第六章⑧
「あれぇ、もしかして枕木君じゃない?」
そんな風に背中の方から声を掛けられたとき、ジンロウはスーパーマーケット、ライフラインの白衣姿で精肉売場に並ぶ消費期限の迫った商品に三割引シールを貼り付けていた。時刻は午後の五時三十分。ジンロウはその作業に集中していたから、名前を呼ばれて少し驚いた。振り返って見ると買い物カゴを手に提げたカナデが立っていた。赤い買い物カゴの中身はカレーの材料だった。にんじん、玉ねぎ、じゃがいも、カレーのルー、それからジンロウが三割引シールを貼ったばかりの豚のこま切れ肉。
ジンロウはでんでん帽のつばを折って上に持ち上げ腰を伸ばしてカナデに向き直った。「當田さんじゃないの? こんなところで何してるの?」
「何してるのって買い物に決まってるじゃないの、」カナデはニコニコしながらジンロウに接近して言った。「でもびっくりしたぁ、枕木君ってここでアルバイトしてたんだぁ」
「まあ、家から近いから」
「知ってる、シノブ君から聞いてるよ」
「當田さんが住んでるのってこの辺だっけ?」
「ううん、」カナデは首を横に振る。ふんわりと緩いウェーブがかかった明るい茶髪が揺れて、シャンプのいい匂いがジンロウの鼻をくすぐった。「家はG大の近くだよ、今日は、なんとなくこっちの方までドライブしてて、その帰り、」そしてカナデはニッと笑顔を作り直し精肉売場の前の混雑した通路を左、右と見て言う。「忙しそうだね」
「まあね、でも普通の土曜日だよ、」ジンロウもニッと笑い返す。「何の変哲もない普通の土曜日の夕方」
「何の変哲もない普通の土曜日の夕方」
カナデはジンロウの言葉を愉快そうに繰り返してまたニッと笑った。カナデは笑顔の中でもう一つの笑顔を作ることが出来る表情豊かな女の子だ。基本設定の笑顔の中で歓喜や愉悦、あるいは悲哀や憎悪さえも表現することが出来るのだろう。おそらくカナデが絶望的な表情を浮かべているときは真実の絶望が彼女に襲来しているときなのだ。きっと。
「今日はカレーなの?」ジンロウは聞いた。
「凄い、よく分かったね」カナデはいらずらっぽく言う。
「見れば分かるでしょ?」ジンロウは買い物カゴの中を覗き込み笑った。
「私、料理下手くそで、簡単なものしか作れないんだ、自炊もたまにしかしないし、外食が八割」
「それはよくないよ、女の子なんだから、あ、健康的に悪いという意味でね」
「枕木君って料理とか出来そう」
「全然、」ジンロウは首を横に振る。「不器用だから、妹が全部やってくれる、他の様々なことも妹が全部やってくれるんだ、そして手伝うと怒る」
「フミカちゃん?」
「フミカよりも、家事全般の裁量を握っているのは末っ子のユウの方だね」
「ああ、ユウちゃんの方か、」カナデはこくんと頷き言う。「ショートヘアが素敵な僕ガールね」
「うちのことなんでも知ってるんだ」ジンロウは首を竦めた。
「そりゃあ、シノブ君がなんでも話してくれるからね、なんでも知ってるよ、枕木君のこともよぉく知ってる、こうやって二人で話したことなんて今まで一度もなかったのにシノブ君のせいで私は枕木君のことについてとても詳しく知っているのです」
「あはは、」ジンロウは苦笑しながら、ふと思った。「そう言えば今日、エクセル・ガールズのライブがあるよね、妹たちと、多分、シノブ君も行くと思うんだけど、當田さんは行かないの? エクセル・ガールズのファンだって聞いてたけど」
「え、そうなの?」カナデは静かに表情を変えた。そしてまるで何でもないことのように言う。「知らなかったな、今夜ライブがあったなんて」
「今からだったらまだ間に合うんじゃない? 始まりの時間は確か、夜の七時だったと思うけど」
「うーん、」カナデは唇をきつく結んで二秒間だけ悩む素振りを見せた。「今夜はいいかな」
「そう」
「うん、」カナデは小さく頷き、そして笑顔のままでどこか憔悴しているという風に短く溜息を吐いた。「あ、ごめんね、仕事の邪魔して、またね」
「うん、また」
カナデは笑顔の横で小さく手を振りジンロウの傍から離れ総菜のコーナの方に向かった。ジンロウはカナデの背中を見送り、でんでん帽のつばを直し、そして商品に三割引シールを貼り付ける作業に戻った。その作業が終わったのが午後六時を少し過ぎた頃だった。ジンロウは一度バックヤードに戻り、パソコンの前に座り店長と談笑している畜産部門の主任である宮沢ケンジのところへ行き指示を仰いだ。「あ、終わったの? それじゃあ、休憩行っておいで」
ジンロウは更衣室で白衣を脱ぎでんでん帽を取りストライプのワイシャツに紺のスラックスという装いで少し早めの夕食を調達に売場に出た。そして唐揚げ弁当とメロンパンとコーラを持ってレジの列に並んだ。土曜日の夕方でレジはとっても混雑していた。ジンロウはぼんやりとレジが進むのを待っていた。五分くらい待ってジンロウの番がやって来る。レジを打っているのはアルバイトの真田さんだった。下の名前は知らない。錦景女子大の三年生で、文学部で、背が小さいというのがコンプレックスだ、ということくらいしかジンロウは知らない。けれど仲が悪いということでもない。彼女とは気軽に仕事の愚痴をいい合い莫迦笑い出来る仲だ。
