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恋の縁術師(the Secret Affair)  作者: 枕木悠
第六章 未来(FUTURE)
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第六章③

 錦景市は午前十時。

「雨が降るような気がする」

 ジンロウは晴天の夏空を見上げてからそう言って子供っぽく笑い、自転車に跨がりバイト先のライフラインというスーパーマーケットの方角に走っていった。ユウが綺麗に洗濯物を庭に干していたが、空は洗濯物を干すのにうってつけの空だったが、ジンロウの天気予報の精度を信頼していたシノブは空模様に関わらず洗濯物が乾いた段階で取り込んでおこうと決めた。

 ジンロウが出かけてから少し経ってからコレクチブ・ロウテイションのTシャツを纏ったキティが枕木邸のベルを押した。キティのTシャツはユウが着ているそれとは違っていて、黒地に胸元に紫のアルファベットでアイ・アム・ア・エレクトリック・ジェネレイタ・ガールと書かれていた。私は発電機少女とは一体何のことだろう、とシノブは首を捻ったが、おそらくコレクチブ・ロウテイションの曲にそのような歌があるのだろう。「それじゃあ、シノブ君、ライブ会場で落ち合いましょう」

 シノブは玄関で三人を見送ってからカナデに電話をした。昨夜、相手してあげられなかったことを謝って、そして今日のエクセル・ガールズのライブにカナデを誘おうと思った。カナデは今夜のライブのチケットをすでに持っているかもしれないし、フミカが言ったようにライブに、おそらくスズメによって、招待されているのかもしれない。誘う必要なんてないのかもしれないけれど、シノブは自分がカナデを誘うことには意味があるような気がしていた。以前会ったとき、カナデはどこか憔悴しているように見えた。そしてそのときも、昨夜もカナデはシノブのことを何らかの理由で必要としていたのだ。シノブを強く必要とする理由がカナデにはあるのだ。それはスズメに寄せる彼女の恋心のせいかもしれないし、そうではなく全く違う何かのせいなのかもしれない。その何かはシノブには想像出来ないけれど、そのヒステリックに薫る何かはカナデにシノブを必要とさせている。

 カナデは着信に出なかった。すぐに留守電に切り替わりシノブは用件を短く纏めて吹き込んだ。おそらくカナデはまだ眠っているのだろうとシノブは思った。まだ午前中だ。カナデは規則正しい生活を送っているとは言い難い。正午過ぎまで爆睡していたっておかしくはない。目が覚めたら折り返しの電話を掛けてくるだろう。

 シノブは一端カナデのことを考えるのは止めて、枕木邸の静かになったリビングに中世史に関する専門書を一冊持ってきた。そして珈琲を淹れてソファに沈むように座って読書を開始した。フミカの言う風雅な時とは全く違うだろうが、シノブにとってはまさにこのときこそ風雅と言うべき時だった。シノブは時間を忘れて中世史に没頭した。中世史の山の民と海の民とそれから悪党と呼ばれた漂泊的な人々について書かれた論考だった。シノブはとても興味深く読み進めていった。

 ふと、本から視線を上げ時計を見やればすでに時刻は正午を回っていた。シノブは本をテーブルに置き、丸まった背中を伸ばし縮こまった手足をうんと伸ばした。大きく息を吸って大きく息を吐き、そう言えばカナデから折り返しの電話がないことに気付く。シノブはスマートフォンを取り出し画面を見つめ、カナデからの電話がないことを確認してから、少し迷ってもう一度電話を掛けてみることにした。けれど今回もカナデは電話に出なかった。もしかしたらまだ眠っているのかもしれない。

 シノブは小腹が空いたので冷蔵庫からプリンを探し出して読書しながら食べた。そして再び中世史の世界に意識の全てが入っていく。そして次にはっとなって現実世界に戻ってきたときには錦景市は午後の二時だった。シノブは本を置き、ソファから立ち上がって炎天降り注ぐ庭に出て洗濯物の乾き具合を確かめた。洗濯物たちには一切水分と言うものが感じられなかった。乾き過ぎというくらい乾いている。雨が降る様子はまだ広い空のどこにもなかったが、シノブはジンロウの天気予報を信じて洗濯物を取り込みそれを畳みそれぞれが仕舞われるべきところに仕舞い込んだ。その途中でシノブはジンロウのパンツの匂いを嗅いだ。ジンロウのパンツの匂いを確かめた自分の心理がシノブは謎だった。気がついたらシノブはジンロウの乾きたてのパンツの匂いを嗅いでしまっていたのだった。そのユニオン・ジャック柄のパンツは、当然ながら、太陽の匂いがした。

 さて、リビングに戻りソファに腰掛けたシノブはスマートフォンの画面を確認した。カナデからの着信はない。シノブは変だな、と思って息を吐いた。もうさすがにいくら不規則な生活を送っているカナデだってベッドから出てスマートフォンを確認している頃だろう。シノブは再びカナデに電話を掛けてみた。やはりすぐに留守電に切り替わる。おかしい、という気持ちが強くなる。どうして出ないのだろう? 今までカナデはシノブにこれほどまでにじれったい気持ちにさせたことはなかった。もしかしたらスマートフォンを家に忘れてどこか出かけてしまったのだろうか。あるいはカナデはスマートフォンをどこかに落としてしまって誰にも拾われることなく放置されたままになっているのだろうか。あるいはカナデは何らかの理由で着信に出られない状況に陥っているのだろうか。もしかしたら昨夜、シノブに電話を掛けてきた後にカナデの身に何かがあったのだろうか。その何かにシノブは血の匂いを想像せずにはいられなかった。事件性を考えずにはいられなかった。カナデはアイドルになったっておかしくないくらい綺麗で可愛い女の子だ。そして華奢で小さい。男に何かされてしまったら、カナデはそれに刃向かうための術を持たないのだ。車に押し込められてしまえばそこから脱出するための方法なんてないのだ。カナデは誰かに守られるべき女の子で、決して一人で夜の町を歩いてはいけない女の子なんだ。嫌な想像がシノブの頭を満たす。そしてどうして昨日カナデの元に行ってやらなかったんだ、と強く昨夜の自分を攻めた。もしかしたらカナデは自らに忍び寄る危険性を無意識的に察知して、それが何か分からなくてもとりあえず一人ではいてはいけないと思ってシノブに電話を掛けてきたのかもしれない。カナデにもそんなつもりはなかったのかもれないが、あの電話はSOSのサインだったのかもしれない。あの電話がカナデを救うために繋がっていた最後の糸だったのかもしれないのだ。シノブが頭から水を被って目を覚ましてすぐにカナデのところに行ってあげれば、何もかもが違っていたのかもしれないのだ。

「・・・・・・いや、まさか」

 シノブはそこで嫌な想像を振り払うように大きく首を横に振った。考え過ぎた。カナデはただ、何らかの理由があってスマートフォンの傍にいないだけだ。あるいはまだ、目を覚ましていないだけだ。大丈夫、とシノブは自分に言い聞かせる。声に出した。「カナデは大丈夫」

 そう言ってはみたものの、とにかくシノブは中世史に没頭できる状態ではなくなっていた。カナデのことを確かめないではいられないでいた。じっとしてなんていられなかった。シノブはパジャマを脱ぎ着替え乱暴に髪に櫛を入れて整え紫色のムーヴに乗り込みカナデが住まうマンションを目指した。


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