表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
恋の縁術師(the Secret Affair)  作者: 枕木悠
第六章 未来(FUTURE)
77/85

第六章⑦

 錦景市は黄昏の五時。

 シノブはG大に近いカナデが住むマンションの部屋の扉の前まで来て、そしてインターフォンを強く押し込んだ。ピンポーンといやに響く音が部屋の中から廊下にいるシノブに確かな質量を持つ塊になって聞こえた。シノブはカナデの応答を十秒間、数えて待った。八、九、十と数えたところでもう一度インターフォンを鳴らした。今度は数を数えなかった。そしてすぐにカナデはここにいないのだと判断した。外から見て部屋のカーテンはしっかり閉じられていたし、電気も点いていなかった。念のためにシノブは電話を鳴らしてみた。けれど、カナデの部屋で何かが動いている気配は感じられなかった。まるで脱皮の後の抜け殻のように簡単に風に吹き飛ばされてしまいそうなほどの静けさがあった。シノブは扉の前から去り、そしてエレベータのボタンを押してから思い直して再びカナデの部屋の扉の前まで行き、拳をぐっと握り締めドンドンドンと強くノックした。

「カナデ! いないの!?」

 シノブの声は廊下で反響して凄くやかましかった。しかしシノブは近隣の住民の迷惑を考えたりする余裕はなかった。シノブはなぜか、余裕がなかったのだ。焦燥していた。八月十五日の土曜日にカナデとこうもすれ違ってばかりいるのには、たいした理由はないのかもしれない。シノブはそうだと思う。カナデに会えない理由はなんでもないことなのかもしれない。けれどそう思う反面、シノブはこのままカナデと二度と会えない可能性を考えていた。要するにカナデは三島先生のいる世界に行ってしまったのではないか、ということを。「カナデ、いるなら返事をしなさいよ!」

 シノブはノックする自分の拳の側面が赤く腫れ上がっていることに気付き、そうすることを止めた。遅れてその部分の内側から弱い炎で肉を炙られているような痛みを感じた。シノブは舌打ちして扉の前から離れる。そしてエレベータで一階に降りてエントランスを抜けてマンションを出た。シノブは路肩に停めていたムーヴに戻りエンジンを掛け煙草を吸った。目を瞑り肺の隅々まで煙を送り込みながら「カナデに会いたい」と呟く。

 脳ミソがすっとクリアになったタイミングでシノブは一つ思い付いた。スマートフォンで発信履歴からカナデが所属するピンク・ベル・キャブズの番号を探し、そこに電話を掛けた。向こうはツー・コールで電話に出た。「お電話ありがとうございます、ピンク・ベル・キャブズの甲原と申します」

 甲原という人は相変わらず酒に酔った風なハイテンション具合だった。

「カナちゃんは今日出勤してるかな?」シノブはハンドルに片手を乗せ聞いた。

「すいません、本日カナちゃんは午後のお昼から出勤予定になっていたと思うんですけれどぉ、まだ出勤していないんですよぉ、こちらからも連絡がつかなくってぇ」

「ああ、そうなんだ」

「はいぃ、」甲原は頷いてから慌てて付け加える。「あ、でもすぐに連絡は付くと思いますのでそれまでお持ちいただけるのでしたら、」

「そういうのって、」根拠のないこと言うんじゃないよ。シノブは彼女の言葉を遮って語気強く言った。「よくあることなの?」

「はい?」少したじろいでいるのが彼女の声音から分かる。

「カナデが、」シノブは咳払いをして言い直す。カナデはこの店では、カナちゃんという名前なのだ。「カナちゃんが無断で休んだり連絡が付かないことってよくあることなのかな?」

「いいえ、」甲原の返事は早かった。「カナちゃんに限ってはそんなことは今までほとんどなかったのでぇ、私どもも心配しているんですよぉ」

「それってもう二度とカナちゃんに会えないかもしれない可能性があるってこと?」

「いや、」甲原は短く否定して、それから少し言い淀み、無理に明るい声を出す。「そ、そんなことはありませんよ、ちょっと何か理由があって連絡が付かないだけで、もう二度と会えないなんてことはないと思いますよぉ」

 根拠のないこと言うんじゃないよ。

 シノブは苛立っていた。

 けれど甲原の甲高い声は最後の救済と導きの声のような気もした。

 もう二度と会えないなんてことはないと思いますよぉ。

 希望が沸き上がってくる、とまではならないけれど、どこかに希望が隠されているような気が、少しした。「本当にそう思う?」

「はい、」甲原は少し戸惑いを声色に含ませていたがすぐにそれを消し、とびっきり明るい声で言う。きっと今のシノブみたいに面倒臭い話を電話越しでしてくる客が多いのだろう。彼女は終始戸惑っていたが、その戸惑いには慣れがあった。女の子と連絡が付かないことにだって慣れている。そんなことは日常茶飯事で、そんなことにいちいち気を揉んでいたらとても仕事にならないのだろう。女の子たちは甲原にとっては通り過ぎる存在なのだ。決して留まることはなくどこからかやってきてどこかに消えてしまう、泡沫の存在。そんなことは自明のことで、自明のことだからこそ甲原はきっと、カナデの不在をうまく処理出来るのだ。シノブには出来ないことが彼女には出来る。「あ、それよりもお客様、本日入店したばかりの十八歳の可愛い女の子がいるんですけれど、今ならすぐにご案内出来ますがいかがですかぁ?」

「悪いけど、また今度にするよ」

「そうですか、」甲原は淡泊に言う。「それでは失礼いたしますね」

 甲原はガチャリと電話を切った。

 ツーツーツー、という音をしばらく聞いてから、シノブはスマートフォンをダッシュボードの上に投げ捨てるように置いた。斜陽が正面のウインドからきつく入り込みシノブの視界を滲ませている。夏の太陽はどこまでもギラギラしている。大地に堕ちる直前まで、体の中にまで迫り食い込んでくるような力強い光を失わない。むしろ堕ちる直前にこそ、濃い赤に染まり、激しく燃えているようだった。ノックし続けていた右手はじんわりと炎症を続けている。右手はハンドルを握った。左手はステレオの電源を入れた。右足はアクセルを踏む。

 とにかく今はどこかへ行くために踏み込むべきときだと思う。

 GーFMはうってつけのBGMを電波に乗せて、拾わせていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