「お疲れぇ、今日も忙しくて死にそう、」真田さんは唐揚げ弁当とメロンパンとコーラをゆっくりとレジに通しながら後ろに並んでいるお客に聞こえないようにジンロウに顔を寄せて小さく言った。「今日は何時上がり?」
「九時」ジンロウは袋に唐揚げ弁当とメロンパンとコーラを入れながら短く言う。
「私も九時、飲みに行かない?」レジのキーをタンタンと大きな動作で叩きながら真田さんは言う。「はい、五百二十二円になりまぁす」
「いいですよ、」ジンロウは小銭を出しながら言う。「今夜は家に帰ってもご飯がないんで」
「よし、」真田さんは笑顔になってレシートを差し出す。「いってらっしゃい、ごゆっくりぃ」
そしてジンロウはサービスカウンタの方を迂回して店内を通って休憩室に向かった。その途中だった。買い物カゴを持ったカナデの姿が視界に入った。ティッシュやラップや歯磨き粉が並ぶ生活関連コーナーで何かに真剣な眼差しを向けていた。ジンロウは一度そのまま通り過ぎたが、なぜか何かが気になった。とにかくカナデの真剣な眼差しを見て何かが気になったのだ。ジンロウは立ち止まりくるりと反転して通路を戻った。カナデはまだそこにいて、真剣な眼差しを何かに向けて立ち尽くしていた。その何かとは包丁だった。フライパンと食器のコーナの間にあって整然と並んだ包丁の前にカナデは立ち尽くしていて、それに笑顔もない鋭い視線をぶつけていた。ジンロウは息を吐いて吸い、呼吸を整えてからカナデの方に向かった。ジンロウはカナデが包丁を選んでいるということが凄く気になった。なぜ気になるのか、ジンロウは自分のどこかが気になっていることについてまだ説明が出来ない。けれど気になっているということは確かだった。ただの気がかりだが、確かな気がかりだ。それは何ら意味のない気がかりかもしれない。けれど実は意味があり説明が付く気がかりなのかもしれない。そしてジンロウは自分のどこかが抱く気がかりの九割以上が意味があり、後になって説明が付くことなのだと知っていた。別に自分が超能力者だとか魔法使いだとか言うつもりはない。ただ空や森や人の何の変哲もなくはないという様子に気付きやすいというだけだ。
だからジンロウはカナデに歩み寄り「當田さん」と声を掛けた。
カナデはビクッと肩を震わせ、彼女の顔とは思えない顔をジンロウに向けた。そして前世の遠い記憶をたぐり寄せるようにして、そこに笑顔を被せた。「あ、枕木君、仕事終わったの?」
「休憩中、」ジンロウは短く言って視線を包丁が並んだ棚の方に向けた。「もしかして包丁持ってないの?」
「もしかして莫迦にしてる?」カナデはぎこちない笑顔のまま片方の頬を膨らませた。「持ってないことなんてないわよぉ、ただ切れ味がすこぶる悪いものだから新しいの買おうかなって悩んでて」
「真剣に悩んでいた」
「そうよ、真剣に悩んでいたの、」カナデはジンロウの言葉を繰り返す。「本当に真剣に悩んでいたんだから、悪い? よく切れる包丁を手にしたら自炊の頻度が上がるかもしれないと思ったの、枕木君が指摘したことだよ、笑わないでよね」
「笑わないよ、素晴らしい心がけだと思う、選ぶの手伝おうか? 一応、肉を裁くのは巧いんだ」
「ううん、」カナデは小動物みたいに小刻みに首を振り箱に入った包丁を手にした。カレーを作るにしては大き過ぎる包丁だった。「これにする」
「大き過ぎない?」
「そんなことないでしょ」
カナデはそっけなく言って笑い、そして笑顔を線香華火の終わりのように消した。それからカナデはなぜかじっとジンロウの顔を上目で、何かを探るように、あるいは何かを探って欲しがるように見つめて来た。黙ったままカナデはジンロウのことを見つめ続ける。ジンロウは視線を逸らしてしまいたかった。けれどそれからは逃げられないと思った。逃げてはいけないのだと思った。カナデが見つめている間はそれから逃げてはならない。カナデの濡れた瞳の表面が放つ何かを解き明かすまでは逃げてはならない。この瞬間からの逃亡は、どこまでも大きなものを失いかねないとジンロウは強く思った。逃亡に認可は絶対に降りない。そして解き明かさなくてはならない。制限時間内に。
そうだ。
この瞬間には制限時間がある。
つまり時間切れになったら何もかもがお終いだと言うことだ。いや、つまりもなにも、そういうことなのだ。カナデが濡れた瞳の表面が何かを放っている間に答えを摘出しなくてはならない。急がなくちゃいけない。
けれどジンロウはそのためのよすがのようなものを持っていなかった。
「じゃあね」カナデはベルを軽く弾いたような声で言った。
時間切れだ。
カナデはジンロウから視線をはずし、期待はずれね、とでも言いたげにくるりと背中をこちらに向けてレジの方に向かおうとする。
「ちょ、ちょっと待って、」ジンロウの口はほとんど勝手に動いていた。ジンロウのある部分は強く、どこまでも大きなものを失ってはならないと激しく主張し揺さぶっている。「當田さん、せっかくだし俺の休憩に付き合ってくれない? ほら、店の隣に公園があるでしょ、そこのベンチで待ってるから、ちょっと、そうだな、シノブ君についての話でもしませんか?」
カナデはこちらに振り返り少し迷う素振りを見せてからゆっくりと頷いた。
ジンロウはほっと息を吐く。
まだ時間切れじゃない。
けれど急がなくちゃならないことには変わりない。




