第五章⑯
誰しもに何かを描きたいという衝動が無限大に湧き出てくる期間というものがあると思うのだけれど、ユウは今、そんな期間の渦の中にいるようだった。ユウが鞄の中に入れて常に携帯しているスケッチブックにはラフ・スケッチがかつてないほどの早いペースで蓄積されていた。夏休みの終わりに締め切りを控えた県のコンクールのためのスケッチだった。
意外にも、というのはお姫様の感想だが、絵を描くことが小さな頃から得意だったユウは中学校に上がると美術部に入り本格的に絵の勉強を始めた。ユウが通う春日中学校だとどの生徒もなんらかの部活に所属する必要があったから、金魚の糞みたいにキティも美術室に付いてきて美術部に入った。美術部のメンバは三年生が二人、一年生が一人、そしてユウとキティの二年生組が二人を合わせて五人で全員女子という構成だった。三年生の部長は漫画家を目指す、少年漫画好きのオタクで、副部長は魯山人の影響を強く受けた陶芸家で、唯一の一年生部員は猫の絵ばかり描いて自分のことを猫だと言い張り、周りに自分のことをネコムスメと呼ばせようとする変人だった。顧問は背が高く髭面で少し頭が薄くて、なんとなくレオナルド・ダヴィンチにジョン・レノンの丸い眼鏡を掛けたような人だった。常に深緑色のくたびれたスーツ姿で芸術家然としていて、とても中学校の先生には見えなかった。若い頃は美術教師として勤務していた、ならギリギリ見えないこともなかったけれど、ジョン・ダヴィンチは、五人の美術部のメンバは顧問のことをそう呼んでいた、普通の中学校の教師陣の中では紛れもない異物だった。そんなジョン・ダヴィンチにユウは教えを受けた。ユウはフェルメールのような絵を描きたいとジョン・ダヴィンチに言った。すると彼はこう言った。「それならば君は、君が目指すべき地点に着地するまでは、一人の人物を描き続けなければいけない、見つめ続けなければいけない、そして光を受けたその人物の輝き方のあらゆるパターンを理解しなくてはならない、ただ頭で分かっているという風じゃなくって全身から放つような情熱的な認識を体得しなければいけないよ、着地点が半端ならそこから始まることは全部、妙に狂ってくる」
そんなふわふわとした、意味深いようで実は意味がまるでないようなことを言われて、とりあえずユウはひたすらキティのことを描き続けることになった。キティはモネの手法を真似て風景画を描いたりしていたが、美術室ではユウの絵のモデルをしている時間の方が圧倒的に長かった。ユウはこれまで何度かあったコンクールには全て、キティを描いた作品を送っていた。ラフ・スケッチもすべて様々なポーズを取ったキティだった。とりあえず、中学校にいる間ユウは、キティのことだけを見つめ続けるつもりだった。
シノブが朝帰りした、夏休み期間中の木曜日も、ユウはキティを連れて、美術室で様々なポーズを取らせてスケッチを繰り返していた。キティは退屈そうに欠伸をしたり、部長の書いた漫画をペラペラとめくったり、副部長の作った茶碗をじっと見つめたり、ネコムスメの鞄にぶら下がったキティちゃんの小さなぬいぐるみをいじったりしていた。そんな何気ない仕草も、英国少女のキティがやると絵にするに相応しいシーンになってユウは夢中になってクレバスをスケッチブックに走らせ続けていた。
しかしそんな夢中に時折、ノイズが混ざる。ノイズが心地よい夢中を乱す度に、クレバスは空中で不自然に動きを止め、行き先を見失って途方に暮れた。ノイズが発生する頻度は次第に増えていった。絵から意識が離れると戻っていくのはとても困難なことだった。ノイズの波は高さを増す。高い波に何度も襲われてそしてあっけなくという風に呑み込まれてしまった。その瞬間にユウの手はクレバスを握っていられなくなりそれは床に落下してカチっと音を立てて綺麗に二つに割れてしまった。
「どうしたの?」キティちゃんを乱暴にいじっていたキティが不思議そうにユウに視線を向けた。
「ううん、別に」ユウは首を横に振って呼吸を整えた。呼吸を整えるまでに自分は動揺してしまっているという事実にユウは遅れて気が付いた。
シノブが朝に帰ってきたことに対してこれほどまでに揺さぶられてしまっているんだ。
「大丈夫?」キティは青い瞳で心配そうにユウの目の中を覗き込んでくる。「顔色が悪いよ」
「キティ、ちょっと、」ユウは椅子から立ち上がり、キティの腕を取った。「屋上に行って新しい風を感じに行きませんか?」
「ん?」キティは可愛らしく首を傾けた。「いいけど、急にどうしたの?」
「ちょっと疲れちゃったんだって、」疲れているのは本当だ。ユウは強い力で強引にキティを立ち上がらせる。「新しい風を感じたいんだ」
「ちょっと待って、」キティは麦わら帽子を頭に乗せた。「屋上に昇るからにはこれを被らなくっちゃ駄目でしょうに」
そしてユウの頭にも麦わら帽子を乗せた。
屋上に昇って、ギラギラとした太陽の強い日差しを浴びて熱風に身を晒して一瞬で汗を掻いてからユウはキティに、自分の心のノイズとなっているものについて話した。ジンロウがシノブに渡した二万円とシノブの朝帰りについて話した。もしかしたらシノブが枕木邸から出て行ってしまうという可能性について話した。もし仮にそうなってしまったら僕はとても嫌なんだ、とユウはキティをまっすぐに見つめていった。「センリちゃんが出て行ったときと同じ気持ちになるのはもう嫌なんだ」
一度好きになった人と、一度家族のようだと思った人と別れるのは凄く辛いこと。当たり前だけど、平気ではいられないこと。ユウはそんな気持ちの底に墜ちるのはもう二度とごめんだった。そこは暗闇だった。光が入り込む余地のない、悲しみの黒に隙間を完全に埋め尽くされた、正真正銘の暗闇だったのだ。そこから脱出するためには、忘却という方法しかなかった。
「作戦はあるの?」キティは聞いた。
「作戦?」
「シノブ君の首を繋いでおくための作戦よ」
「首を繋いでおくって、」ユウは苦笑する。「ちょっと違うでしょ」
「でも同じようなことでしょ、それにしても熱い、」キティは麦わら帽子を取ってそれで自分の顔に風を仰いだ。「シノブ君の首を繋いでおくための作戦を考えなくっちゃ、とにかくまずは、ジンロウがシノブ君に渡した二万円とシノブ君の朝帰りの真実を確かめるための作戦を考えるのよ、それを成功させて真実を知る、それしかユウちゃんの不安を吹き飛ばす方法はないでしょうに、絵を描いている場合ではない、違いますか?」
ユウは頷いた。キティの言う通りだ。夢中を乱すノイズを除去するためには、シノブの首を枕木邸に繋いでおくための作戦を考えなければならないのだ。




