第五章⑫
ドゥルルっ。
ヒステリックに狂ったような電話のベルが枕元で鳴り響き、微睡みの中にいたヒトミははっと現実的になって白い受話器を取った。延長するかどうするか、というフロントからの電話だった。ラブホテルってカラオケみたいなシステムなんだなってぼんやりと思いながらヒトミは歯切れよく「いいえ、すぐに出ます」と断った。ヒトミもユイコも、そんなにお金を持っていないからだ。
「え、もう時間なの?」ユイコは裸の体をヒトミに密着させて指の腹で目を擦り猫みたいに甘える感じで言った。
「うん、ユイコちゃん、早くシャワー浴びなくっちゃ」
ユイコはベッドから立ち上がろうとするヒトミにキスをして「んしょ」とゆっくりと立ち上がってシャワールームに向かった。ヒトミはユイコの形のいいお尻を見ながら後を追って狭いシャワールームに入った。時間がないので二人は体だけ洗ってシャワールームを出た。そしてタオルで体を拭き、服を着た。服を着てしまったユイコを見ると、なんだか裸でヒトミといやらしいことをいっぱいしたユイコではない別人がそこにいるような気がした。ヒトミも服を着てしまうとユイコといやらしいことをした自分がどこか行ってしまったような気がした。あんなに恥ずかしいことをしたのに、恥ずかしいことをしていないような気分になった。ベッドの上で繰り広げられたあらゆる恥ずかしいことはヒトミによく似た別人とユイコによく似た別人がやったことのような気がしてならなかった。自分はそのシーンをベッドのすぐ傍にある小さな椅子に座ってぼんやり見ていただけなのだと。
とにかくとてつもなく現実感がなかった。
「ん、ヒトミ、どうしたの?」着替えを終え口を半開きにしてぼーっと虚空を見つめていたせいだろう、ユイコは怪訝な視線をヒトミに向けた。「疲れた?」
「うん、疲れたよぉ、そりゃあ」
ヒトミは小さく笑って、吐息を漏らし、そして自分が幸福感というものに包まれていることに気付いた。今までに感じたことのない、柔らかくて、安らげる、穏やかな黄金色を放つような幸福感に包まれている。その感じは、ユイコと交わった前にはなかったものだ。この状態がユイコが言った正義なのだとしたなら、正義とは素敵なものだとヒトミは思う。
ヒトミはスマイルになり、ユイコの手を取り立った。「帰ろっか」
「うん、」ユイコはヒトミに体重を預けるように寄り添い、帰りを惜しむように部屋の扉まで歩く。「帰ろう」
そしてヒトミは部屋の扉の金色のノブを回し押し開いた。
そのときだった。
「ぎゃあ!」
響く女性の甲高い悲鳴。
ヒトミの手には扉を開けたときに廊下で誰かが扉に凄い勢いで衝突したという、確かな手応えがあった。
ヒトミはユイコの顔を一瞥、彼女も驚いていた、慌てて部屋の外に出て額を両手で押さえてタイル張りの廊下の上にしゃがみ込んでいる女性の横にひざまづき「だ、大丈夫ですか?」と聞いた。「ごめんなさい、すいません、大丈夫ですか?」
女性は額を両手で押さえたまま、何度か頷いた。「だ、大丈夫、大丈夫、あははっ、ちょっと考え事しててね、私の方こそ、ごめんなさい、」そう言いながらも彼女の大きな瞳は涙で濡れていた。かなり強く衝突したということを窺わせた。「気にしないで、大丈夫だから、本当よ」
「そうですか、よかったぁ、」と、とりあえず大丈夫そうなので、ほっとヒトミは胸を撫で下ろした。と、次の瞬間に、あっとヒトミは気付き声を上げた。「あ! あれ!? も、もしかして?」
「森永スズメ!?」ヒトミの後ろに立つユイコがフロア中に響き渡る声を出した。「森永スズメだ!」
ユイコが絶叫したように、錦景商業高校出身のエクセル・ガールズというアイドル・ユニットのメンバでイメージ・カラーはインクの森永スズメが確かにここにいた。彼女は黒いキャップを被り、髪型もいつもと変えていて後ろで束ねていたし、ステージ衣装のピンク色の服を来ていなくて白いTシャツにブルージーンズという装いだったけれど、ヒトミが開けた扉に額をぶつけたのは紛れもなくエクセル・ガールズの森永スズメだということは簡単に分かった。森永スズメのように可愛い人って、森永スズメくらいしかいないからだ。
「やっば、」丸い目をした森永スズメは口にしてから「あっ、」としまったという顔を見せて、今度は両手で口を押さえ首を横に振って声色をアニメっぽく変えて笑った。「違うよ、私はスズメじゃないよ、人違いだよ」
彼女の右手の人差し指にキラリと指輪が輝いているのをヒトミは見つけた。。シルバのリングにピンク色の宝石。そのピンク色を見て、ヒトミは彼女が森永スズメだと強く確信していた。どんなときだって彼女は自分の色の象徴であるピンクから離れられないのだ。自分の存在を周囲に完全に隠していられないのだ。「いやいや、人違いじゃないですよね? どこからどうみたって、エクセル・ガールズの森永スズメさんじゃないですか」
「ち、違うよ、」スズメは首を大きく横に振ってアニメ声を続行している。「違うんだよ、スズメじゃないんだよ」
「スズメじゃなかったら、」ユイコは腕を組み、彼女のことを強く睨み見て言う。「なんなのよ?」
「は、」彼女は首を捻りながら言う。「鳩?」
「はとぉ?」ヒトミとユイコは同じように首を捻って声をユニゾンさせた。
「く、」森永スズメは苦しそうに鳩の泣き真似をした。「くるっぽー」
そして謎の沈黙が発生。
スズメは大きな目を閉じた。
閉じてなかなか開かなかった。
瞑想でもしてるんだろうか?
そんな風にヒトミが思ったときだ。
「あっ!」
スズメは声を上げ目を見開き、ピンクとシルバの指輪がはめられた右手の薬指をヒトミとユイコの後ろに向けた。
「え?」
ヒトミとユイコは純粋無垢な少女だった。錦景女子の中でもその純粋無垢さ加減は並外れているに違いない。そう思う。だから、それが森永スズメが企んだ簡単でありふれた罠だなんて気付かずに莫迦みたいに背後を振り返ってしまった。振り返ったって特別な何かがある訳じゃない。廊下が真っ直ぐに伸び、左右に等間隔に扉が並んでいて、突き当たりには非常口がある。それだけだ。二人は莫迦な罠にはまったと気付きはっと振り返ってみればすでに遅く、そこに森永スズメの姿はなかった。急いで階段を駆け下りる甲高い足音だけが聞こえてきていた。残念ながら、逃げられてしまったようだ。いや、特にヒトミもユイコもエクセル・ガールズのファンというわけでもないのだけれど。とにかく一つの疑問を残して森永スズメは二人の前から姿を消した。
果たして彼女は、ここに何しに来ていたのか?
もとい。
果たして彼女は、誰と一緒にいたのか?
「謎ね、」ユイコは腕を組み探偵の目をして言った。「解き明かしてみたくなる、謎だわねぇ」




