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恋の縁術師(the Secret Affair)  作者: 枕木悠
第六章 未来(FUTURE)
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第六章⑫

 雨。

 私の全てを濡らす雨。

 それが止んだのはチカリコのせいだった。

「傘くらい差しておけ」

 チカリコの声は幻聴のようだった。しかし幻聴じゃない。チカリコは自分が濡れるのを厭わず私に傘を差した。その傘には無数の白勝ちの桜錦が風雅に泳いでいた。

 どうしてお姫様がここにいるんだろう?

 彼女がこの私を殺す公園に存在していることの説明が私にはどうしてもつかなかった。

 混乱している。

 彼女の雨に濡れ始めた髪の毛がピンク色に見えるほどに私の何もかもが混乱していた。

 お姫様の後ろには四つの傘が揺れていた。そしてそれぞれの傘にはやはり無数の白勝ちの桜錦が風雅に泳いでいる。今にも公園の中を泳ぎ回りそうなほど、躍動的に動き回っているように見える。それに紛れるようにシノブ君の姿が見えた。

 シノブ君の姿が見える。

 最高に綺麗な人。

 シノブ君はクールな表情で私のことを見ている。

 ここにはいるはずのないシノブ君が私のことを見ている。

 いよいよ私は不安定なのだと思う。

 混乱している上に不安定なのだ。

 どうかしちゃっているんだ。

 しかし今更だ。

 これから殺すというのにどうして私は自分が混乱していて不安定でいることを確かめる必要があるの?

 そこに体を委ねればいい話なのよ。

 混乱して不安定になるほどの難しい話ではないのよ。

 一度、躊躇ったのだからもういいでしょうに。

 もう私は疲れてしまったの。

 そう。

 私は泳ぐのに疲れてしまったの。

 疲れ切っているの。

 息も出来ないくらいにね。

 包丁は包丁を握り直し私は目を閉じる。

 激しい雨音だけが聞こえる。

 暗闇が私を包み込む。

「そうしてあなたは、君に繋がったあるいは絡みついたあるいは結ばれた、あらゆるものの縁を断ち切るつもりか?」

 強い声だった。

 激しい雨音に打ち消されることなくこの地上のどこまでも響きわたってしまったと思える、確かで、雷鳴よりも力強く、闇を切り裂くほどに鋭く澄み渡った声だった。

 幻聴などではない。

 私は目を開ける。

 チカリコがまっすぐに私を見つめている。

 視線が交錯する。

 お姫様は幻覚ではない。

 お姫様は私の前で私に傘を差し雨に濡れている。

「いけない?」私は聞いた。

「いけない」チカリコは歯切れよく言う。

「どうしていけないの?」

「どうしてもいけないことだからだよ」

「こんなにも私は疲れ切っているのに!」私は怒鳴った。「どうしていけないのよ!?」

「私が嫌だからだよ!」チカリコは私に怒鳴って返した。「フーミンだって、ジンロウだって、シノブ君だって、まーちゃんだって、それからスズメさんだって、嫌だからだよ!」

「もう私には関係ないじゃない! だれが嫌がろうがそんなの知ったことじゃない! もう私は疲れ切ってしまったのよ! これ以上私のことを痛めつけないで! もう私の邪魔はしないでよ!」

 私は手に力を入れた。

 しかし私の手は動かなかった。

 枕木君の右手に私の右の手首が掴まれていて包丁を動かすことが出来なかった。

 爪が食い込むぐらいに掴まれていて痛い。

 枕木君は私を痛めつける。

 血の色が見えた。

 それは枕木君の血だった。

 彼は包丁の刃を左手で掴み捻り上げていた。封を開けたばかりの鋭い包丁は彼の手の皮膚を裂き私に血を見せたのだ。血は雨に薄まって流れ落ち地面に染みる。枕木君は私の右の手首を強い力で捻り降ろした。私の手は包丁を掴んでいられなかった。

