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恋の縁術師(the Secret Affair)  作者: 枕木悠
第六章 未来(FUTURE)
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第六章⑪

「當田さんは、もしかしたら多分、危険な状態で、危険な状態というか、危険な存在になってしまっていると思うんだ、そんな予感があるんだよ、とにかく彼女から酷く悪いものを感じるんだよ、姫様、これは取り返しがつかないことになるかもしれない、彼女はこの世から縁を切ろうと企む目をしている、だから急いで下さい、彼女をこちら側の世に止めるよすがのようなものが早急に必要なんですよ」

 ジンロウから唐突にやってきた連絡はどこまでも曖昧でヒステリックになるくらい要領を得ないものだった。けれどジンロウの予感の輪郭はシノブには手に取るように分かった。シノブが一日中感じている焦りと同じものをジンロウは感じている。そしてジンロウの予感はシノブにとって天気予報よりも信じるに値する大きなものだ。シノブはジンロウからの発信が途絶えた瞬間にブロックガーデンの前から走り出していた。その後を慌てて四人が追いかけて来る。シノブは錦景第二ビルに隣接する立体駐車場にムーヴを停めていた。シノブはその運転席に滑り込み、キーを乱暴に差し捻る。エンジンが唸り、起動する。助手席にチカリコ、後部座席にフミカとユウとキティが乗り込んだ。ドアが閉まりロックが掛かったと同時にシノブはアクセルを踏んだ。バックミラーに映る後部座席の三人の顔には一様に説明が足りてないという表情が浮かんでいた。どうしてそんなに焦っているのか訳が分からない、という顔をしていた。当然だ。ジンロウがトランシーバのアプリケーションを使ってこちらに届けてきた情報には明らかに説明が不足している。説明が不足しているというよりは、説明が出来ない状況なのだ。そしてシノブには悠長に説明が出来ない状況のことを三人に説明している暇も、余裕もなかった。

 とにかく急がなくてはならない。

 急いでカナデに会わなくてはならない。

 制限時間がある。

 それを数える機具はないが、シノブは運転しながらステレオに表示されている時刻を何度も見た。

 錦景市は夜の七時を迎えようとしている。

 空の赤みが向こう側に、シノブが運転するムーヴから逃げるように、徐々に消え失せていく。

 会えなくなる前に会わなくちゃならないのだ。

 時間切れはあらゆることの終わりだ。

「くそったれ」

 大きな交差点の赤信号がシノブにブレーキを踏ませた。公園までもう少しだっていうのに、間が悪い。クラクションを叩いてしまいたい気分だった。シノブの苛立ちは今にも破裂しそうなほどに膨らみぎしぎしと音を立てている。舌打ちして唇をかんだ。正面のウインドに雨粒が一つ当たる。雨が降るような気がする。ジンロウの天気予報は見事に当たった。すぐに沢山の雨粒がウインドをけたたましく叩き始めた。シノブはワイパのスイッチを捻り「当たり過ぎ、」と苦笑した。「当たらない方がいい、未来のことなんて」

「その通りだ、シノブ君、」チカリコは目を閉じ手の平を唇の前で合わせながら、やはりシノブの心なんて手に取るように分かっているという風に言った。「当たらない方がいい、未来のことなんて、」そしてチカリコは目を大きく見開き、正面に灯る赤信号を見据えた。「震えるなよ」

「震える?」

「未来に、」そしてチカリコはシノブの手に触れた。彼女の綺麗な冷たかった。その冷たさによってシノブの体から役に立たない熱がすっと抜かれたようだった。「選べないわけじゃない」

「分かってますよ、姫様、」シノブは息を小さく吐いて姫様に反論するように言った。「僕は運命論者じゃない、中世史学的唯物論者だ、何があっても変じゃないって分かってますよ」

