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恋の縁術師(the Secret Affair)  作者: 枕木悠
第六章 未来(FUTURE)
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第六章⑩

 混雑したレジを通り過ぎて会計を済ませ、カレーのベーシックな材料と包丁が入ったほどよく重いビニル袋を提げて、私はライフラインと道路を挟んで向かいにある公園に行った。周りを緑の密度が薄い細い木々が取り囲む、本当に小さくて静かな公園だった。走り回って遊ぶ子供たちの姿はなかったし、そんな想像もつかないくらいの静けさがここには落ちていた。ブランコや滑り台や鉄棒などの遊具の類も普通よりも一回り小さくてそれらは公園の隅っこに、ここを支配する主のような威圧的な大きな何かに押しやられるようにして、せせこましく存在していた。塗装も剥げ錆も目立ち少し見ただけで老朽化が進んでいることが分かる。末期のガン患者のように内部からせり上がってくる苦痛に耐えながら、自らが近い将来に失われてしまうということについて、真剣に折り合いをつけようとしている風に見える。この小さな公園にはどうやら名前がないようだ。少なくともそれらしいことを親切に書いた看板はどこにも見当たらない。まるで、今この瞬間にこの公園が失われたとしても誰かを困らせることがないように、この公園自身が看板をひょいと引き抜いてどこかに丸めて捨て去ってしまったかのように。

 錦景市の夏空には夕方の六時を過ぎてから薄く雲が広がっていた。

 公園の滑り台の手すりの奥に見える太陽は低い角度になっても赤く燃えていて、その強い赤は薄く広がった雲の中で斑に反射して紫にもなって私の視界を放射線状に滲ませていた。夢か幻か、あるいは死後の世界かと思わせるような、どこか現実から私をどこまでも遠く引き離そうとするような果てしない意図を赤い太陽と薄く広がった雲が演出する紫色から感じた。

 私は目を閉じてその紫色の光に包まれているのだと感じた。そして私は目を開けてみた。

 ここは現実だけれど、しかしそれからどこまでも遠く引き離された場所。

 そういう公園なのでしょうね。

 そして八月十五日の公園は火の中のように暑い。

 枕木君は道路側の入り口から入って右手の方に少し歩いた先にある木製のベンチに座り横にお弁当とメロンパンとコーラを置いてスマートフォンを耳に当てていた。誰かと電話をしているみたいだったけれど、近づいていくと枕木君は通話を切って私に秀麗に微笑み掛けた。枕木君は秀麗に微笑むことの出来る、私の世界ではなかなか希有な男だった。レズビアンの私は同年代の異性に対してあまり上手に馴染めないのだけれど、少なくとも嫌悪感のようなものを枕木君に対して抱くことはなかった。切れ長の目、艶やかな髪、白い肌、どこか平安貴族のような上品な佇まい。決して誰もが惹かれるようないい男ではないかもしれないけれど、雰囲気がいいのだ。まるで夏の朝霧のように。

「座っていい?」私は笑顔で、まるで彼に好意を抱く性的に平凡な少女のように恥じらいをそこに含めながら、枕木君に聞く。

「もちろん、どうぞ」枕木君はお弁当とメロンパンとコーラを自分側に少し寄せて言う。

 私はベンチに座った。

 スカートの裾を伸ばす。

 膝の上にビニル袋を乗せた。

 ほどよい重さのビニル袋。

 ちょうどいい重石。

 私をここにとどめて立ち上がらせないようにするのにうってつけの重量。

 そして私は公園の虚空を眺める。

 優しい静寂と一切の揺らぎもない公園に満ちる空気。

 不思議。

 枕木君が何かを言い出すのを私は待ちながら、どうしてこんなに不思議なんだろうって思う。

 何もかもが不思議だった。

 この世に説明出来ることなんて何もなくて、全てが不思議なんだと思って息苦しくなる。

 呼吸が止まり得る瞬間が今まさにそこに迫っていて私はどこか、止まった未来のことを想像している。

 今、目の前をエンゼルフィッシュが風雅に泳ぎ横切ったって私はきっと驚かない。

 何もかもが私には不思議なんだ。

 水を限界まで張った水槽のように、この公園には不思議が満ちている。

 そしてその充填は私の体に纏わりついてきて想像力を無力なものへと溶かし、ありとあらゆる意味での自由を奪った。

 エンゼルフィッシュのように風雅に泳げない私は呼吸の出来ない苦しさにもがいている得体の知れない小さな生き物。

 いとも容易くとりあえず簡単に、死んでしまうんだ。

 この公園は私を殺す場所。

 公園は私を殺すための強い意志を持っている。

「食べないの?」

 お弁当をベンチの上に置いたままにしてどこかぼんやりと私の顔を見ている枕木君に聞いた。私を殺すための強い意志についての処理にぼんやりと迷っていることなんて絶対に他人に分からないという笑顔を作って。

「ああ、そうだった」

 枕木君はお弁当のことなんてすっかり忘れていたという風に頷き、まるで他人のお弁当を勝手に拝借するようによそよそしく蓋を取りはずして自分の膝の上に乗せた。そして割り箸を手にして唐揚げを一つ口の中に放り込んで公園の中心に顔を向けて咀嚼する。

 私は枕木君の横顔を盗み見ていた。

 どうして枕木君は私をここに誘ったのだろう?

