第五章(21)
八月十四日の金曜日。
ジャパニーズ・シークレット・アフェアのチカリコとフミカとジンロウとシノブの四人は錦景第二ビルのファウンデーションという音楽スタジオに朝から入りレコーディング作業を続けていた。シノブはこの日も大学の図書館に籠もり文献を読み漁る予定でいたのだが、姫様の命令は絶対だ。刃向かうことは決して許されることじゃない。シノブはまるで従順な家来のように姫様に頷いた。いや、シノブは今となっては姫様の従順な家来だった。
木曜日の夜、シノブはチカリコから渡された新しい歌のデモを何度もリピートして聞きその旋律を体に染み込ませ、声に出しながら詞を頭に叩き込んだ。デモはチカリコの風雅な歌声とアコースティック・ギターの音色とフミカのエレキ・ベースで簡単に構成されていたため、この新しい歌が最終的にどのように仕上がるかは分からない。しかしこの新しい歌は、チカリコのピンクの髪が見るものに与える破壊的な衝動と密接にリンクしているかのごとく、今にも破裂して一瞬で世界の風景を変貌させてしまうほどの力を中に秘めたロックンロールだということは間違いなかった。新しい歌はシノブを夜というものを忘れさせた。時間の感覚と、それから自らが今どこにいるのか、ということも忘れさせた。シノブはその歌を聞きながらN県にある実家の自分の部屋にいない自分のことを不思議だと思った。どうして僕はここにいるんだろう、とシノブは枕木邸の自室を見回した。ここは紛れもなく自分の部屋だ。シノブの春からの自分の部屋はここで、そしてシノブの世界の中心はG県の錦景市にあるはずなのだ。しかしここが自分の世界の中心だと言うことに限りない違和感を覚える。その新しい歌によって覚えさせられた。自分を取り囲む時間と空間の輪郭と、そして概念すらも曖昧になって、体が解け出して水のような何かに混ざって薄められているような不思議な感覚に激しく襲われてくる。そしてシノブは何かを忘却して一筋の涙が頬を伝った。何が忘却されたのかは忘却された後になっては分からない。しかしその忘却された何かというのはシノブの心に刺さっていた針のようなものだというのは何となく分かった。その針によってきっとシノブは今まで、その存在に気付くこともなく、痛めつけられていたのかもしれない。針を取り除いた後の微かな痛みの残響は心にまだある。すでに取り除かれてしまった今、その痛みの要因は知る由もない。知る必要もない。そのために新しい歌は忘れさせたのだと思う。体が軽くなったような気がする。姫様が忘却のための歌を意図して作ったかどうかは分からないが、とにかく不思議だった。チカリコは魔法のようなものを使ってこの旋律と詞を産み出したのではないかと思った。この世界に何一つ説明出来ないことはないのだけれど、説明出来ないと思わせることなら出来る、というのはシノブのことを縁術師に誘ったときのジンロウの言葉だった。この新しい歌は縁術の一種なのだろうか、とシノブは考える。この旋律と詞が及ぼす影響はチカリコには説明可能なことであり、シノブの体に訪れた激しい忘却は新しい歌の仕業だったのだろうか。そして最終的にこの歌はどれほどの力を持ちうるのか。この新しい歌の名前をまだシノブは知らない。
金曜日の正午過ぎにはチカリコとフミカとジンロウはそれぞれのパートを慣れた風に簡単に録り終えて、残るはシノブのボーカルだけになっていた。シノブはこの新しい歌に苦戦していた。レコーディングというものにまだ慣れていないということもあるが、歌が持つ力に圧倒されてしまって最後まで歌いきることが難しかった。どこかしらで些細に躓いてしまう。歌い出してすぐに盛大にひっくりかえってしまうときもある。録音機材を操作しながらフミカは心配そうにシノブのことを見つめていた。ジンロウは優しい微笑みを顔に浮かべて何度も励ましてくれる。チカリコはコーラを飲みながら、新しい歌に苦戦しているシノブを細めた目で見ながらけけけっと笑っていた。その顔は、この歌を簡単に歌いきってもらっては困ると言っていた。チカリコはシノブに完璧な歌声を求めている。それはスタジオの一室を一日借りているということからも分かるし、いつも以上に真剣なチカリコの眼差しからも分かるし、そのピンクの髪の煌めきからも分かった。