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恋の縁術師(the Secret Affair)  作者: 枕木悠
第五章 忘却のための機械(the Machine)
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第五章⑥

 シノブは河童寿司からフミカとチカリコを錦景市第一ビルにある、楽器の練習スタジオに送り届けた。ファンデイション、という名前のスタジオで最近出来たばかりだった。個室は広めで、貸し出している機材の種類も豊富、それから最新のレコーディング設備も整っていた。何よりもトイレが綺麗でここが他のスタジオよりも断然違う点だった。

 シノブも当然練習に誘われたが、中世史研究が中途半端なところで終わってしまっているから、とお姫様に説明して丁重にお断りした。

「研究がきりよく終わることなんてあるのかえ?」

 チカリコは狐の目をして鋭く突っ込んできた。シノブはドキリとして胸を押さえた。チカリコの言う通りだったからだ。研究がきりよく終わったことなんてこれまでない。いつも必ず何かしら課題が残って終わる。そして次の日にその課題をクリアしても、また課題が残ってしまうのだ。研究とは、基本的にそういうものだ。しかし驚いた。お姫様はそんなことまでお見通しなのかとシノブはちょっと途方に暮れた。普通の女子高生だと思って油断しているとすかさずこれなんだ。

「まあ、ええけど、」チカリコは腰に両手を当てて体をこちらに傾けて言った。「ちょっとは練習してや、シノブ君にはコード以外も弾けるようになって欲しいし、まあ、今日は見逃したげるけど」

 シノブは苦笑しながら手を振って二人の後ろ姿を見送った。「……お姫様には、かなわんなぁ」

 枕木邸に一人帰り、シノブはリビングの冷房と扇風機と珈琲メーカを起動させてシャワーを浴びた。車での移動だったし外にいた時間はほとんどなかったんだけれど、錦景市の夏はシノブの出身地のN県に比べると凄く暑い。錦景市の夏に慣れることをシノブは七月の段階で諦めていた。シャワーを浴びて爽快という状態になったシノブは珈琲を片手にリビングのソファに体を沈める。時刻は午後の二時。シノブは再び中世史研究に没頭した。

 迎えに来て、とフミカからメールがあったのが錦景市の午後の六時。それと同じタイミングでユウとキティとジンロウが一緒に帰ってきた。三人は膨らんだライフラインのビニル袋を持っていた。どうやら食材を買い込んで来たみたいだ。ジンロウが袋を持ち上げて笑顔で言う。「シノブ君、今日はステーキだ、しかも和牛のロースだぜ」

「おお、凄い、」シノブは控えめに喜びを表現して聞く。「でもどうしたの、誰かの誕生日だった?」

「今日特売で、半額だったんだ、チーフが半年に一度のことだって言うしチーフも買うって言うくらいだから、これは買っとかないとなって思って」

「そそのかされたんだ」

「で、チーフとレジに並んでいたら二人にばったり会って」

「びっくりしたよ、」ユウは冷蔵庫に食材を直しながら言う。「文学者ってライフラインのお肉屋さんの人だったんだもん、ライフラインには何度も行ってるのにそこで会うのは初めてで、やっと正体が分かった、でも本当にもぉ、びっくり」

「ユウが買い物に行く時間には売場に出ないんだよ、煙草吸ってるか、パソコンの前にいるかだから」

「えっと、何の話?」シノブはムーヴのキーを指先で回しながら言う。「あ、ちょっと出てくるから、ちーちゃんとフミちゃんを迎えに行ってくるから」

「あ、俺が行こうか、スタジオだろ?」

「いいって、いいって、」シノブはリビングを出ながらジンロウに手を振る。「この時間、君に運転させたらムーヴが可哀想、きっと泣いちゃってワイパが勝手に動いちゃう?」

「えっと、」ジンロウは笑顔のまま首を捻ってシノブのつまらない冗談の意味を考えていた。「どういうこと?」

 さて、二人を迎えに行き、チカリコを松平邸に送り届け、フミカと一緒に枕木邸に帰るとステーキを中心とした豪勢な夕食が準備されていた。キティは自宅に帰ってしまったようで、日曜日のディナーはジンロウとフミカとユウとシノブで囲んだ。