 枕木君はシノブ君の話でもしようと言ったけれど、私にはなぜかそれが、私をここに誘うための口実にしか思えなかった。

 そして同時に枕木君は私と一緒にいたくはないのだと思った。

 枕木君は私の隣で唐揚げを食べながら極度に緊張している。その極度の緊張は唐揚げの味さえもきっと彼に感じさせていないに違いない。枕木君は夕日の色も夕方の暑さも夜への変化が誘う風もその風によってざわざわと軽い音を立てて揺れる緑の躍動も、また私がいやおうなく思い知らされているこの公園に満ちる不思議な何かの存在も感じることなく、ただ緊張だけを感じているのだ。私がベンチの横で座っているせいで、彼の休憩時間は台無しになってしまっている。要するに枕木君は私のことを誘ったくせに、私と一緒にいたくはないのだ。

 矛盾している。とても不自然だ、と私は思う。でも、どうして?

 どうして枕木君は私をこの公園に誘ったの?

 公園に私を殺させるためなの?

 まさか今から私に愛の告白でもする気なの?

 私は彼の秀麗な横顔を見つめ続ける。

 しかしいくら見つめ続けたって、残念ながら、枕木君の心の中身というものが私には分からない。

 これっぽっちも。

 その片鱗すらも。

「・・・・・・シノブ君の話でもしましょうか?」枕木君は沈黙に耐えかねたように言う。

 私はそれに笑顔を返した。あなたの笑顔って最高ね、と三島先生が何度も褒めてくれた笑顔。気付いたら私はそんな最高を簡単に出し入れする事が出来るようになっていた。体の調子が悪くたって、頭痛が痛くたって、こうして私のことを殺しあげるような場所にいたって、笑顔には支障ない。私が笑顔を失う時はきっと死ぬときだ。

「枕木君は狡い、」私は最高の笑顔のままで、彼の読めない心に釘を刺すように言った。そしてカツンと一つ、叩く。「シノブ君を独り占めにして狡い、シノブ君は共有すべき人なのに」

「共有すべき人?」枕木君はそんなことを言われるなんて思いもしなかったという風に目を見開き、私の瞳を覗き込んだ。「俺は、狡い?」

「そう、君は、狡い男だ」私はシノブ君のボーイッシュな口調を真似て言いながら、公園の中のどこかに泳いでいるはずのエンゼルフィッシュを探している。

「シノブ君のことを独り占めにした気はないんだけど、」苦笑しながら彼もどこかに泳いでいるはずエンゼルフィッシュを探す素振りを見せる。「まして束縛したりなんかしない、家ではシノブ君は妹たちの、なんていうか、いい教育者だ、シノブ君にいい影響を受けているのは間違いない、そういう意味では共有されていると思うんだけど」

「そういうことを言っているんじゃないの、」莫迦じゃないの、という乱暴な言葉を私は呑み込んだけれどそういう目で私は枕木君のことを睨んだ。「共有っていうのはそういうことじゃない」

「そういうことじゃない?」

「シノブ君の心の真ん中にはあなたがいる、シノブ君の心の真ん中にはずっと枕木君がいるの、それは私と一緒にいるときでも変わらないの、枕木君はシノブ君の心の真ん中からどいてくれたことはないの、シノブ君はそれを私に見せようとはしないけれど、もしかしたらシノブ君自身も自分の心の真ん中に枕木君がいることに気付いていないのかもしれないけれど私には分かる、シノブ君の心の真ん中にはあなたがいる、狡いわ、私だってシノブ君のそこに行って触れてみたい未知の部分があるのに」

「當田さんはシノブ君のことが好きなの?」

「そんなんじゃない、」私は顔を覆って俯いた。「そんな簡単な気持ちじゃない、ストレートな気持ちじゃない、私は別に枕木君に嫉妬しているわけではないの、ただ狡いと思うのよ、何度も言うけれどシノブ君は共有すべき人だから、屈折しているの、私って、実はね、今日私、シノブ君のメールと着信を無視し続けているの、昨日の夜シノブ君のことを誘ったのに来てくれなかったからそんな莫迦みたいなことをしたの、でね、そんな莫迦なことをしておきながら私はさっき、本当にさっきの話よ、ここに来る前に私は、実は枕木君の家に行ったの、シノブ君に会うために、でも枕木君の家には誰もいなかった、シノブ君はあなたの家にいなかった、それが暗示することってなんだと思う?」

