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恋の縁術師(the Secret Affair)  作者: 枕木悠
第六章 未来(FUTURE)
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第六章②

 土曜日の朝、中島シノブは覚醒してベッドから身を起こすと全身が妙に気だるいことに気付いた。風邪でも引いたのだろうか、とシノブは自分の首筋を触った。特別熱があるような感じもない。喉とか鼻にも異常はないと思う。どうやら昨日のレコーディングの疲れがまだ抜けていないようだと思ってシノブは枕元の時計が朝の七時を示しているのを確認してから再びベッドに横になった。しかしもう一度眠りにつくことが出来なかった。微睡みの中で脳ミソが勝手に中世史について考え出してしまって一つの論証を開始した。それは留まることなく次から次へと論理的な展開を見せて膨らんでいく。これはまたとない発想の展開なのかもしれない。シノブはそれを見過ごすことは出来ずに、ベッドから出て机に向かいノートを開き、先ほど自分の脳ミソが考えていたことを思い出しながらボールペンを走らせていった。しかし文字にして文章にして見ると分かる。微睡みの中行った論証は全く大したことではなかったということが。凄く大したことを考えたような気がしたがそんなことはまるでなかった。単純に、そして抽象的に薄く広がったものを微睡んだ脳ミソはそれを複雑で具体的なものを読み解くための何かになり得ると錯誤したようだった。眠い目を擦りベッドから出てまでメモする必要性のないものだった。こんなことなら今まで何度も考えては棄却してきている。

 シノブはノートを閉じて再々度ベッドに横になり眠るための準備をした。しかしすでに眠気は目の前を随分前に通り過ぎてしまったようだった。シノブはすぐに起き上がって椅子に座りスタンドに立てかけてあるギターを手にした。そしてチューニングを合わせ、コード進行が書かれた一枚のルーズリーフを頼りに忘却のための機械の練習を始めた。夏の終わりにジャパニーズ・シークレット・アフェアはライブをやる予定だが、それまでにシノブはこのコード進行を何も考えなくても手が勝手に動くという風になるまで覚えなくてはならなかった。レコーディングのときはシノブのパートまで松平チカリコが演奏してくれたが、ライブではもちろんそうはいかない。シノブのパートはシノブが弾かなくてはいけない。チカリコはシノブに完璧なものを求めてくる。シノブはそれに答えなくてはならない。しかしそんな強い気持ちとは裏腹にギターは中々上達しなかった。自分の声のように思い通りとはならない。そして思い通りにならないギターは声の方も狂わせる。とにかく練習が必要だ。

 一時間ほどギターを触りコード進行が全て頭に入った頃に枕木ユウが朝食の準備が出来たとシノブを呼んだ。ダイニングに入るといつも通り完璧な朝食がテーブルの上に用意されていた。そして枕木ジンロウも枕木フミカもユウも、それぞれに寝間着からどこかへ行く装いに着替えていた。シノブだけパジャマ姿で、そう言えば顔も洗っていなかった。寝癖だってそのままだ。ジンロウは今日も夕方までバイトがあるようでピンストライプの白いワイシャツに紺のスラックスという格好で、フミカはなぜか彼女が通う錦景女子高校の夏のセーラ服姿で、ユウはサイズが少し大きいと感じられる黒いTシャツを被るように着て水色のホットパンツを履いていた。黒いのTシャツの胸元には白勝ちの桜錦が孤独に泳いでいる。

「今日はね、シノブ君、」朝からいつになく愉快そうなフミカは教えてくれた。文学少女特有の陰のようなものが今日のフミカに見られない。「コレクチブ・ロウテイションのライブがあるんだよ」