 包丁は枕木君にあっさりと奪われてしまった。

 殺すためのとても大事な道具を。

「返してよ!」私は彼に向かって絶叫する。「それを返しなさいよ!」

 枕木君は私から離れ距離を取り「やっぱりこの包丁は大き過ぎたんだ」と言い放ち、普段の彼からは想像も出来ないほどの鋭くて恐ろしい視線を送ってきた。私は彼の視線によって、まるでピンで留められたみたいにその場から動けなくなった。ぞわっと全身が痙攣し、次の瞬間には固まって、何もかもが分からなくなって動けない。

 混乱している。

 私は、私に纏わりついているものを振り払うために、何かを叫んだ。

 何かを叫んだのだ。

 いや、私は叫ぶことすら出来なかったのかもしれない。

 私の何もかもが機能を失いつつある。

 力がない。

 手足が電気に痺れたみたいに震えている。

 どうしようも出来ない。

 私にはどうすることも出来ない。

 寒い。

 雨は私の熱を奪い去ろうとしている。

 胃からこみ上げてくるものがあって私は口元を押さえた。

 苦しい。

 しかし吐くことも出来なかった。

 そのための力も私には残されていないようだった。

 私は膝から崩れ落ちへたり込んだ。

 濡れた地面は私の服を汚す。

 もう、どうなったってかまわない。

 どうなったってかまわないと思った。

 そしてそんな風に思った私の方に、チカリコがゆっくりと歩み寄ってくる。

 手を伸ばせば触れられるというところで彼女は立ち止まった。

 そして再び私に傘を差す。

 彼女は濡れたピンクの髪をかきあげて言う。「人間とは忘れ得るもの」

 人間とは忘れ得るもの、と私は声には出さずに反芻する。

「人間とは忘れ得るもの、」彼女はゆっくりと繰り返した。「それも一途な縁切りのカタチ、痛いことには変わりない、縁切りとは本来的に苦痛を伴うもの、痛みから逃げることは出来ない、けれどそれこそが一途な縁切りのカタチ、どこかに遠いところに逃げたりどこかくらい場所に隠れたりどこか深いところに堕ちたりするよりも一途な縁切りのカタチなんだと私は思う、無論、殺すよりは風雅でしょうに、だから、忘れさせてやる、ジンロウ」

 お姫様は右腕を横に伸ばし雨を受け止めるように手の平を天に向けた。

 枕木君はその上に黒くて鈍い光沢を放つ何かをそっと置いた。

 それはピストルだった。その形状は回転式連発銃。リボルバ。けれどそれは安易にピストルと呼ぶには大き過ぎる。そして弾丸を込めるシリンダの部分がいびつに膨らみ上にせり出していた。しかしその機械はピストルという以外に呼びようがなかった。お姫様はその重さを確かめるように上下に揺らす。お姫様はそんなものまで持っているのか、と私は感心していた。あるいは枕木君が私から奪った大き過ぎる包丁に魔法を掛けて大き過ぎるピストルに変えてしまったのかもしれない、なんてことも、呆然と、考えた。

 莫迦みたい。

 そう思う私も。

 こんな世界も。

 もうどうなったって構わない。

 気が付けばその大きなピストルの銃口は私の顔の真ん中に向けられていた。チカリコは撃鉄を引き起こす。ピストルを構える彼女の右手は微動もしていない。精確に確実に、私を殺すための狙いを付けている。彼女の人差し指は引き金の上を滑っている。

 私は唇の前で泥で汚れた五指を組み目を瞑り、早くとどめを刺して、とお姫様に祈った。

「焦るでない」彼女は悠長に言う。

 いいえ、待てない。

 一刻も早く。

 一秒でも早く。

 急いで。

 もう待てないの。

 待てるはずがない。

 私を痛めつける様々なものたちの前から消えたいの。

 どんなに痛くたって構わない。

 永遠に未来から消え失せることが出来るのなら。

 だから。

 さっさと殺してよ!

