶していればワンフロアで数人は噛みついてくる」といわれる程度には広まっている。ドラゴンハンターの俺にとっては商売上の敵ではあるものの、それで個人の思想信条を否定するのは違うと思うし、心から申し訳なくも思う。肉を直接食べなくとも、ドラゴン肉由来成分が入った料理はアウトなのだろう。どうしたものだろうか。
と内心わたわたしていた俺だったが、どうもそれも違ったらしい。
「肉を……肉を食べるなんて……野蛮な!」
ええええ、そこからかよ。
肉食べなかったら何食べるんだよ。野菜か。おう、そうだな。
「でも旨かっただろ」
「はい、美味しかったです!」
なら良かった。
「はっ、しかしまさか風呂に入れというのも、私をスープにしようという……!」
「しねえよ。単純にあんたが臭ぇんだよ」
「人間はクサヤやナットーとかいう臭い食べ物を好むと聞きます! 私をエルフのナットーにする気でしょう!」
「風呂で納豆ができるか。……できるな」
むしろ一般家庭なら風呂場が最適だわ。
と、いや、そこじゃない。こいつ、そうか、エルフだったのか。
エルフというのは森に住む魔族の一種で、種族単位のベジタリアンでもあるらしい。なるほど、それで肉を忌避してるわけか。
しかしこれは元々単に「口に合わない」という理由から始まったもので、それに尤もらしい理由を付けたのが現代のエルフ社会の肉食忌避、肉食侮蔑という思想に繋がっているのだ――と以前、エルフの知り合いが言っていた。
故に俺は繰り返す。
「でも旨かったんだろ」
「はい! 美味しかったです!!」
たとえ嫌いな食べ物であっても、好き嫌いも糞もない状態で食べた物は、案外それ以降も平気になったりするものだ。
そして何より、ドラゴンは旨い。不味いドラゴンも少なからず存在するが、大抵旨い。旨いから高級食材になるのだし、旨いから俺はドラゴンを狩るのだ。
「なら良いだろ」
「確かにですね!! ではお風呂いただきます!」
エルフの行き倒れ女は俺の真摯な説得に納得し、風呂場へ向かう。
俺はその間に彼女の寝ていたベッドのシーツを外して、洗ってどうこうなるレベルではないと判断し、丸めてゴミ袋へと押し込んだ。
以上が俺ことドラゴンハンター・グラム=ロックと、その助手であるエルフのゲッカとの出会いの顛末となる。