ピンクの髪のチカリコは本当に素敵だ。素敵なピンクの姫様に完璧を求められるということも、シノブにとっては大きなプレッシャになっていた。それは中世史研究によって抱くことの出来ない種類のプレッシャだ。誰かに求められるということは、個人の枠内で収まりがついてしまう中世史研究においては基本的にない。中世史研究はあくまで個人プレイで、その発展と転換は、研究者の際限ない探求心に大いに寄っている。言わば自らに期待し、自らに期待されているわけだ。そこに緊張や震えがないとは言わないが、他人に期待されているという重圧や責任はほとんど感じない。それとは関係なくとも、シノブは他人から何かを期待されるということが苦手だった。期待されればそれを絶対にクリアしなくてはならないと思って緊張して普段よりも駄目になる。そして落胆される。次は絶対に期待を裏切ってはならないと思ってさらに緊張する。その繰り返しで期待に対して弱くなった。まして今は、ピンクの姫様に期待されている。緊張しないわけがなかった。主君の期待に応えるのが家来の責務だ。シノブの先祖の中島家は古い時代、信州松平家の家臣だった。チカリコは上州松平家の子孫だ。そこに何か繋がりのようなものを、シノブはこの瞬間に強く感じた。昨夜、運命を否定したばかりのシノブはまだ、中世史学的唯物論者になりきれていない弱い部分を持っているのだと思う。
「シノブ君、」何十回目のリテイクを失敗したときにチカリコは優しくシノブの名前を呼んだ。「中断して、お昼にしよう、お腹がぺっこりんちょだわよ」
時計を見ると時刻はすでに午後の二時を回っていた。シノブは不甲斐ない表情を浮かべてチカリコの提案に頷いた。そして四人はスタジオを出て地下街のマクドナルドに入った。全員クォータ・パウンダのセットを注文して、フロアの一番奥で、トイレの傍で、オレンジ色の照明がパーティションによって遮られ、妙に雰囲気のあるテーブル席に着席した。
シノブはクォータ・パウンダにかじり付いてから自分がとても空腹だったことに気付いた。緊張によって空っぽの胃から送られてくるサインは脳ミソまで届いていなかったようだ。シノブは夢中でクォータ・パウンダとポテトを口に入れて薄いアイス珈琲でそれを流し込んだ。そんなシノブの様子をチカリコはポテトをかじりながら静かに見守っていた。見守っている、という風な微笑みを浮かべた優しい表情だった。チカリコは自分のクォータ・パウンダをシノブに勧めた。チカリコは小食だ。そんな彼女がクォータ・パウンダを食べるなんて変だと思っていたが、それはシノブにもう一つ食べさせるためだったようだ。シノブは躊躇うことなくそれを手にして頬張った。空腹は満たされ、胃が重さを持ち、目元にじんわりと眠気が広がった。
シノブはフミカが繰り返す冗談を聞き流しながら一度目を瞑った。
体は心地の良い脱力感に包まれる。
どこか深いところにゆっくりと墜ちていく羽根のように吸い込まれていく。
はっとなってシノブは目を開けた。
目を開けてみればシノブは畳の敷かれた和室にいた。
すぐにここは城の天守だと分かった。小さな窓の向こうには澄み渡った青い空が見える。そしてその窓から微風が入ってきてシノブの肩まで伸びた黒い髪を揺らした。
どうしてここが天守だと分かったのか、シノブには不思議だった。けれどここは間違いなく天守だと言うことをシノブは知っていた。ここは烏城の天守。そしてシノブは自分が黒糸縅の鎧を纏っていることを無条件に受け入れていた。
桜錦が孤独に泳ぐ風雅な着物の袖をたすき掛けをして纏め、額に鉢金を着け、長刀の切っ先の煌めきを確かめている、シノブのところから一段高くなった場所に座している姫様の存在を無条件に受け入れていた。
その横には巫女装束のような白い服を身に纏い静かに佇むフミカの姿がある。
浅葱縅の鎧を纏ったジンロウが、豪華絢爛な装飾が施された漆塗りの望遠鏡を覗き込みながら言った。「そろそろ潮時でしょう」
城下は騒がしい。
鉄砲の音。
爆弾が破裂する音。
逃げ惑う城下の民の悲鳴。
馬蹄が地面を蹴って走る音。
血を流しながら歪んだ刀を振り回す侍の咆哮。
それらは様々な方向から無数に聞こえ不協和音となって鼓膜を叩くように乱暴に震わせた。
炎が至る所で町を燃やし、細長くて黒い煙がいくつも立ち上っていた。
ああ、とシノブは絶望的な気持ちに呑み込まれていく。こんなにも空は澄み渡っているのに、今、僕たちは非常に危機的な状況の中にいる、今、僕たちは早急な判断と行動を迫られている、僕たちは急がなくてはならない。
シノブは姫様をまっすぐに見つめていた。
彼女の口から未来が下されるのを待っていた。
急いて、待っていた。
「焦るでない」
姫様は静かに、ゆっくりと風雅な声を天守に響かせた。そして右手をジンロウに伸ばした。
ジンロウはその白くて細くて完成された造形の右手をじっと見つめながら何かを躊躇うように、動かなかった。けれど姫様の右手はジンロウに向かって差し出され続けていた。姫様は歌い出す。麗らかな声で、麗らか過ぎて、この世界のものとは思えないほどに、透き通った声で新しい歌を口ずさんでいる。
ジンロウはその歌に包まれて、何かを決心したような目をして、姫様に何かを手渡した。その何かは黒くて鈍い光沢を放っていた。それはピストルだった。回転式連発銃。リボルバ。姫様はそのピストルの重さを確かめるように、右手を上下させてから、その銃口を自らのこめかみに当てた。姫様の鉢金は解かれフミカの手の中にあった。フミカは人形のように微動もせずに大粒の涙を流していた。
姫様は撃鉄を降ろし、銃口をこめかみに当てたまま、姫様の手は微動もしていない、風雅に微笑みシノブのことをまっすぐに見つめた。その間、姫様は新しい歌を口ずさみ続けていた。歌い終え、姫様の人差し指はピストルの引き金の上を滑り、具合のいいところを探していた。人差し指がピタリと止まった。姫様は確実に狙いを定めた。「これは忘却のための機械」
忘却のための機械。
姫様はそう言って、引き金を引いた。
炸裂音。
シノブは目を閉じた。
その瞬間、はっとシノブは目を開けた。
シノブはマクドナルドの妙に雰囲気のあるテーブル席に戻って来ていた。
目の前ではチカリコがけけけっと微笑んでいる。
シノブの体は火照っていた。どうやら少しの間眠っていたみたいだ。とてつもなく喉が乾いていて、シノブは氷が溶けてさらに薄くなってほとんど味のないアイス珈琲を一気に飲んだ。
「シノブ君、大丈夫?」チカリコが愉快そうに聞く。「疲れているみたいだけど」
シノブは首を横に振る。「平気、全然、大丈夫、レコーディングに支障はありませんよ」
それにしても奇妙な夢を見たものだ。チカリコとの因縁のようなことを考えてしまったからきっとあんな夢を見てしまったのだ。しかし鮮烈な夢だった。まるで前世の記憶が蘇ったように細部に至るところまでハッキリとしていた。もしかしたら僕らは前世の因縁によって再び巡り会うことになったのかもしれない、なんてシノブは思った。しかし即座にそんなわけがないと否定する。もしそうだとしたら僕は運命論者になるだろう、とそんなことを思いながらシノブは聞いた。「そう言えば、姫様、新しい歌の名前はもう決まっているんですか?」
「うん、」チカリコは目を狐みたいに細めて言った。「忘却のための機械」
シノブは一瞬固まった。
そしてあははっと大きな声を出して笑ってしまった。
ジンロウとフミカは急に笑い出したシノブのことを不思議そうに見ている。「シノブ君、急にどうしたの?」
「なんでもないよ、」シノブは頬杖付き、ピンクのチカリコのことを眺め見た。「なんでもない、本当になんでもないんだ、ただ、今凄く不思議な気持ちになっているんだよ、まるで縁術にかけられたみたいにさ」
「この世界に説明できないことなんてない、」チカリコは歯切れよく言って二本の人差し指で虚空に円を描いてそれを結ぶように動かしながら言った。「輪を作ってキュッと結んで受け入れて」
「はい、もちろんですとも」
シノブは大きく頷き、おそらくチカリコがかけた縁術を受け入れた。
そしてマクドナルドから音楽スタジオに戻り、レコーディングを再開した。今までの苦戦が嘘だったように、シノブは新しい歌を歌い上げることが出来た。忘却のための機械、という歌をシノブは完璧に自分のものにした。
これは縁術の成果だと思う。
不思議なことだが、これはきっと説明が出来ること。
そんなものに操られるのも悪くない。