「否、」お姫様は風雅に言い放つ。「これは忘却のための機械」

 カチャ。

 まるでラジカセのスイッチを入れた時のような、プラスチック性の重みのない音が小さく響いた。

 そして次に響いてきたのは音楽だった。

 ロックンロールはどこまでも激しいベース音から始まった。歪み唸りを上げる二本のエレクトリック・ギターの調和と抗争。軽快に遊ぶドラムス。そこに最高に刺激的な歌声が乗る。

 私はロックンロールに身を委ねた。委ねずにはいられなかった。向こう側からのシルクのように肌触りのいい、しかし銃声のように鮮烈な、大きく広がった何かが私のことを一瞬にして包み込んでしまったのだ。

 そして私は邂逅を始めた。

 大きく広がった何かに包まれながら私は、その中で引き延ばされたり押し縮められたり回転させられたりしながらじっと身動きせず過去を邂逅した。

 まるでさなぎのように。

 三島先生の前を通り過ぎていく。

 森永スズメの前を通り過ぎていく。

 それらは絶対的に過去なのだ。

 そしてその過去は水に薄まったように淡くなりもう二度と思い出せない記憶になろうとしている。

 忘却の彼方に消えていく。

 痛みが、消えていく。

 雨ではない熱い滴が頬を伝った。

 涙が溢れて止まらなくなった。

 ああ、

 この素敵な歌声は、

 一体誰の声だろう?

「シノブ君、」チカリコが言う。「歌ってくれるな?」

 私ははっと目を開けた。

 いつの間にかシノブ君がお姫様の横に立っている。

 お姫様は銃口をこちらに向けたまま、ピストルのトリガを引き続けていて、シリンダの部分はゆっくりと反時計回りに回転している。どうやらロック・ミュージックは大き過ぎるピストルから響いているようだった。いや、それはすでにピストルではない何か別の機。忘却のための機械。それから流れるロック・ミュージックに合わせてシノブ君が歌い出した。忘却のための機械から流れ出る歌声と一緒だった。何度もカラオケに行ってシノブ君の歌声を聞いたことがあったのに私は全く気付かなかった。

 不思議。

 シノブ君ではない別の誰かが歌っているような気がする。でも間違いなく、素敵な歌声の正体はシノブ君だった。シノブ君は手を後ろに組み白地に水墨画のようなタッチで模様が入ったワンピースの裾を揺らして私の目の前で歌っている。シノブ君の腰のラインでは鯉が力強く踊り泳いでいた。

 鯉も。

 金魚も。

 エンゼルフィッシュも。

 この公園に満ちるものに殺されることなく力強く泳いでいるんだ。

 私もどうやらまだ、殺されることなく泳いでいるみたい。

 淀み濁った水槽から、雪解け水が流れ込む澄み渡った池の中へと掬い移された気分。

 息が出来る。

 そして私の中にあった何かが確実に消え失せていることが分かった。消え失せてしまった何かの正体は今となってしてみれば分からない。けれどその何かが消失したことによって、体内の不純物が濾し取られ浄化されたかのような穏やかな気分になっていた。

 気付けば雨は上がり千切れた雲が空を遊泳している。その雲の隙間からわずかに欠けた紫色の丸い月が顔を見せ公園と私たちを静かに照らし出していた。シノブ君が歌う、ロック・ミュージックだけが何度も繰り返され響き続けていた。永遠とも感じる時間、私はその音楽にさなぎのまま身を委ねていた。

 本当にどれほどの時間が経ったのだろう?

「錦景市は夜の七時」

 チカリコは言ってそして忘却のための機械のトリガから指を離し右腕を降ろした。「けけけっ、」彼女は狐みたいに笑って機械をジンロウに渡した。「もう時間だわ」

「え?」

「ライブが始まる時間、」チカリコはおどけるような口調で言った。「急いで戻らなくっちゃ」

 そして背中をこちらに向けて、ててて、という具合に公園の出入り口の方に走っていく。「あ、待ってよ、ちーちゃん」とその後をフミカが追いかける。この場にいた二人の小さな女の子もお姫様を追いかけるようにして走って公園から去りゆく。