「キティってば絶対に金魚鉢が作りたいなんて急に言うもんだからさぁ、美術館の人も困ってたよぉ、金魚鉢を作りに来た人って前代未聞よって言われちゃった、」ユウのピクニックの話を中心に、夜の団欒は進行した。ユウとキティの二人は錦景市の北に位置する渋川市にあるガラス工芸美術館に行ってきたようだ。昨日急に金魚鉢を作りたいって思ったんだって。「キティってば、夏の終わりの花火大会で金魚を沢山掬うんだってはしゃいじゃって、ペットショップに行こうって誘っても、金魚は掬わなきゃ意味がないって、意味分かんないこと言うんだよ、意味分かんないよね、僕呆れちゃって」

「でも綺麗よぉ、」フミカはガラステーブルの中心に置かれた金魚鉢を見ながら言う。鉢の周囲には稲妻のような紫色、人魂のような群青色、それから竹の葉のような緑色の揺らめいた線が走っていて、全体に黄色が線香花火の火花のように散らばっている。確かに綺麗。売り物と言われれば信じたと思う。「これ、キティが作ったんでしょ、才能あるよ、キティは絵も上手よね、将来はアールヌーヴォだよ」

「アールヌーヴォって何ですか?」ユウはフミカの横顔を見て聞く。

「さあ、」フミカは首を傾げてとぼけて笑う。フミカはアールヌーボォの意味を知らなかったみたい。確か十九世紀初頭の芸術運動だったと思うけど、シノブも詳しくは知らない。「なんでしょう?」

 夕食の風景はそんなほのぼのとした、いつもの日曜日の夜だった。違っていたのは食卓に並んだ和牛のロースステーキと、日曜日のディナーの後、シノブには予定があるということだけだった。

 夕食の後、シノブは本日何度目かのシャワーを浴びた。予定がなければ多分、このシャワーは浴びなかったはずだ。このシャワーの意味は、禊ぎだろうか、とシノブは水滴に打たれながら考えた。考えていたらドキドキして、なんだか笑えてきた。

 浴室から出て、シノブは洗面台の前に立ち、自分の体を確認した。変化はあまり感じないが、春に比べると少し太ったかもしれないと思った。枕木邸の暮らしはシノブにとって贅沢だ。体重は増えても特別なことをしない限り減ることはないだろう。

 そしてシノブはタオルで頭を軽く拭いて、髪が完全に乾いていない状態で自室に戻り、パンツだけはいて椅子に腰掛け机に向かった。机の上に置いていた財布を手にし、開いて何枚ものカードを取り出した。シノブの財布には現金よりもカードの方が多い。アパレルショップのポイントカードがほとんどで、その中に図書館のカードや大学生協のプリペイドカード、学生証が混じっている。それらを机の上に並べ、必要ないものはゴミ箱に捨てて整理しながら、シノブはあるカードを探していた。最後に残った一枚が探していたそれだった。

 シノブはスマホを手にし、そのカードの裏に記載のある電話番号をダイヤルする。

 ヘアカットサロン、ピンク・ベル・キャブズ。

 そのカードはカナデが働くお店のメンバーズ・カードだった。シノブは一度もお店を利用したことはないんだけれど、カナデからメンバーズ・カードだけは貰っていた。

「お電話ありがとうございます、」ツー・コールで受付の女性が出た。酒に酔っているみたいに彼女の声は弾んでいる。「ピンク・ベル・キャブズの甲原と申します」

「予約したいんだけど、カナちゃんって出勤してるかな?」

「カナちゃんですね、少々お待ち下さい……、」女性の声が遠のく。保留を押していないようで、ノイズに混じって話し声が聞こえた。乱暴な口調が飛び交っている。きっと日曜日の夜なので混雑しているんだろう。すぐに女性の弾んだ声は戻ってきた。「はぁい、ごめんなさい、えっと、今お仕事が入ってましてぇ、一時間後でしたらご案内出来るんですけどぉ、どうなさいますかぁ?」

