エピローグ②
東京は八月十六日の日曜日、正午。
この日、中島シノブは當田カナデが運転するミニクーパに乗って錦景市から東京まで出てきていた。昨日のエクセル・ガールズとコレクチブ・ロウテイションの最高のライブの後、お礼がしたいの、とカナデが言ってきたのだ。シノブはお礼なんていらないと断ったのだが、カナデはどうしてもと言って聞かなかった。
「どうしても何かさせて欲しいの、何かさせて下さい、」ライブではしゃぎ汗にまみれてカナデは普段通りの素敵な笑顔だった。「私がこうして生きている理由はあなたたちのおかげなんだから、お姫様が率いる軍団のおかげよ」
「けけけっ、軍団か、」松平チカリコは例によって狐以上に狐みたいに笑った。「軍団、悪くないね」
「ええ、私たちって軍団なの?」枕木フミカは納得出来ないという風に首を捻った。「可愛くないよぉ、名前はどうするの? チカリコ軍団? それとも松平軍団? あるいはちーちゃん軍団?」
「名前なんてどうだってよろしい、とにかく軍団のようなものだよ、規律を司る縁術師たちがいてその下に踊り子たちや白拍子たちがいる、そしていつだって何かと衝突しているじゃないか、大いなる使命のためにね、立派な軍団だよ、軍団、軍団、私たちは軍団、」チカリコは軍団という響きがすっかり気に入ったようだ。「私の軍団」
「軍団の話はもういい?」カナデが自分が言い出した手前罰が悪そうに言う。「とにかくね、大いなる使命って分からないけど、とにかく私はあなたたちにお礼がしたいのよ」
「その必要はないよ、私たちは私の軍団の規律に従って動いただけ、今日のことは大いなる使命のための衝突の一つに過ぎなかったんだから、我らは数多く様々ある衝突のうちの一つを高度な戦略を駆使して解決に導いたに過ぎない、我らにとっては指で数えるほどに特別なことではなかった、大いなる使命を果たすために通り過ぎなくてはならなかったこと、そこにお礼を受け取る理由は何もない、皆無と言っていい、むしろ教育を受けたと思って感謝すべきこと、」チカリコは風雅に含み笑う。姫様はほとんど冗談のつもりで言っているのかもしれない。「とにかく私はそのように思います、なのでそういうことは気にしないで欲しい、気にしないで、気にするな、今日のことは綺麗さっぱり忘れて新しい明日をしっかり歩いて下さい」
「そう言ってくれてありがとう、凄く嬉しいわ、でもね、私が生きているのはあなたたちのおかげなのよ、あなたたちがよくても私が気が済まないのよ、こういう気持ちって分からない? 感謝してもしきれないって、そういう気持ちよ」
チカリコは曖昧に頷きながら少し考えシノブの方をチカリと見て言った。「どうしてもと言うのだったらシノブ君のために素敵なドレスを買ってあげて、夏の終わりのライブで着るのにうってつけのクールでセクシィで、とびきりキディなやつをね」
というわけでシノブはカナデと一緒に東京まで来ていた。何も新宿の伊勢丹まで来なくてもよかろうに、と思ったが、シノブのために服を選ぶカナデが笑顔だったので黙っていた。カナデはシノブを試着室に閉じ込めるみたいに服を次々に持ってきては着替えさせた。途中から店員さんも加わってのコーディネートも始まった。シノブは鏡の前で何回溜息を吐いたか分からない。服を何度も着替えて疲れてしまったというのもあるし、まるでちゃんとした女の子が着るようなドレスを身に纏っている自分にシノブは見慣れていなかったからというのもある。シノブのファッションは基本的にカジュアルだ。この暑い季節だったらTシャツにジーンズにスニーカー。Tシャツの代わりにポロシャツになるときもあるけれど、選択肢はそのどちらかに限られている。それは高校時代も中学時代も一緒だった。小学校のときは親が用意してくれたものを着ていただけだからもっとちゃんとしていたかもしれないけれど、とにかくシノブは今までちゃんとした女の子の格好をしてこなかった。