「これくちぶろうていしょん?」

「知らない?」

「うん」

「まあ、まだメジャーデビューしてないからね、シノブ君が知らなくても無理ないか、コレクチブ・ロウテイションっていうのは錦景女子高校の軽音楽部出身のロックンロール・バンドでね」とフミカは上機嫌にコレクチブ・ロウテイションというロックンロール・バンドが起こした様々な伝説について語り始めた。シノブは朝食を着実に食べながら静かに耳を澄ませて聞いていた。そのバンドの曲を実際に聞いてみなければフミカを熱狂させるものの正体は具体的には掴めないけれど、フミカとチカリコの二人がそのロックンロール・バンドの大ファンだと言うことは彼女の口調から凄くよく分かった。それから錦景女子(錦景女子高校に通う生徒は自分たちのことを錦景女子と呼ぶようだ)はコレクチブ・ロウテイションのライブには錦景女子高校のセーラ服を来て参戦するというしきたりのようなものがあるのだと教えてくれた。だからフミカは学校もないのに麗しいセーラ服を纏っていたのだ。「あ、今日のライブはね、エクセル・ガールズとの対バンなんだよ」

「へぇ、そうなんだ」シノブはエクセル・ガールズと聞いて當田カナデのことを考えずにはいられなかった。

 カナデの森永スズメに対する熱い気持ちは今、どのような形でどのような状況の中を漂いどのような色に包まれているのだろうか。

「シノブ君も来るよね?」ユウが可愛い上目でシノブのことを見て当然のように聞く。「どうせ、家にいても本ばっかり読んでるんだからたまには飛んだり跳ねたりして体動かさなくっちゃ駄目だよ」

「そうだね、」確かに大学生になってから運動らしい運動なんてしていない。シノブは苦笑しながら頷いた。以前行ったエクセル・ガールズのライブは凄く楽しかったし、コレクチブ・ロウテイションというロックンロール・バンドにも興味があった。姫様が大好きだっていうバンドなんだから気にならないわけがない。「でも、フミちゃん、僕の分のチケットはあるの?」

「ちーちゃんがしっかりと確保してあるから大丈夫だよ、それにチケットがなくったってマナミさんに言えば何とかなるだろうし」

「時間は?」

「錦景市の夜の七時」フミカは歯切れよく答える。

「よし、分かった、」シノブは頷く。「カナデを誘って行くよ」

「カナデさんだったら招待されてるんじゃないかな?」

「招待?」

「あ、ううん、」フミカは意味深に慌てて首を横に振り、そして何かを誤魔化すように笑った。「なんでもないよ、……あ、私とユウとキティとお姫様は先に向こうに行ってエクセル・ガールズの皆さんと、それから運が良ければコレクチブ・ロウテイションの皆さんと、喫茶ドラゴンベイビーズで風雅な時を過ごす予定だけどシノブ君はどうする?」

「風雅な時」シノブはその言葉をただ繰り返した。

「そう、風雅な時、」フミカはやはり意味深に微笑んでいる。文学少女特有の陰が、ここでやっと彼女の顔に浮かんだ。「いつも通りお茶しておしゃべりするだけだけど、多分、今日はいつもとはちょっと違う風雅な何かが起こりそうな気がするんだわ」

「いつもとはちょっと違う風雅な何か、」シノブはまたフミカの言葉を繰り返した。そしてゆっくりと首を横に振った。「開演の三十分前くらいに行くことにするよ、昼間は本を読んでいたいし、それに実を言うと僕は女の子たちとお茶しておしゃべりするっていうのがあんまり得意じゃないんだ、得意じゃないし経験もほとんどない、いつものメンバだったらまだしも、知らない女の子たちが来るかもしれないなら、悪いけど遠慮させて」

「得意じゃない? そんなことないと思うけど、」フミカは探るような目をしてシノブを見た。そしてその目を不思議なものを見るような目に変えた。「ま、シノブ君がそう言うなら、それじゃあ、現地で合流ということで」

「うん」シノブは頷き牛乳を飲んだ。

 風雅な時とは一体どんな時なのだろうか。

 僕にはきっと想像も出来ない世界だ、とシノブは思った。


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