第五章⑭
錦景市は夜の七時。
シノブとカナデは錦景市駅前の地下街の円形広場にある小さな天使の像の前で待ち合わせて、錦景ターゲットビルの最上階にあるバグッタ・ミラノというイタリアン・レストランに入った。錦景市が眺望できる窓際のテーブル席に二人は案内された。カナデは白い七分袖のシャツに黒いスラックスというさっぱりとした格好をした小奇麗なウェイタに慣れた風にコースをオーダした。ウェイタは軽快な足取りですぐに赤ワインを運んで来た。どことなく高価そうなラベルがワインの瓶に張り付いている。細い脚のワイングラスにウェイタが赤ワインを半分ほど注いで二人の前に置いた。彼は微笑をさらりと二人に見せて、どうぞ、ごゆっくり、という台詞を目で言ってテーブルを離れた。
そしてシノブとカナデはグラスを衝突させて音を鳴らした。白いクロスのかかった円形のテーブルの中心には細いキャンドルが真っ直ぐに立ち小さな明かりを灯している。その小さな、電飾のような炎の上で、二人は乾杯した。店内は照明が落とされていて、光源と言えば窓から見下ろすことの出来る夜の錦景に点々と輝くエレクトリカルな星屑と、細いキャンドルが灯している、こちらもエレクトリカルな小さな炎だけだった。シノブはグラスを傾けてぐっとワインを飲み干した。おいしいのか、まずいのか、よく分からなかった。アルコールには違いないのだろうが、シノブはビールとか、ハイボールとか、分かりやすいお酒の方が好みだ。品よく飾り付けられたような雰囲気もなんだか落ち着かない。店内には静かにジャズ・ミュージックが響いている。ボリュームが小さいと思う。
「おいしくない?」カナデがグラスを口元に当て緩く傾けながら聞いた。
「ワインってあんまり飲まないから、」シノブは空のグラスを見つめながら小さく首を横に振った。「よく分からないんだよ」
「お店を間違えちゃったかな」カナデは心配そうに言う。
「そんなことない、」シノブはカナデに微笑む。「素敵じゃないの、オシャレで、メルヘンチックで、それにちょうど僕は、ピザとかパスタとかが食べたかったんだ」
小奇麗なウェイタによってオートマチックに、最適なタイミングでテーブルに運ばれてくるイタリアンチックな料理を食べ、アルコールを順調に摂取しながら会話を交わしていて、気付けば話題はシノブの故郷の話になった。シノブはいい気持ちで、故郷のN県について話し、どんな風に育ったかということについて話した。その後は当然ながら、カナデが自分の生い立ちについて話す番だった。そう言えば、とシノブは気付いた。お互いがどんな風に育ったかっていうことについて話したことは今まで一度もなかったのだ。
カナデはG県南部の細谷村というところの出身だった。そのこともシノブは今日、初めて知った。その村は今風に言えば、限界集落というやつで小学校は一つしかなかった。カナデが在籍していたその六年間、カナデは常に一組で出席番号は一番だった。「要するに、私が通っていた小学校は私のためのものだったの、比喩でもなんでもなくて本当に、私だけのために用意されていた小学校だったの、私が義務教育を果たすための施設だった」
「六年間ずっと?」
「うん、そうよ、」カナデは酔いが回ってきたのか、頬をピンク色に染め、焦点の定まらない瞳で虚空を睨むように見つめながら、自分の記憶をゆっくりと手繰り寄せて語り始めた。途中で赤ワインを何度も口に入れながら。「その小学校に籍を置いていたのは校長先生と教頭先生と雑用を何でもしてくれる用務員さんと、そして担任の三島先生だけだった、生徒は私だけだから、三島先生は私のためだけの先生だった、これも比喩でもなんでもなくて、六年間、私はこの世界のあらゆる全てのことについて、三島先生に教えてもらったの、勉強はもちろん、勉強以外のあらゆることを教わった、当然、三島先生が解釈してくれる世界が私にとっての常識的な世界になった、細谷村を取り囲む背の低い山々とか田んぼや畑とコンクリートで固めただけの信号が一切ない細い道路と雀の鳴き声と三島先生のいる小学校と三島先生が語ってくれる世界が私にとっての現実の全てだったの、信じられないと思うけど家