第五章⑲
八月十三日の木曜日の枕木家の夕食はいつものように朗らかなものではなく、どこからともなく飛んできた緊張の針に突き刺されているようだとシノブには感じられた。その一因としてあげられるいつもと違う点は、鮮やかなピンクに髪が染まった我らが姫様のチカリコと、隣人のローリング夫妻の一人娘でブロンドヘアが素敵な和風英国少女のキティが同席しているという点だった。普段は四人で囲む夕食が、今夜は六人で、二人は示し合わせて来たわけではないだろうが、要するに縁術師である六人が集まったということになる。六人はダイニングのテーブルを囲み、フミカとユウが作った和風ハンバーグを黙々と食べていた。いや、ジンロウだけがテレビに映し出されていたお笑い番組を見てゲラゲラ笑っていた。見てて不快にはならないしそれなりに面白い番組だったが、ゲラゲラ笑えるほどの特別さは感じない番組だったがジンロウは最高の和風ハンバーグに一切手を付けず小学生の男子みたいにゲラゲラ笑っていた。それが鬱陶しくなったのか、ユウはリモコンを手にしてテレビの電源を消した。
「あ」ジンロウは小さく声を上げ苦虫を噛み潰したような顔をしたが、特にユウに不平を言うこともなく、静かに食事を再開した。
やってきたのはほとんど無音に近い静寂。
箸と食器が触れ合う鉄琴と木琴のちょうど中間くらいの音色と冷房が働いていることを主張する低い駆動音とそして自分が和風ハンバーグを奥歯で咀嚼している音。それらは混ざってシンフォニィを形成したりする気は一切ないようで、自分勝手に、本当に僅かに空気を揺らしている。
シノブはビールを一口のみ、何か話題がないかと視線を中空に彷徨わせた。沈黙は苦手ではないが、いつもの枕木家の夕食のような賑やかさがシノブは好きだった。その賑やかさにどっぷりと浸かって、その余韻を体に残したまま眠りに落ちる。それはシノブの一つの習慣だったし、それはシノブの心を充足させるものだった。煙草やアルコールやセックスで満たされない心のある部分を満たし、あるいは傷ついた心を治癒してくれる儀礼のようなものだった。シノブは今に、賑やかさを取り戻したかった。しかしこういうとき、簡単に場の雰囲気を変えるような話題を思いつかなかった。思いつかなければ思いつかないほどに焦って、どんどん頭が回らなくなる。そして思考は別の疑問にシフトする。
どうして六人は黙ったままなんだろう?
どうして僕は黙ったままなんだろう?
「シノブ君」
キティがシノブの名前を呼んだのは本当に突然だった。突然すぎて最初は誰が口を開いたのか分からなくてシノブは先に正面に座るジンロウの顔を見てから、その斜め横に座るキティの顔を見た。キティの青い目は鋭くシノブのことを睨んでいた。まるでサンリオの方のキティちゃんに睨まれているみたいに怖くなかったけれど、睨まれる理由がないのでシノブは少し驚き戸惑った。
「えっと、何?」
「シノブ君は運命を信じますか?」キティはシノブのことをストレートに見つめたまま歯切れよく質問した。
「運命を信じるかって?」シノブは苦笑する。「えっと、どうして急にそんなことを僕に聞くんだい?」
「いいから、」キティは語気強く言う。「運命についてどう思っているか、教えて下さい、さっさと運命について考えて、思いついたことを思いついた分だけ正直に話してみてください」
シノブはキティが放つ迫力に圧倒され、押し黙り、そしてキティ以外の四人の顔色を窺った。チカリコは何かを熟考しているみたいに、急に運命なんて言い出したキティのことなんて無関心に、機械的に食事を続けていた。フミカはそわそわと落ち着かない感じでチラチラとキティの様子を窺っていた。ユウはキティと同じ種類の、確固とした力強い意志を感じさせる目でシノブのことを見つめていた。シノブの正面に座るジンロウは顔を背けるようにビールを飲み、そしてじゃがいものポタージュスープをスプーンで掬って口に運び、席を立った。「トイレ」
「逃げようとしてんじゃないわよ」ジンロウの斜め横に座るキティがぞっとするほどヒステリック濃厚な声で言って、彼の腕を強い力で掴んだ。ジンロウの青い血管の浮き出た白い腕にキティの爪が深く食い込んでいるのが見えた。
ジンロウは狼狽え、情けない顔をして、椅子に腰を静かに降ろし、大きく息を吐き、「やれやれ」と首を横に振った。
そんなジンロウをキッと睨みつけ、キティは最後にぐぐっとジンロウの腕に爪を立てた。その瞬間にジンロウの顔は苦痛に歪み小さく悲鳴が上がった。
「さて、シノブ君、」キティは居住まいを正し、英国製の好戦的な笑顔を作る。「運命について、何か思いついたことはあるかしら?」
