第五章⑳
「シノブ君の話はよく分からない、」キティは不機嫌そうに首を振りブロンドの髪を揺らした。「中世史学的唯物論者だなんて言われても中学生の私にはこれっぽっちも分からないよ」
「ごめんね、」シノブは素直に謝った。シノブは運命について語り終えて心地のいい疲労感のようなものに包まれていた。文書に記録したわけではないけれど、一つのトピックスについて自らの考えを纏め上げたわけだ。もちろん欠陥と言うべき不備がそこにはあるのだろうがしかし、その作業は学術的興奮と緊張をシノブにもたらしてくれた。キティの不機嫌はもっともなことだった。シノブは運命についてキティに語って聞かせたつもりだが、それはほとんど自分自身について向けられたものだった。自分が運命についてどう考えているのか、どう考え得るのか、その輪郭をくっきりと浮かび上がらせるための作業だった。おそらくシノブはキティの質問の意図とは全く異なる答えを提出したのだろう。キティはそれを受け取りたくない、という不機嫌な顔を見せている。でも受け取るだけ受け取ってもらなくては困る。例え読まなくたって理解出来なくたって、シノブの答えはそれ以外にないのだから。しかしシノブはそんなことを思っても口にしなかった。可愛い英国少女をこれ以上ヒステリックにはしたくなかったからだ。「苦手なんだ、人に分かりやすく、噛み砕いて自分の考えを説明するのが、小さい頃からよく言われたよ、友達にも、大人にも、シノブの考えていることはよく分からないって」
その言葉にシノブは何度も痛めつけられた。分からないと言われる度にシノブは自分の全てを否定されたと思って、腹を立てたり、悲しい気持ちになった。そして自分は他の人たちが考えない奇妙なことを考える変わり者なんだと自覚せざるを得なくなった。その度に傷が出来て痛みに耐えなければならなかった。それは頭をどこかにぶつけたり膝を擦りむいたり足首を捻ったりしたときに感じる痛みよりもずっと強烈だったし、なかなか消えなかった。心にはかさぶたのようになった傷跡が無数に残っている。しかしそんな強烈な痛みにも高校生になった頃にはシノブは慣れることが出来た。傷を隠して笑って誤魔化すことが出来るようになった。
「俺はよぉく分かったぜ、」ジンロウは腕を組み大きく頷いた。「シノブ君が考えていること」
「同じ中世史学的唯物論者として?」シノブはジンロウをまっすぐ見て聞いた。
「違う、そうじゃないよ、」ジンロウは首を横に振った。「俺はシノブ君みたいに本格的な唯物論者にはなっていないし、なれる気もしない、でも、ただ感覚的に分かるんだ、分からないわけがないと思うんだ」
「あははっ、」シノブは高い声を出して笑った。アルコールが少し回ってきて、愉快であることを抑えていられなくなったのだ。ジンロウの回答はシノブのことをかなりの確率で喜ばせるが、このときもそうだった。「分からないわけがない、それはなぜ?」
「シノブ君が言うことだからだよ」
「僕が言うことなら何でも分かる?」
そこでジンロウは顎をさすり少し考える素振りを見せた。「ああ絶対に、いや多分、分かる」
「どっちだよ」シノブは笑う。
「とにかく分からないわけがないんだよ」言ってジンロウはビールを一口飲んだ。
「ふうん、」シノブもビールを一口飲んだ。「分からないわけがないのか」
そして二人は目と目を合わせて、何の拍子もなく、笑い合った。
シノブの胸にこみ上げてくるものがあった。
嬉しい。
ジンロウという男に会えてシノブは嬉しいと感じている。
それは涙がこぼれてしまいそうなほど鮮烈な嬉しさだった。
運命は信じない。
けれど運命のようなものをシノブはジンロウに感じていることは確かだった。