にテレビはなかったし、テレビは学校にしかなくて教材を再生させるためだけのモニタくらいにしか私は認識していなかったから、村の外の他の現実世界のことなんて全く想像出来なかったの、本は沢山読んでいたけど、三島先生の専門は国語だったから沢山いろんな本を読み聞かせてくれたけど、私はどこかで全ての物語を否定していたんだと思う、否定、というか、全てフィクションの塊だと思っていたのよね、ファンタジィや文学とかいう括りは関係なく、過剰な演出とまだ始まってもいない空想の歴史で塗り固められたフィクションだって、もちろんそれらはフィクションなのだけど、普通の子供が思うフィクションと私が思うフィクションの度合いは違っていたと思う、地球を跳び越えるくらい違っていたの、次元が違っていたのよね、今思えば、私の小学校時代の状況というのは、とても不自然な現実だったわ、小学校に通っていた頃のことを思い出すたびに私はあの六年間は夢か、あるいは幻じゃなかったのかなって思うの、小さな私は毎日、スケッチブックに本当に下手くそで飛び切りメルヘンチックな絵を描き続けていたんだけど、その思い出はメルヘンチックな絵と一緒に私が作り出した幻想だったんじゃないかって思うの、もちろんそんなことはなくって、私の六年間は確かな現実だった、だから私はきちんと教育の義務を果たしてG大に通うことが出来ているんだけれど、夢か幻かって思うくらいに、それはそれは、不思議な六年間だったの、決して不自然、というわけではなかったけれどね、私以外に小学校に子供がいない状況って凄く不思議だって思うでしょ? とにかく、私の世界は三島先生だった、三島先生は、なんとなく、スズメさんに似ている人だった」
カナデはそこで赤ワインではなくてシャンパンのボトルを手にしグラスに注いだ。そしてシノブの赤ワインが少し残ったグラスにシャンパンを注いだ。シノブのシャンパンは赤ワインに混ざり薄いピンクになった。二人はもう一度乾杯した。カナデはシノブがシャンパンを飲み干したのを見て、弾ける炭酸の泡をしばらく見つめてから一気にグラスを空にした。
「だから、」声が上手く出なかった。シノブは喉を鳴らして、呼吸を調節して、こじ開けるようにもう一度声を出した。「だからカナデは森永スズメのことが好きなの?」
カナデはシノブの質問に、にやっと笑って返した。その笑顔に言葉はなかった。可愛い笑顔だったが、清純であるとは言い難い笑顔だった。そこにはアルコールが混ざっているし、それ以外にも清純を濁らせる何かも混じっているように思えた。
「三島先生は私にとって完璧な大人だった、」カナデは再び語り出す。「私は両親が嫌いだった、お祖父ちゃんもお祖母ちゃんも嫌いだった、私の実家は農家なんだけどお金のことでいつも喧嘩ばかりしていた、別に食べ物に困っているわけでもないし、住むところに困っているわけでもないのに、貯金だってかなりあったはずなのに、とにかく家にいる大人たちはお金のことで喧嘩ばかりしていたの、お祖父ちゃんは農家の仕事がない冬の間、両親に出稼ぎ、っていうのかな、そういうのを強制的にさせていたわ、だから冬の間、さすがに年末年始は帰ってきていたけれど、両親はいなかった、両親がいない冬の間、家は静かであまり喧嘩もなくって、まあ、何かあればお祖父ちゃんとお祖母ちゃんはすぐに喧嘩なんだけれど両親がいない分だけマシだった、私には二人とも優しかったから、実害、みたいなものはなかったけれどでも、私の家は私にとって安らげる場所じゃなかったの、私にとって安らげる場所とは教室だった、六年間ずっと同じ、三島先生がいる、一組の教室だった、それから三島先生のお家、私は勉強を見てもらいたいとか逆上がりの練習に付き合ってもらうとか何かと理由を付けて三島先生のところに行ったわ、私は三島先生に両親とお祖父ちゃんとお祖母ちゃんの嫌なことについて全部話してしまっていた、お金のことで喧嘩する人たちのことは嫌いだとハッキリ言った、家にいるのが嫌なのと悲哀を装って言った、三島先生と一緒に暮らしたいということを態度で示した、三島先生は私のことを快く迎え入れてくれた、三島先生は小学校の近