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恋の縁術師(the Secret Affair)  作者: 枕木悠
第五章 忘却のための機械(the Machine)
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第五章④

 錦景市は八月九日の日曜日の正午。

 中島シノブは枕木邸のリビングのソファの上、所定の位置で、いつものように中世史の論文に目を通していた。冷房の設定温度は二十六度、扇風機は勢いよくプロペラを回転させて首を振っている。洗濯機が回転する低温が離れた場所で響いている。窓際の小さなステレオコンポはイエロー・サブマリン・サウンドトラックを回転させていて、BGMはひとりぼっちのあいつ。

 ユウは今朝早く、ガールフレンドのキティ・ローリングとデートに出掛けた。フミカは昨夜、チカリコと一緒に遅い時間に帰ってきて、おそらくまだ眠っている。ジンロウはバイトに出かけていていなかった。彼は夏休みの間、近所のライフラインというスーパーマーケットで労働している。

 なのでつまり、リビングにはシノブ一人だけしかいなかった。論文に目を通し中世史のことを考えるのには素晴らしく快適な空間だ。

 七月の末にテスト期間が終わり、夏休みに入ってからシノブは本格的に中世史研究にのめり込んでいた。シノブが選んだテーマに関する史料、G大で閲覧出来るものは全てリスト化したし、先行研究の要所は脳ミソにインプットした。そのテーマへのアプローチの方法も次第に具体的にイメージ出来るようになってきた。今まで漠然とシノブが抱いていたテーマに内包する抽象性もまた、強く体感出来ている。微睡みの中のような居心地の良さがここ数日続いていた。正直好ましい状況だ。しかしまだ研究は始まったばかり。今は端緒であることは間違いない。研究の舵取りに安心してしまうのは時期尚早。最初に選んだ航路が間違っていて、確信は壮大な誤りだったという未来は大いにあり得る。純真へのアプローチによって全てが覆ってしまう確率はゼロではなく、確からしく存在しているのだ。ゆえにどんな場合においても舵をきる準備をしていなくてはならないし、いつ迫るか分からない嵐に立ち向かうためにもある程度、腹を括っておかなくてはならないだろう。

 何よりも史料が圧倒的に不足している。まだまだ足りない。集めるべきパーツは無数に存在しているのだ。研究を進める毎に宝物は世界にまだまだ眠っているように感じるし、そのことは中世史研究に対しての興奮と緊張をシノブに抱かせるのだった。

 あるかもしれない。

 その世界を発見出来るかもしれない。

 でも、

 ないかもしれない。

 それは一人の普通の人間が抱いたただの幻想世界か。

 忘れ去られるべき、僕を中心に自転する世界なのか。

 嘘か、

 真実か、

 絶妙なバランスを維持しながら、

 指先で回転し傾いて揺れる独楽。

 見ていて楽しい。

 いや、それは僕で。

 そんな揺らぎと回転に生涯を捧げたいって僕は願っているんだ。

「おはよう・・・・・・」

 小さく聞こえた声の方向に視線を向けると三十秒前に起きたばかりといった感じのフミカがリビングに姿を見せた。寝癖が酷くって芸術家みたいだ。フミカは偶然にもイエロー・サブマリンのTシャツを着ていた。穿いている赤いハーフパンツは錦景女子高校指定のものだ。フミカはリビングを通過してキッチンへ。ごくごくと牛乳を飲んでからシノブに視線を向けた。「あれ、ジンロウとユウは?」

「ジンロウはバイト、」シノブは論文をテーブルの上に置き、両腕を持ち上げて伸びをした。「ユウちゃんはキティちゃんとデート」

「ふうん、」フミカはエプロンを纏い、蛇口を捻って手を濡らした。その濡れた手で乱暴に寝癖を直しながら聞く。「ご飯まだだよね、何食べたい?」

「手伝うよ、」シノブはソファから立ち上がりキッチンの方に向かう。「フミちゃんは何食べたい?」

「いいって、シノブ君は研究してて」

「フミちゃんとしゃべったら集中力が切れちゃったから研究は中断、お腹が減ってるのにも気付いたし」

「・・・・・・何もないな、」フミカは冷蔵庫の中を探っている。「買い物に行くのも面倒臭いし、どこか食べに行こっか?」

「いいね、」シノブは頷く。「回転寿司とか?」

「おいなりさんが食べたい、」背中の方からチカリコの声がして、振り向くとリビングの方のソファの上で彼女はごろんと横になっていた。白いネグリジェ姿のチカリコは狐みたいに笑う。「けけけ、妾はおいなりさんが食べたいのじゃぁ」


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