 そこで私の腕に冷たくて小さなものが当たって消えた。

「雨だ」枕木君がポツリと言った。

 私は顔を上げて空を見上げた。まるで移ろいやすい少女の心のように空の色は突拍子もなく変貌していて上機嫌とは決して言えない色になっていた。まだ遠くの空の機嫌は悪くはないけれど、私の上の、公園の上の空の機嫌は頗る悪い。煙草の煙が腐ったような灰色。そこから降る雨はきっと汚いものなんだと思う。汚いものは私を少しずつ濡らしていく。私は濡らされて徐々に綺麗なものを失い、ゆっくりと汚らわしい生き物になっていくのだ。

 雨は瞬く間に激しくなった。

「夕立」私はポツリと呟いた。

「店の中に戻ろう」枕木君は慌ててお弁当とメロンパンとコーラをビニル袋の中に入れ直して立ち上がり私の顔を見た。

 枕木君は私が立ち上がるのを待っている。

 凄く急いでいるみたい。

 雨に強く迫られている顔をしている。

 けれど私は立ち上がらなかった。

 雨に濡れることなんて平気。

 それが例え汚い雨で私を汚いものにする雨であっても。

「當田さん?」枕木君は不思議なものを見る目で私のことを見る。

「ねぇ、どうして?」

「え?」

「どうして私をこの公園に誘ったの?」

 枕木君は言い淀む。そして私の問いに隠された暗示を読みとろうとしているみたいに、私の瞳の中を見ている。けれど瞳の中を覗いてみたってそんなに簡単に私の心の中は見えない。金魚鉢じゃない。私の心は金魚鉢のように風雅に湾曲はしていない。

 光が屈折するくらい歪んでる。

「私を殺すため?」

「殺す?」

「用意なら出来ている」

 そう、用意なら出来ている。

 私はビニル袋の中から包丁を取り出し、残りのものを激しく濡れ始めている公園の地面の上に捨てた。私は乱暴に包丁の包装を剥ぎ、柄を握り具合を確かめる。枕木君が指摘した通りカレーを作るにしては大き過ぎる包丁だった。私を殺すにしても大き過ぎる気がした。でもためらいを差し引けばちょうどいい大きさなのかもしれない。いくら覚悟しても私は少しくらいは躊躇ってしまうと思うから。私を殺すことは、私は初めてだから。

「何してんの!?」枕木君は怒鳴り私から包丁を奪おうと手を伸ばす。「危ないでしょ!」

「うるさいわよ!」私は怒鳴った。「あんたがこの公園に私を誘ったんじゃない!? 私を殺すために私をここに呼び寄せたんじゃないの!?」

 私は包丁の切っ先を立てたまま枕木君から逃げるように公園の中心の方に動いた。

 吸い込まれるように足がそちらの方に動いた。

 何かがそこで呼んでいる。

 何かが、公園の中心こそが、殺すべき場所だと絶叫している。

 吸い込まれ緩やかに落ちる。

 こここそが。

 こここそが場所だ。

 私を痛めつける様々なものたちから離れるための道に繋がるための場所だ。

 私はこの場所で殺して道に出る。

 汚い雨と汚い体を置き去りにして。

 私にはもう何もないのだ。

 何もない。

 シノブ君にも。

 森永スズメにも。

 心の真ん中には私ではない人がいる。

 私は目撃してしまったのだ。

 そのとき私は仕事中でお店から三十四歳の既婚女性のお客さんとウルトラマリンという名前のホテルに向かっておしゃべりしながら歩いていた。角を曲がり、ホテルの入り口が遠くに見えてきたというタイミングだった。ホテルの入り口から橘マナミが出てきた。サングラスをかけていたけれどエクセル・ガールズの大ファンの私にはそれは簡単に分かった。そして向かいのコンビニから森永スズメが出てきて、橘マナミの手を取りそして私たちの方に背を向けて腕を組み体を密着させてキスをした。

 私は彼女たちのキスに酷く痛めつけられてしまったんだ。

 森永スズメは私にとっての唯一の希望だった。

 その希望が失われてしまえば絶望するしかないでしょう?

 私は公園の真ん中に立つ。

 激しい夕立に打たれ続けて髪の毛の全てはもう、汚れてしまっている。

 けれどこここそが安らげる場所に繋がる唯一の道なんだと思う。

「来ないでよ!」私は絶叫した。

 枕木君は私から少し間を開けたところで立ち止まった。彼も雨に濡れている。彼の私を鋭く睨む目は私の心を酷く痛めつける。

 そんな目で私を見ないでよ。

 私は大き過ぎる包丁を喉元に突き立てた。

 三島先生の顔が浮ぶ。

 今、そちらに向かいます。

 一度、躊躇う。

 しかし、一度だけだ。

 私は、私を殺すために包丁に力を入れた。

 そのときだった。

「傘くらい差しておけ」

 お姫様の声が響き雨が止んだのだ。


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