くに一軒家を借りて暮らしていた、三島先生は結婚もしていなかったし付き合っている人もいなかったから、カナちゃんが来てくれれば寂しさが紛れるからいつでもいらっしゃいって言ってくれた、私はほとんどの時間を三島先生と一緒に過ごした、そしてどんどん三島先生のことが好きになっていった、小学五年生になって胸がちょっと膨らみ始めて初めて生理が来てから私は三島先生に単純に好きという感情以上のものを抱いていることに気付いたわ、三島先生のお家にお泊りするときは必ずお風呂はいつも一緒に入っていたんだけれど、ある日、三島先生は私の体の成長の具合を確かめるって言って胸を触ったの、三島先生に胸を触られた時、私は凄く熱くなった、お風呂に入っていたから熱くなって当然なんだけど体の奥底から熱が込み上げて来て爆発したような感じがしたの、私は黙ったままその襲ってくる熱に耐えていたの、でも次の瞬間に三島先生が私のアソコに指で触れた瞬間に私は我慢出来なくなって声を、きゃあ、って出しちゃった、三島先生は凄く真剣な顔で、それに今までに見たことのない険しい目付きで、私のアソコに指先をぐぐっと入れながら、このことは絶対に誰にも言ってはいけないことよ、内緒よ、カナちゃんは内緒に出来る? って聞いたわ、私は三島先生が私のアソコに指先を入れている意味が分からなかったからしばらく熱に襲われて狂ってしまいそうな状態にただ耐えながらぼうっと三島先生の、形相を見つめていたの、痺れを切らしたのように三島先生は言ったわ、カナちゃん、いい、これからのことは全部内緒にするのよ、校長先生にも教頭先生にも用務員さんにも、それからカナちゃんのお父さんやお母さんやお祖父ちゃんやお祖母ちゃんやそれから村の人たちににも絶対に話してはいけないことよ、もしはなしてしまったらどうなるの? 私は聞いたわ、三島先生は早口で言った、私はカナちゃんの先生ではいられなくなっちゃう、そんなの嫌、私は言った、内緒にするから三島先生はいなくなっちゃ駄目って、すると三島先生は笑顔になって、私もカナちゃんの先生でずっといたいのよ、って言って私にキスをした、私はそのときに初めて三島先生とセックスをしたの、三島先生はレズビアンだった、だから結婚もしてなかったし誰かと付き合ってもいなかった、後から聞いた話だけど、三島先生に交際を申し込んだ村の男の人たちは結構いたみたい、でもレズビアンだった三島先生は、私が成長するのをずっと待っていたのよね、光源氏の物語にもあったような話だけど本当の話なの、三島先生は確実に私を彼女好みの女に成長させた、そしてレズビアンの世界に引き摺り込んだのよ、先天的に私がレズビアンかどうかなんて今となっては分からないけれど、とにかくもう私は三島先生によって世界を作られてしまったから、つまり、そう、私は三島先生によってレズビアンになったの」
シノブはぼんやりと灯るキャンドルの小さな炎の向こうに、一切れの生地の薄いピザを手に取り口に運ぶカナデを見ながら、話の続きを待った。話の続きがあるような気がしたのだ。カナデにはまだ話すことがある。そして実際に話の続きはあった。カナデは一切れのピザを食べ終え、口元をナプキンで拭ってから、再開する。「私は幸せだった、私は昼間は三島先生に勉強を教わり、夜はセックスを教わるっていう生活にこの上ない幸福を感じていたの、三島先生とセックスをしている間は、家族のお金に纏わる嫌な話も忘れられた、小学校の高学年になればお金の話がどんどん具体的に理解できるようになってくるし、私の教育に関わるお金の話とか、私立の中学校を受験させるならどれくらいのお金が必要なのかとか、とにかく家では私に纏わるお金の話で喧嘩が絶えなかったから、私は自分から何かをしてくれとか言った覚えはないのに、私は本当に家族のことが嫌になってしまっていたの、その嫌を綺麗さっぱり忘れさせてくれるのが三島先生だった、三島先生は私の何もかも受け止めてくれる、私の何もかもを理解してくれる、私の何もかもに答えを与えてくれる、そして何より私を気持ちよくさせてくれる、私の正義は三島先生だった、私が小学校を卒業した時、三島先生は三十歳だった、私は十二歳で、十八歳も歳が離れていたけど、私たちはお互いの気持ちを確認し合ってきちんと付き合うということを決めた、三島先生が私にくれた花束には卒業以外にも色々な意味があった、両親やお祖父ちゃんお祖母ちゃん、校長先生、教頭先生、用務員さんは絶対に気付かなかったと思うけれど、その花束にはいろんな意味があった、私が卒業して生徒が誰もいなくなった学校は閉校になった、もちろん三島先生は県内の別の小学校に異動になった、私は他の街の中学校に通うことになった、二人は離れ離れになったけれど、でも会おうと思えばいつでも会える距離にいた、私は私以外の生徒が学校にいるという現実に戸惑いながらも三島先生のことを支えにして頑張った、集団行動に馴染めない私は苛められたりしたけれど、新しい環境に徐々に順応していくことが出来て友達も増えていった、最初は中学校に行くのが億劫だったけれど夏を過ぎる頃にはそんな気持ちもなくなり、この生活が普通なんだと思えるようになっていた、お家の中は相変わらずだったけど、でも学校の成績はよかったから攻撃は私の方に向かってくることはなかったから、優等生を気取ってやり過ごしていた、腹の中ではさっさとこんな家出て行ってやる、くそったれ! って思っていたけれどそんな風な気持ちは一切隠して家族の前では完璧な中学生を演じて見せていた、我慢し続けていられたのはもちろん、三島先生の存在があったからで、私は高校に進学したら三島先生の家に居候させてもらおうって企んでいた、三島先生はその頃、楢崎市の小学校で勤務していて楢崎市駅前の高層マンションに住んでいた、村の一軒家に比べたら全然狭いけど、二人が暮らすには丁度いい広さのマンションだった、受験を控えた中学三年生の夏、三島先生のマンションにお邪魔したときに、高校は楢崎市にある高校に進学してこのマンションから通おうと思っているの、と私は三島先生に告げた、お父さんもお母さんも先生のことは信頼しているし絶対に駄目とは言わないと思う、それに村から近い他の高校を選んだって村の家から離れて寮に住むことになるんだからどうせなら先生の家に住まわせてもらう方が断然いいって私は強く主張した、三島先生は私の計画にとっても喜んでくれて、すぐに私のために楢崎女子高校や中央高校や他の私立高のパンフレットを集めて自宅に送ってくれた、受験勉強にも三島先生は付き合ってくれた、私は楢崎女子を受験した、楢崎市の中では偏差値がトップの女子高で難関だったけど模試の結果もまずまずだったし三島先生が絶対に大丈夫って言ってくれたから挑戦することにした、三島先生が言うことは全部本当だった、私は楢崎女子に合格した、合格発表の掲示板の前で私と三島先生は抱き合って飛び跳ねて喜んだ、これでまた同じ時間を沢山過ごすことが出来る、私はその日の夜のうちに、新しい生活に胸を躍らせながら村の実家の部屋で、この村での暮らしから離れることに多少の寂しさを感じながら、引っ越しの準備に入っていた、引っ越しと言っても洋服やお気に入りの小説やCDを段ボールに仕舞うだけの作業だったし荷物も軽トラに乗せてお父さんに運んでもらうだけだから大したことじゃなかった、準備は二時間も掛からずにすぐに終わった、そして私はなんだか夜空を見上げたい気分になってカーテンを開けて窓を開けた、瞬間、二月の冷気が部屋に怒鳴り込んで来た、私は空気の冷たさに震えながら窓の縁に手を置き夜空を見上げた、月が光っていた、満月ではない僅かに欠けた月だった、その月はいつもよりも明るくていつもよりも大きく私には見えた、私は月の光を祝福の光だと思ってしばらく見つめ続けていた、あの月は私たちの新しい生活の始まりを祝福してくれている、そう思った、その次の日よ、心から、この世界はなんて残酷なのと思った、あの村と、あの学校と、私と三島先生だけの教室で出来上がった不思議な世界がこの世界の全てで真実だったらどんなによかったことかって私は思ったわ、三島先生は私が楢崎女子に合格した次の日に交通事故で死んでしまったの、私と三島先生の縁はそこで完全に断ち切れた」
カナデはそこで口を閉ざした。