シノブはジンロウみたいに嘆息し「やれやれ」と首を振りたい気分だった。どうして運命について考えなければいけないのか、どうして考えたことを発表しなければいけないのか、どうしてキティはジンロウをトイレにいかせなかったのか、シノブは色んなことが不思議だった。こんな不思議な枕木家の夕食は初めてだ。もしかしたら僕のことを縁術にかけようとしているのかもしれない、シノブはふと思った。縁術師たちは何らかの理由があってシノブのことを縁術にかけようとしていて、つまり六人の集合と夕食の過剰な静寂とキティの運命についての唐突な問いは縁術のために欠かすことの出来ない、シノブの心を揺らして未来の選択肢を絞り込ませるための重要な演出なのだ。縁術をかけられている意味の方は全く想像が出来ないけれど、縁術の最中であるにも関わらず姫様がどこか上の空なのも気になるところだが、そう考えればキティの質問の不思議さ加減に、一応の納得は出来た。もちろんこの夕食の何もかもが漠然としか見えない、ということには変わりはないのだけれど、とにかく、シノブは運命について思うことを話そうと思った。いい思索の機会を与えられたと思えばいい。運命とは少し、いやかなり、壮大過ぎるテーマだと思うが。
「僕は、」シノブは髪を掻き上げ頭を別のモードに切り換えた。「僕は運命とは漠然になんらかの形でありえるとは思っている、思ってはいるけれど僕は明確な輪郭を運命が持ち得ているとは考えていない、考えられない、それは僕がある立場として、その立場として相応しい考えを持つべきであるしそれに基づいた発言を行うべきだと無条件に思っているからで、その立場っていうのは、中世史学的唯物論者の立場なんだ、僕は中世史研究をする学生として中世史研究者を志す者としてあらゆることについて、中世史学的唯物論者の立場で考えたいし発言したいと思う、もちろんあらゆる可能性は考える、そうしなかったらそこには暴力的なドグマが産まれてしまう、それに呑み込まれたらお終いだ、要するに様々な角度から物事を見て物事の可能性を考えて様々な結論を形や厚みや色や材質の違った様々な紙に描いては見るけれど最終的に僕はその中から中世史学的唯物論者として選ぶに相応しい答えを手にして飾り付けるわけだ、運命の存在については色んなことが考えられるし考えられ続けてきた壮大なテーマだ、古い時代に生きた哲学者たちの記述を引用して答えに結びつけることも出来るだろうし、言葉をどこからか借りてこなくたって愛する人を見つめ続けていれば答えは自然勝手に湧き出るように導き出されるかもしれない、君と巡り会えたのは偶然ではなくって運命だよって発言するまさにその瞬間に運命の存在を確かめているのかもしれない、あるいは表彰台に乗ってトロフィーを掲げた瞬間に、またあるいは十年前の日記を読みながら過去と現在を比較している瞬間に、人はそれぞれに運命の在り方について噛み締めその存在についての有無を、決着を付けるように、しかし無意識的に、確かめるんだと思う、さてそれでは運命について僕がどう考えるか、中世史学的唯物論者としての僕がだ、まず運命とは何か、それを明確にしておきたい、運命を僕なりに定義するなら、確定された未来、簡単だけど、これが一番しっくりと来る、そして確定された未来はすでに誰にでも用意されていて現在からその用意されたものに影響を及ぼし得ない状態、それが運命があるということだとする、僕はないと断言する、中世史とは、天体史とは、ヒストリィとは、適当偶然ランダムに地球上を運動し続けてきた人間によって積み重ねられた瓦礫の山なんだ、中世史学的唯物論者はその瓦礫の山の中から何かの欠片を拾い集め、あるいは何かの塊を掬い上げて、中世史の再現を試みる、その作業の中で決して行ってはいけないことがある、それは想像を確定させてしまうということ、要するに結論を先に置いてその結果を辿るのために都合のいい欠片だけだけに反応する装置を使って、都合の悪い者には一切反応しない、むしろ弾いて、瓦礫の中を探るということで、もちろんそれは歪んだ結論を導いてしまうし、歪んだ結論を提示した時点で中世史学的唯物論者としての資格は剥奪されたも同然なんだ、中世史学的唯物論者は瓦礫の山のあるがままを丹念に観察し時には望遠し、精確に、様々な欠片を見極めなければいけない、山の周囲には視界を曇らせる霧がかかっていたり、判断力を鈍らせる華の匂いが濃く漂っていたり、強い風が山から遠ざけようとするけれど、僕らはそれに堪え忍び中世史を記述する、中世史に運命はない、一切ない、運命のように見える場合の出来事もあるがそう見えるだけで運命ではない、全ての出来事には突発的な発端と合理的な理由と不合理な理由と無数の適当偶然ランダムによって構成されている、だから中世史に何があったって不思議じゃない、瓦礫の山からなにやら得たいの知れない背筋を凍らせるような何かが出てきたって不思議なことじゃない、つまり今に、何が起こたって不思議じゃないんだ、今なら未来のことは何だって変えることが出来る、運命なんてない、僕はそう強く考えるよ」
しゃべり終えたシノブは熱くなった額に冷たいビールが注がれたグラスを強く押し当てた。




