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恋の縁術師(the Secret Affair)  作者: 枕木悠
第五章 忘却のための機械(the Machine)
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第五章①

 錦景市は八月八日の土曜日。

 松平チカリコの踊り子である、錦景女子大一年の朱澄エイコはその夜、錦景第二ビルに店を構える、メイド喫茶ドラゴンベイビーズのステージでピアノを演奏する予定があった。

 特別なことがない限り、土曜日の夜のステージはエイコのピアノの時間だ。出演料は他のメイドさんたちの時給と一緒で、ステージに立つ特典と言えばオムライスを演奏後に食べさせてくれることぐらい。

 でもエイコに不満はなくて、ピアノを誰かに聞いてもらえる場所が毎週用意されているなんて幸せだってエイコは思っていた。ここに訪れるご主人様、お嬢様たちをピアノを奏でて魅了することってきっと、コンクールで優秀賞を頂くことよりも素晴らしいことだ。エイコの価値観ってほとんどがそんな感じ。

 出番まで時間があるので、エイコはドラゴンベイビーズのカウンタ席に座り、珈琲を飲みながら文庫本を読んでいた。

「何読んでるの?」

「……うーん? サリンジャよ、って、」エイコはページから視線を上げて声の主を見た。「あらま、お姫ちゃんじゃない、ちょっと突然ね、びっくり」

 エイコの隣のカウンタ席には、いつの間にかチカリコが腰かけていた。

「フラニーとズーイ、へぇ、」チカリコはエイコが読んでいる文庫本を覗き込み聞く。「サリンジャって、面白いの?」

「面白いけど、うーん、ちょっと退屈かも、寝る前には丁度いいかも」

「それってつまらないってことだと思うよ」チカリコはニッと笑顔を見せた。

「こんにちは、フミカちゃん」チカリコの向こうにフミカの姿が見えたのでエイコは彼女に視線を向けて挨拶をした。

「こんにちは」フミカもニッと笑顔を見せた。

「ねぇ、二人ともなんだかおめかししちゃって、これからパーティにでも行くの?」

 チカリコもフミカもこれからパーティにでも赴くような可愛い装いだった。チカリコが生地の柔らかそうな白いジャケットにひらひらのピンクのスカート。対してフミカはフレッドペリーの黒いポロシャツに紫色の艶のあるネクタイを締め、赤いホットパンツを履いていた。二人とも通常の倍の倍くらいメイクが濃くって、ルージュの赤の強さにエイコは少し驚いていた。まあ、エイコのメイクも今日は濃い目だから人のことは言えないんだけど。

「違います、」フミカは首を横に振る。綺麗に切りそろえられた髪が肩の僅か上で機械的に揺れた。彼女は睨むように真剣にメニューを眺めてしばらしくてから発言した。「……やっぱりオムライスにしよう、ねぇ、ちーちゃんは何にする?」

「ドラゴンハンバーグに決まってんだろぉ」

 ドラゴンハンバーグっていうのは別にドラゴンの形をしているわけじゃなくってただ大きいだけのハンバーグだ。ただ大きいだけだけど、凄く大きいから、そのネーミングは一応納得は出来るものだった。

「ねぇ、二人とももしかして、」エイコは聞く。「私のピアノを聞きに来たの?」

「違います、」フミカはハッキリと否定して視線を遠くに泳がし手を軽く持ち上げた。「あ、マナミさーん、注文いいですかぁ?」

 錦景市のローカルアイドル、エクセル・ガールズのブルーの橘マナミは普段はドラゴンベイビーズのメイドさんとして働いている。彼女はカウンタの端の方にいて、グラスを片付けてからこちらに、ててて、という感じでやって来た。彼女は素晴らしく、笑顔だった。「やあやあ、来たな来たな、お帰りなさいませ、お嬢様にお嬢様ぁ」

「ただいま、まーちゃん、けけけっ、」チカリコがフランクにマナミのことをまーちゃんなんて呼ぶのは二人が従姉妹同士だからだ。その事実を知るまでエイコはちょっと疑っていたんだけど、事実はそう。「ドラゴンハンバーグ」

「はい、ドラゴンハンバーグね、フミカちゃんは?」

「オムライス」

「OK、」マナミは手でOKサインを作って口元をきゅっと結んで目を大きくした。「すぐに用意するから、ああ、飲み物はコーラでよかったかしら?」

『うん』二人は同時に頷いた。ピッタリ息が合っている。

「よっしゃ、待ってて」マナミは早い動作でキッチンに戻っていった。そんな彼女の素早い動きをエイコはあまり見たことがなかった。だから何かあるんじゃないかって思うのは、当然のことだと思う。

「マナミと何か約束してたの?」エイコは聞く。

「いいえ、特に」フミカは否定した。

 その後にフミカが何かを話してくれるかな、と思ったんだけれど、結局彼女は、チカリコもエイコに何も教えてくれなかった。本当に何もないのかもしれないけれど。

「そう」エイコは珈琲を一口、口に含み、無関心を装ってサリンジャの世界に戻った。

 五十ページくらい読み進めたところでステージの時間が来た。チカリコとフミカは料理とデザートを食べ終え、小さな声で猥談に花を咲かせていた。そういう話はベッドの上でやってと言いたかったけれど、偏屈な女だって年下の女の子に思われるのも嫌だったので「二人ともまだまだ子供ね、それってね、要するに合体よ、合体」と適当にアドバイスを送ってから、店内フロアの前方にあるステージに向かった。

 拍手で迎えられる。

 エクセル・ガールズほどじゃないけど一応エイコにも、ファンがいる。年下の女の子と、二十代、三十代の男性が中心で、彼らはステージに近い席をきちんと確保していた。

 エイコは風雅、という言葉を意識してピアノの前で客席にお辞儀をし、椅子に腰かけた。

 エイコが着席したタイミングで拍手は鳴り止む。

 拍手が鳴り止めばフロアは途端に静かになる。

 息を潜める、という感じになるんだ。

 こういう雰囲気になるのには理由がある。

 昔一度客席がうるさくってキレちゃったことがあった。ヒステリック爆発のマジ切れってやつ。それからエイコのファンは極端に静かになってステージ前はちょっと異様な空気が彷徨うようになってしまったんだ。あのときのことは反省してる。でも感情が弾けちゃったんだ。後悔しても仕方がないことですよね。

 実際、静かな方がピアノの始まりには相応しい。

 エイコの指先が鍵盤に触れる。

 音が鳴って。

 狭いフロアに沈み。

 連鎖して旋律になる。

 そして今からここの未来は。

 私の世界になるのでしょうね。



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