「いけない、」枕木君が声を上げる。「もうバイトに戻らないと怒られちまう、あーあ、こんなに濡れちゃってなんて言い訳しよう」

 そして枕木君も去った。

 この名前のない公園に私はシノブ君と二人きりになった。

 シノブ君は優しく微笑み、地面にへたり込んだままの私に手を伸ばす。「立てる?」

 私はシノブ君の綺麗な顔をまっすぐに見つめた。時間を掛けてシノブ君の顔を構成するパーツを丹念に観察した。それから手を伸ばしシノブ君の手に触れる。

 シノブ君の手は温かくて、私の動いてない部分に熱をそっと与えてくれるようだった。だから私は立ち上がることが出来た。さなぎを割って蝶が羽ばたく時のようにゆっくりと、じれったいほどの段階を踏んで、もう一度立ち上がれた。

「平気?」

「うん、」私は頷きシノブ君の手から手を離し私は言う。「シノブ君が好きよ」

「ありがとう」

「大好き、」言ってまた、涙がこみ上げて来た。「シノブ君の代わりなんていない」

「うん」

「そしてシノブ君は誰かの代わりなんかじゃない」

「うん、僕は誰かの代わりなんかじゃない、中島シノブは中島シノブだ」

「三島先生の代わりも、スズメさんの代わりもないの、代えが利かないものなのよ」

「代えが利かないもの、」シノブ君は言葉を繰り返す。そして思い付いた風に言った。「恋と一緒だね」

「恋と一緒というか、」私は涙ぐみながら笑った。「恋の話をしているのよ」

 そのタイミングでけたたましくクラクションが鳴った。

「おーい、シノブくーん!」フミカが呼ぶ声がする。「運転出来るのシノブ君だけなんだから、早く来ないとちーちゃんが運転しちゃうよー!」

「すぐ行くよ!」シノブはフミカに返してから私のことを見た。「行かなくちゃ」

「そう」私は自分の雨で濡れて泥で汚れたスカートを見る。

「うん」

「私も行っていいかな?」

「もちろん」

「泥だらけだけど」私は苦笑する。

「途中で服を買って着替えればいいじゃないの」

「そうね、あの車、何人乗り?」私は公園の出入り口に停めてある紫色のムーヴの方に視線をやって言う。

「頑張れば六人乗れる」

「駄目よ、それは、それじゃあ、私は自分の車で行くね」

 そのときだった。

 小さな女の子のうちの一人がムーヴから降りてこちらにもう一度戻って来た。

 なぜか真っ赤な薔薇を抱えて。

「ユウちゃん、どうしたの?」シノブ君が言う。

 ああ、この娘が枕木家の末っ子のユウちゃんか、と私は頷く。

「ちーちゃんがコレもっていけって、」ユウは唇を尖らせて言う。その仕草にどこか愛嬌があって、私の心は少し動かされた。そしてユウは私に真っ赤な薔薇の華束を渡す。「はい、どぉぞ」

「私にくれるの?」

「ちーちゃんがそういうので、ちーちゃんが考えていることはよく分からないけど」

「あ、ありがとう」

 私は戸惑いながらも華束を抱え、その匂いに一時的に酔った。

 そしてなぜだか。

 全く説明が付かないのだけれど、この公園の真ん中に、そこに吸い込まれるように、どうしても華束を捧げたくなった。

 気付けば私は膝を折り畳み、受け取ったばかりの華束を足元に置いていた。

 どういうことだろう?

 でもそれは果たさなければならないことに違いなかった。

 私はそうだと確信していた。

 そしてそんな実に不思議な私の行動を見てユウは「ああ、なるほど、」とパンと手を合わせてチャーミングに頷いていた。本当にチャーミングで、本当にショートへアが似合う女の子だ。「そういうことか」

「え、どういうことなの?」

「えと、説明するのに時間がかかるんですけどぉ、ああ、何から話せばいいのかなぁ」

「あ、それじゃあさ、」私はユウに満点の笑顔を見せながら言った。「時間もないし、ユウちゃん、私の車に乗っていかない? 助手席でゆっくりと説明してくれればいいから、どぉ? すっごくいいアイデアだと思うんだけどな」

「は、はあ」ユウは私の勢いのようなものに身を後ろに引きながら、シノブ君の方に、まるで助けを求めるように視線を向けた。きっとユウは人見知りで恥ずかしがり屋なんだと私は思う。

 シノブ君を見れば、やれやれ、とでも言いたげに苦笑していた。

「やれやれ」

 シノブ君は言った。


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