シノブは指先に煙草を挟んだまま、ピタリと動かすことなく、唾を呑み込んだ。
カナデは顔を両手で覆い隠す。
華奢な肩が、体が、小刻みに震えていた。
キャンドルの小さな炎に変化はない。
どこかエレクトリカルに光っている。
「だからシノブ君は私にとって最後の砦なの」カナデは顔を両手で覆い隠したまま言った。
「……砦?」シノブは苦笑する。いや、苦笑しようとした。平然でいることをアピールするみたいにでもそれは失敗して、真顔のまま言った。「……砦?」
「シノブ君の優しさに、」カナデは覆っていた手をどけて、指の腹で目元を擦って、シノブをストレートに見つめた。赤が目立つ、痛々しい目元だった。「守られていたいのよ」
「……えっと、カナデ、どういう意味?」
「シノブ君は私を守ってくれる人?」
「守るって、何から?」シノブは指に挟んだままほったらかしていた煙草の存在を思い出し口に咥えて火を点けた。
「何からって、」カナデは何かを一瞬見失った表情をして、間を十分に置いて見失ったものの端っこを見つけたという目をしてから口元を慌てて動かした。「……敵から、敵から守って欲しいのよ」
「敵?」シノブは首を捻る。
「そう、敵、敵よ、私を痛めつけるさまざまなものから、私のことを守って欲しいの、シノブ君に」
「……えっと、」シノブは小さく煙を吐いた。「もっと具体的に話してくれないかな、一体何の話をしているのか、よく分からないよ、カナデを痛めつけるさまざまなものって何? カナデは僕にどうしてもらいたいわけ?」
僕に三島先生の代わりになって欲しいわけ?
適任は僕ではなくて森永スズメであるべきじゃないの?
そのために君は彼女に接近している途中なんじゃないの?
とは、シノブは立て続けに質問しなかった。今夜のカナデはどこか憔悴し切っているように見える。いつもとは明らかに違う。このレストランに誘ったのだってきっと、憔悴が関係しているのだろう。そして三島先生の話をしたのだってきっと、憔悴が関係しているのだろう。憔悴した状態で、憔悴した原因を問い詰めることは、優しいことじゃないとシノブは思う。最善ではないが、最悪ではない選択は、ここで話を別に切り替えることだ。
シノブは俯き、黙り込んでしまったカナデに言った。「中世史の話でもしましょうか?」
カナデは返事をしない。シノブの声は他のテーブルから聞こえる話し声とウェイタの軽快な足音と静かなジャズ・ミュージックの狭間に紛れて消えていった。
「……ごめんね、」カナデは顔を上げ、その顔は何かに怯えているような顔でもあったし、何かを強く決断したような顔だった、小さく口元を動かした。カナデが発した声量の内のほとんどが狭間に消えていったが聞き取れないことはなかった。「困らせちゃったね」
「特に、困ってはないけれど」シノブはわざと大きく声を出して、狭間に消えないように、灰皿を引き寄せて煙草を押し付ける。
「ごめん」
「謝られる理由がないよ、理由を話してくれるのなら、僕は聞きますよ」
「シノブ君は優しい」
「優しい?」シノブは首を捻りながら微笑んだ。また煙草に手を伸ばす。
「優し過ぎるよ、だから甘えたくなっちゃう、依存したくなっちゃう」
「別に僕はいつでも、カナデのことなら、迎え入れてあげるけど」
カナデは目を僅かに大きく見開き、左手でシノブが咥える煙草を取り上げ、右手をシノブの顔にそっと差し伸べた。人差し指でシノブの頬に触れそれをゆっくりと斜め下になぞった。カナデの人差し指がシノブのワインに濡れた唇の凹凸を確かめていた。そして唇の隙間から指先が侵入する。シノブと舌とカナデの指先が遭う。無色透明、というべき味がした。甘くはない、味がした。
「枕木君は狡い」
「え?」
「枕木君は狡い、」カナデはもう一度言って、シノブの吸いかけの煙草を口に咥えて、笑顔を見せた。「シノブ君は共有すべき人なのに、独り占めにして、本当に狡いわ」
「共有? 僕は共有すべき人なの?」
「うん、」カナデは胸に手を当て、力強く頷いた。「シノブ君は共有すべき人、誰のものにもなってはいけないの、」そしてカナデはたっぷりと煙を吐き笑う。「なぜなら悲しむ人がいるからよ、私みたいにね」