「そう言うのならば、」姫様は語気強く、狐の目をして言う。「センチメンタルに浸るのは時期尚早じゃないかしら?」

 シノブは姫様の言葉にはっとなった。ガツンとハンマで脳ミソを叩かれたような気がした。姫様の言う通りだった。シノブはセンチメンタリズムの渦の中にいた。そして解釈しようとし始めていた。天体史学的唯物論者たちがそれを扱うように、シノブはカナデのことを処理しようとしていたのだ。まるでカナデがすでに過去の瓦礫の一部になってしまったかのように。

 そしてチカリコはフミカが大事に抱える薔薇の華束から一輪抜いて、シノブの顔に華を押しつけた。

 薔薇の強い匂いが薫った。

 意識が冴える。頭が現実を、この状況をきちんと受け止めていられるようになった気がした。

 クラクションが後方から響く。

 信号は青に変貌していた。

 シノブは慌ててアクセルを踏む。

 急発進。

 ワイパは規則正しいリズムを刻みウインドを激しく叩き続ける夕立の雨を振り払い続けている。シノブも同じようにセンチメンタルを振り払う。まだ未来じゃない。そして未来は選べないわけじゃない。

 シノブは公園の入り口の前でムーヴを停めた。公園のベンチに座るジンロウと、そしてその前に立つカナデの姿が見えた。

 夕立は激しさを増している。

 こんなにも雨が降っているのに二人は傘も差していない。自分で予感したくせに傘も持っていないなんて凄く笑える。なんて思いながらもシノブだって傘を持っていなかった。シノブはそのままドアを開けて運転席から出ようとした。

「待って」姫様がシノブのことを呼び止める。その手には傘が握られている。折りたたみ傘だ。カバーにはコレクチブ・ロウテイションのロゴが大きく書かれていた。

「ありがとうございます」

 お礼を言ってシノブは外に出て傘を広げた。

 傘には無数の白勝ちの桜錦が風雅に泳いでいた。

 五人は同じ傘を差して強い雨が降り注ぐ公園の中に入る。

 その中心に立ちカナデは雨に髪も服も体も瞳も濡らして、そして彼女が持つにしては大き過ぎる包丁を喉元に突き付けていた。

 それに表情を険しくしたジンロウが対峙しているという構図だった。

 その光景には現実感がなく、まるで夢を見ているようだった。変な夢だ。そして夢の中では荒唐無稽な出来事を不自然と思わない、思えないのと同じように、カナデが包丁を喉元に突き付けているということに対して特別不自然だとは思わなかった。心臓が大きく動き脈拍が上昇するほどの驚きをシノブは感じなかった。それはこのような類の光景をシノブが予感していたせいかもしれないし、あるいはこの激しい雨がこの名前のない公園で繰り広げられる光景をどこまでも幻想的に仕上げ、緩衝材のような働きをしてくれていたからかもしれない。シノブはとても冷静だった。冷静にこの公園を受け止めることが出来た。

「カナデ!」シノブは歩み寄りながら名前を呼んだ。

「待って」チカリコはシノブの肩を触り制した。

 シノブが振り返るとチカリコは僅かに首を横に振り、いつになく真剣な眼差しでカナデのことを見据えてた。鼻で息を静かに吸い込み、シノブの前に出て、そしてゆっくりとカナデに歩み寄る。

 シノブはその場に立ち尽くし姫様のピンクの髪がかかる背中を見つめた。

 小さな背中だった。

 十七歳の少女の背中だった。

 けれど限界など計り知れないほどの巨大なエネルギアを秘めた背中なのだと思った。

 意図も容易く限界を飛び越えることの出来る羽根を彼女は持っている。

 雨に濡れても飛び続けることの出来るしなやかな筋肉と強靱な骨格を持つピンク色の羽根。

 シノブには彼女の未来なんて想像もつかない。彼女はどこまでだって飛んでいけそうな気がする。

「傘くらい差しておけ」

 姫様は言って風雅な傘をカナデの頭上に差した。


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