第四章④
「大空襲の話をしましょうか」
錦景市は西暦何年かの八月五日の正午を迎えていた。上州松平邸の大広間には客人が集まり、畳の上に並べられた座布団に座していた。誰も物音一つ立てず静かに、響く声に耳を傾けている。
広間の前の一段高くなったスペースにいるのは松平家の人間で、その隅にチカリコはポツンと無表情で座っていた。その隣にチカリコの両親が並んでいる。中央ではチカリコの祖母である、松平トシコ様が左右に姿勢良く歩きながら大空襲の話をしていた。
戦争体験の話だ。会同では毎年、トシコ様はその話をする。同じ話を繰り返しているのは思い出を風化させないためよ、とトシコ様は言う。
広島に原爆が落とされた一日前、錦景市の繁華街は大空襲に見舞われた。私はそのとき十四歳の少女で大空襲のあった夜の九時には邸に隣接する洋館の玄関ホールでワルツの練習をしていたの、とトシコ様は懐かしそうに話した。「ご学友のケイコさんとね、戦争中だっていうのにレコードを鳴らして、隠れてワルツを踊っていたの、そのときはまさか、あんなことが起こるなんて思わなかった、戦争中だってことは分かっていたし漠然とした恐怖は感じていたんだけれど、戦争なんて日本の外でやっていることだし、現実感のない話だったのよね、それが現実に思えた瞬間だった、途方に暮れた夜だった、あの日の夜の恐怖って何年経っても消えないわ、何度も夢に見るの、未だにケイコさんの泣き顔を何度も夢に見る、ケイコさんはもう亡くなってしまって夢でも会いたい人だけど、泣き顔を見るのってやっぱり辛いものがあるのよね、夢で会えてもね」
思い出を話すトシコ様の声には力があって、大広間によく響いた。外見も老年を感じさせない若々しさがあって、瞳の色も明星だ。
さて、トシコ様の話の後、松平家現当主で、チカリコの父である、松平ヒロシの話が始まった。長い話だった。これからの錦景市の都市計画についての展望だった。「これからは、諸君、アレだよ、アフリカさ、アフリカをしっかり押さえなくっちゃ、アレは大事な生命線さ」
ヒロシの言うアフリカの意味はフミカにはよく分からなかった。というか、ヒロシの話をフミカはほとんど聞いていなかった。
とってもトイレに行きたかったの。
もう決壊寸前、って感じが十分以上続いていて、変な汗が出ていた。
大広間はちゃんと冷房が効いているんだけれど、汗が止まらなかった。
脂汗。
目をぎゅっと瞑って。
限界!
そう思ってからフミカの行動は早かった。
幸いにもすぐ後ろに人はいなくて襖一枚だけ。それだけ横にスライドさせたら廊下に出れる。フミカは音を立てないように襖を開け、身を低くしたまま四つん這いで廊下に出た。
襖を閉めて立ち上がる。足が痺れていて感覚がなかったけれど、これは想定内。正座したら痺れちゃうのはいつものこと。思いっきり歯を食いしばってぎこちない足取りでトイレに向かった。
ちょっと漏れちゃいました。
というのは、ええ、冗談なんですけれど、冗談ですからね。
とにかく無事に用を済ませて洗面台で手を洗い、鏡を見ながらハンカチで顔の汗を拭いていると、チカリコが背後に出現した。ちょっと吃驚。
「どうしたの、突然抜け出して」チカリコのチカリと笑った顔が鏡に映る。
「我慢できなかったのよ」フミカは振り返って言う。
「え、お父様のお話のつまらなさ加減が?」チカリコはフミカの接近しながら言う。
「違う、おしっこ漏れそうだったのよ、ちーちゃんこそ、抜けてきたんだ」
「お父様の話のつまらなさ加減が我慢出来なかったのよ、」チカリコは長い髪を払って言った。「くだらないって叫んでしまいそうだったから、絵空事ばかり言って、何がアフリカよ、ほとんど夢の話よね、夢の話をしていい気になって、本当に莫迦野郎よ、莫迦な男、お母様もそんな莫迦な男の横顔をうっとりと見つめちゃって、本当に何も分かっていないんだから、もう我慢の限界だったんだぜ、去年よりも私は少し大人の女に近づいたので、去年よりも莫迦さ加減の酷さが分かっちゃうからさ、でも偉いでしょ? 叫んで混乱を招かないためにわざわざ出て行ってやったんだ、誉めてよ、フーミン」
「偉いよ、ちーちゃん」言ってフミカはチカリコの頬にキスした。
チカリコはフミカの頭を触り、そして声を上げた。「あ、まーちゃんだ」
「え?」フミカは慌ててチカリコから身を離す。
エクセル・ガールズの橘マナミがトイレに顔を覗かせて、二人をじっと見ていた。彼女も松平家とは縁がある人。彼女も会同に出席していたみたいだ。去年は彼女の両親は出席していたけれど、マナミの姿はなかったと思う。だからフミカはマナミの登場に少し吃驚した。「……入ってもよろしいかしら? ああ、もちろん、お取込み中だったら、別のトイレに行くけど、んへへっ、んへへへっ、んへへへへっ」
「何を遠慮してるの? 入りなよ、まーちゃん」
「あら、そう?」
チカリコが認可を上げるとマナミはすっごく素敵な笑顔のまま、その口元を手で隠して、フミカとチカリコの横を通って個室に入った。
扉がパタンと閉まる。
「……見られちゃった」フミカはポツリと呟いた。
「何が?」チカリコはとぼけてフミカの頬にキスをして、舐めた。




