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恋の縁術師(the Secret Affair)  作者: 枕木悠
第五章 忘却のための機械(the Machine)
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第五章⑮

 シノブはその夜、カナデと寝た。カナデの悲しみが少しでも和らぐように、カナデを痛めつけるものから守るように、彼女のことを強く抱いた。シノブはカナデの細くて華奢で余分な肉のない、にもかかわらず付くべきところにはきちんと肉のついている、柔らかくてシルクのように滑らかで華蜜の匂いが香る体を愛おしいと思う。でもそれ以上に、カナデの体と自分の体を擦り付けながら、シノブは思い続けていた。

 枕木君は狡い。

 シノブはカナデにそれをもう二度と言わせたくはないと強く思った。そのカナデの言葉にはジンロウを非難するよりも、シノブのことを非難しているように聞こえた。動揺しないわけがなかった。

 私ではなくて枕木君を選んだあなたは狡い。

 まるで私を避けるように、逃げるように、あなたは私の傍を選んでいない。

 ヒキョウモノ。

 狡い人。

 私はこんなにも憔悴しきっているのにっ!

 枕木君は狡いというカナデの声は、シノブの耳にはそのような意味で響き、心を引っかかれて小さな痛みが走ったような気がした。その痛みは染み入るようにじんと心の全体にゆっくりと行き届き気のせいではなくて確かな痛みなのだと認識させられる。だからシノブは尋常ではない汗を掻きながらカナデの体を抱き締めている。少なくとも彼女のことを抱き締めている間は、彼女に非難されることはないだろう。動揺させられることはないだろう。僕は弱ったカナデのことを恐れているのかもしれない、とシノブはふと思った。理由は分からないけれど、憔悴しきっている風なカナデは、普段の彼女と違ってどこか攻撃的で、ヒステリックだった。そんな彼女はふとした瞬間にシノブのことを攻撃しそうだったし、シノブが思いも寄らぬ行動を取りそうだった。イタリアン・レストランのテーブルで三島先生の話をしてからカナデはそんなシノブを緊張させる雰囲気を纏っていたし、そして隠そうともしていなかった。カナデはシノブにヒステリックを振りかざし、見せつけ、ぶつけようとしているようだった。そんなカナデのことをシノブは新鮮だと思う一方で、それをしっかり受け止められるか不安で、その不安は恐怖を呼び寄せてくる種類の不安だった。

 水曜日の夜に彼女をそんな風にさせている原因は一体何なのだろう? 僕ではない、とシノブは直感で思った。僕以外の何かが彼女のヒステリィに火を点けて燃やしたのだ。

 火種は森永スズメに関することなのか、それ以外の例えば彼女の夜の仕事に関わることなのか、またそれらと全く関係のないことなのか、判別はシノブには付かなかった。判別のためには、カナデの口からしゃべってもらうしかない。そのためにはシノブが質問しなければならない。火種は何なのか、という質問が必要なのだ。でもその質問はさらに火を大きくする燃料にはならないだろうか? その疑問がシノブを無口にさせた。彼女を焼き尽くすほどの炎にしてはいけない。

 気付けばシノブは疲れ果てて眠ってしまっていた。はっと目を覚ますとピンク色の薄手のカーテンは光っていて錦景市は朝だと気付く。

 錦景市は朝の七時。

 カナデはシノブの隣で小さな寝息を立てて眠っていた。シノブはカナデを起こさないようにそっとベッドから出てベッドの周りに散らばった自分の下着と服をかき集めて身に纏った。鏡の前で髪を整える。春から比べると随分伸びたな、とシノブは思う。肩に乗るくらいまで伸びていた。それはあまり見慣れない自分。まるで女の子みたいだとシノブは思う。木曜日は朝の九時から夏休みの特別講義があった。早く枕木邸に戻ってシャワーを浴びて服を着替えて鞄の中を整理してユウが作る最高の朝食を食べなくっちゃいけない。カナデに簡単な書き置きをして、シノブは彼女のマンションを出た。

 カナデから逃げているわけじゃない、と朝からギラギラとうごめく太陽の光に肌を焼かれながらシノブは自分に言い聞かせた。別に、枕木邸に帰る必要はないのだ。カナデのマンションからの方がG大までは圧倒的に近いし、シャワーだってカナデに借りればいいし、朝食だってコンビニで済ませればいいし、何も食べなくたって一日くらいなら平気だ。特別講義のための準備も、特に必要なかった。ただ、シノブは枕木邸に帰りたかったのだ。ジンロウとフミカとユウがいる家に帰りたかった。枕木邸はすでにシノブのかけがえのない家だった。

「ただいま」シノブは枕木邸の玄関で靴を脱ぎながら言って、そこでやっと息を吐くことが出来た。カナデの緊張からやっと解かれた、という気分になれた。

「お帰り、」中学校の制服の上にエプロンを纏ったユウがシノブのことを出迎えてくれた。ユウの目は朝からパッチリと開いている。ジンロウとフミカは朝はめっきり駄目なのに、ユウは朝でも元気だった。そんなユウを見ただけでシノブは元気になったような気がした。凄く、安心した。「って、シノブ君、朝までどこ行ってたんだよぉ」

「友達の家で飲んでたんだよぉ、」シノブはユウの口振りを真似して言って、額を押さえた。「ああ、ちょっと頭痛い」

「げ、お酒臭いっ、」ユウは鼻を摘んだ。「もぉ、自業自得だかんね」


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