中世史基礎講読の講義の時間に彼の隣に座り、彼と遭遇しなければ、シノブの夏はかなり違ったものになっていたと思うし、これほどまでに濃密に中世史に没頭できる環境がなかったら、運命を否定するためにはもっと時間が掛かったと思う。シノブにとって枕木家にいられるというのは最高の環境だった。ジンロウに巡り会うことが出来たことは、限りなく運命的な出来事だったとシノブは思わざるを得ない。そして無条件に、感覚的に、分かってくれる男がいる、というのはこれまでのシノブの人生になかったことだ。ジンロウの登場は劇的でも突拍子もないことでもなかったけれど、それはシノブの人生を大きく変えることになったことは間違いない。ジンロウはシノブが幼年期からずっと、おそらく無意識的に、待ち望んでいた男だった。運命の糸が二人を結んでいたとは思わない。二人の出会いは縁結びの神様も、縁結びの姫様も関わっていない偶然の産物だった。けれど互いに互いを待ち望んでいたことは間違いのない真実だったのだ。
僕はジンロウのことを欲しいと思った。
強く欲していた。
おそらくジンロウも僕のことを欲しいと強く思った。
だから僕はジンロウのことを手に入れることが出来た。
ジンロウは僕のことを手に入れることが出来た。
カナデに狡いと言われる筋合いはないのだ。
だから僕はカナデに枕木君は狡いなんて言わせたくなかったんだ。
「なぁんだ、心配することなんてないじゃない、」キティはブルーの丸い目でシノブとジンロウのことを交互に見てから、ユウの横顔に向けて言った。「ユウちゃん、私はユウちゃんの心配事が杞憂に思える」
「心配事?」シノブは首を捻って斜め前に座るユウの顔を見た。
「別に、」ユウはシノブから慌てて視線を逸らし、なぜか頬を染め、口を尖らせジンロウの方を睨んだ。「別になんでもないよ、ただジンロウが急に変なこと言い出したからさ」
「変なこと?」シノブは視線をジンロウに移す。
ジンロウは一つ咳払いしてから何か決心した目をして口を開いた。「……シノブ君は日曜日の夜、本当に美容室に行ったの? ほらだって何も、シノブ君に変化がなかったからさ、本当はどこに行ってたんだろうって気になって」
「ああ、」シノブは目を伏せ笑った。「なんだ、そんなこと気にしてたんだ?」
「そんなことって、」ジンロウは弱々しく言う。「そんなことってないでしょう、俺はずっとシノブ君に渡した二万円の行方が気がかりだったんだ、本当に」
「ごめん、実は日曜日の夜、僕は美容室には行ってない」
そしてシノブはジンロウに日曜日の夜はピンク・ベル・キャブズに行ってカナデと寝たということを包み隠さず話した、ということはなくエステに行って肌をつるつるにしてもらったと嘘を付いた。シノブがカナデと寝たということは、先ほどから沈黙している姫様しか知らない。「ほら、ユウちゃん、さわって見てよ、つるつるでしょ?」
シノブは左手をユウの方に差し出した。ユウはシノブの左手の甲を指でさすった。
「わっ、」ユウは驚いていた。「つるつるで、すべすべだ」
シノブは笑った。シノブの実家はN県の温泉街にあって小さな旅館を営んでいた。幼い頃から温泉に毎日浸かってきたシノブの体はつるつるですべすべなのだった。「ごめん、ジンロウ、別に嘘を付くつもりでもなかったんだ、ただ言いそびれただけで、ちょっと気分転換したかっただけで、だってエステに行きたいなんて言ってもお金出してくれないでしょ?」
ジンロウは曖昧に頷いた。そして安堵した風に息を吐いた。日曜日の夜にシノブの髪に変化がなかったせいでジンロウはきっと、もしかしたらシノブは自分以外の男と会っていただとか、そういうことを考えていたのかもしれない。その心配がユウに伝えられキティにも伝えられて、そして木曜日の枕木家の夕食にシノブは運命について語ることになったのだ。ジンロウは運命について語るシノブを見て、シノブの心を探ろうとしたんだと思う。
可愛いじゃないか、とシノブは思う。今夜はジンロウのことを強く抱きしめてやろう。
「そんなことより、」姫様の声が響きわたったのは唐突だった。チカリコの声にこの場の空気は強く巻いた弦のようにピンと張りつめた。「明日は新曲のレコーディングをする、デモテープを渡すからシノブ君、明日までにしっかり覚えてくるように、」チカリコはいつになく真剣に、そして威圧的にシノブの顔を見据えていた。「ええか?」