それは誰のせいでもない。シノブがそういうことに興味を持たなかったということ。不自由を感じなかったということ。楽だったということ。カジュアルということが、シノブの生き方の一つだったのだ。しかし鏡の前に立ち、自分が様々なドレスを身に纏っているのを見ていると、今まさに生き方の一つが崩壊するようだった。シノブはハンマで横から叩きつけられて破壊されているビルを想像した。そのビルの前には次に同じ場所に建つ新しいビルの完成予想図が描かれた看板が立っている。新しいビルのシルエットは壊されゆくビルに比べてほっそりとしていた。角張った箇所がなく全体的に丸みを帯びている。ザラツくような銀色ではなくクリームソーダのように優しい緑色。屋上には植物園のようなものがあり、周囲にも緑が植わっていてビルと一体になっている。背景の空はいつまでも見上げていたいと思わせるほどに絶妙に、青々としている。そして圧倒的な未来を感じさせてくれるものだった。
シノブは試着室で一人、圧倒的な未来を感じているのかもしれなかった。
どこか精神に対して致死的で肉体に対して傍若無人な時間の流れを感じている。
新しい流れだ。好きとか嫌いとか、順応するとか抵抗するとか、いいとか悪いとか、そういう選択とは無縁にシノブのことを運んでいく激しい流れだった。とにかく新しい流れ。
新しい流れを感じているんだ。
それはシノブにとって不思議だったし、不自然だった。
そして急なことだった。
けれど不思議でもなければ、不自然でもなかった。
そして急なことでもなかった。
矛盾している。
けれど矛盾しながらシノブは確実に、新しい流れの方に吸い寄せられている。いや、もうすでに新しい流れに運ばれているのだ。それが今となってはシノブのよすがのようなものでもあるのだ。
シノブは何十着目かのドレスを身に纏い、鏡の前で笑った。
目を細めて風雅に笑った。
まるで姫様のように。
ピンクに髪の毛を染める気はないけれど、彼女のことを少し真似てみたっていいでしょう。なんてたってチカリコはシノブが敬愛する数少ない人なんだから。
おそらく姫様のせいだとシノブは思った。忘却のための機械。あれに触れてからシノブの何かは忘れ去られた。その何かが忘れ去られることによってシノブの中で何かが変貌したのだと思う。そして中から外へ。金魚鉢の中から掬われて別の場所へ移されたのだ。いつでも新しい流れの方へ運ばれてもいいようにどこまでも広がりを持つ海のような場所へ。
忘却のための機械とは、そういう歌。
「これに決めた」シノブは試着室のカーテンを開けて言った。
「え、それにするの?」カナデは両手に次にシノブに着せるためのドレスを持っていた。「あ、もう着替えるのが嫌になったんじゃないのぉ? それは許しませんよ、私は姫様から、夏の終わりのライブにうってつけのクールでセクシィで、とびきりキディなドレスをシノブ君に買って上げるっていう重要なお役目を仰せつかっているんですからね、中途半端は駄目だよ」
「このドレスは十ニ分にクールでセクシィでとびきりキディだよ、これだったらお姫様に文句は言われないでしょ、そして何より、どうやら僕はこのドレスが気に入ったみたいなんだ、このドレスが気に入ったんだよ、カナデ、僕はこのドレスが欲しいんだ」
カナデは頷き笑った。彼女の笑顔はすっかり以前の輝きを取り戻していた。いやそれは前よりもずっと輝く笑顔だった。カナデは新しい流れの中を泳いでいるだと思う。「でも不思議、シノブ君がそんなこと言うなんて」
「そう?」シノブはとぼけて振り返った。そしてもう一度ドレスを纏った自分の姿を鏡で見た。「全然、不思議なことなんてないでしょ?」
僕は恋の縁術師。
君は怒るかもしれないね。
この世界に説明出来ないことなんてないなんて言ったら。
でも多分きっと、そういうことだから。
輪を作ってキュッと結んで受け入れて。
なんてそれって。
お姫様の戯言ね。
了。