 シノブは壁の時計を見て時刻を確認する。「十時にお店に行けばいいの?」

「はぁい、そうですねぇ、十時から、ちょっとまた遅れることもあると思うんですけれど、はい、十時頃にお店の方に来ていただければ大丈夫ですよぉ」

「じゃあ、予約しておいてもらえる?」

「はぁい、分かりました、カナちゃん、ご予約しておきますねぇ、あ、お客様、こちらのシステムはご存じですかぁ?」

「いや、初めてなんだけど」

 そう言うと甲原という女性は店のシステムを淀みなく早口で説明してくれた。説明は要領よくまとまっていて分かりやすかった。役所や病院の窓口も見習うべきだとシノブは思った。シノブは適当にコースと時間を選び通話を切った。名前を聞かれたので、西嶋と答えておいた。

 よし、取り合えず予約は出来た。後は、とシノブは立ち上がって「……柄じゃないんだけどなぁ、」と後頭部を掻いて部屋を出る。そしてジンロウの部屋の前まで行き扉をノックした。「ジンロウ、いるか?」

 返事はなかったが扉はすぐに手前に開き、ジンロウが顔を見せる。

「わっ!」とジンロウは驚いていた。

 おそらくシノブがパンツしかはいていなかったからだろう。まあ、最初から驚かせるつもりでこういうファッションをしているんだけれど。

「し、シノブ君、何?」シノブの裸は見慣れているはずなのにジンロウの顔は真っ赤に染まっていて声はひっくり返っている。「どうしたの?」

 シノブはジンロウのいつもの倍のスピードで動いている唇を唇で塞いで黙らせた。舌を強引に入れてステーキソースの味が残る歯を舐めた。シノブは体の柔らかい部分を密着させて、ジンロウの体をベッドの上に押し倒した。手を伸ばして扉を閉めて鍵をする。その間唇は離さなかった。ジンロウはシノブに抵抗せず、逆に強く抱き締めて来た。

 いつの間にか、シノブがベッドの下だった。

 唇がやっと離れて、シノブもジンロウも大きく息を吸って吐いた。

 ジンロウは肩を動かして呼吸をしながら聞いてくる。「どうしたのよ、シノブ君、なぁに、肉を食べたから、肉を食べたからか?」

「はあ、何言ってんの?」シノブは思わず笑ってしまった。「肉を食べたから?」

「いや、その、なんだ、」ジンロウは髪に片手をやり呼吸を整えている。「えっと、……目的は何?」

「お金貸してくれない?」シノブはジンロウの顔をまっすぐ見つめてにっと笑ってピースサインを作る。「二万」

「ああ、そういうことか、なるほど、なるほどね、」ジンロウは合点がいったという風に小さく何度も頷いた。シノブがジンロウにこんな風にしてお金をせびったことは過去に何度かあった。「……二万か、まあ、いいけど、何に使うの?」

 シノブはすかさずピンク・ベル・キャブズのメンバーズ・カードを見せて片手で髪の毛を触った。「ちょっと髪の毛が気になってさ」

「ああ、そういうことだったら、いいよ」

「ありがと、悪いね」シノブは出来る限りのチャーミングな笑顔を作ってプレゼントしてやった。一応、一抹の罪悪感はあるのだ。嘘は何も付いていないんだけど。

「俺さ、」ジンロウは笑顔を作ってじっとシノブの顔を見つめた。「前からシノブ君にしてもらいたい髪型があって、えっとほら、タレントの、名前、なんだっけな、」

「なんでもいいよ、」シノブはジンロウの背中を軽く叩く。「なんでもいいから、早くお金頂戴、予約したから早く行かなくっちゃいけないんだから」

「え、今から行くの?」

「だからそう言ってんじゃん」

「タレントの名前を思い出すまで待ってくれない、お願い、」ジンロウは財布を手にし広げながら言う。「どうしてもシノブ君にその髪型にして貰いたいんだって、タレントの名前を思い出せなくっちゃスマホで検索も出来ないし」

「駄目、」シノブはジンロウの財布から二枚の諭吉を抜き取ってべぇっと舌を出す。「時間切れ」


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