第一章③
中島シノブは枕木家のリビングのソファに寝そべり中世史の論文を読んでいた。枕木ジンロウとの共同研究とは関係のない論文だったけれど、中世史研究をするに当たっては一読しておかなければ論考がそこにはある。とてもリラックスしながらシノブは静かに学術的興奮というものを感じていた。
「あ、シノブ君だ」
ジンロウの妹のユウが中学校から帰ってきたようだ。彼女は食材がつまったスーパーマーケットのビニル袋を片手にリビングに入ってきた。「こんにちは」
「こんにちは、お邪魔してます、」シノブは論文をテーブルに置き、彼女に向かって微笑んだ。「夕食は何?」
「シノブ君は何食べたい?」ユウは冷蔵庫の前に移動しながら聞いた。
「僕も食べていっていいの?」
「いつも食べてってるじゃん、」ユウは冷蔵庫の整理をしながらそっけなく言う。「貧乏学生、お金ないんでしょ?」
「うん、お金ない、全くない、」シノブは今夜のご飯の心配がなくなり嬉しくなった。そしてテーブルの上の学術書を手にして言う。「実はこの本、八千円もして、使い果たしちゃったんだ、なけなしの生活費」
「え、八千円、その本が?」ユウは目を丸くしてシノブの本を見る。「信じられない、ただの本でしょ?」
「まあ、確かに図書館にもある本だけど、でも手元に置きたかったからね」
「八千円もあったら僕、漫画買うな」
「八千円分の漫画の価値はくらいはあると思うけどな、一冊五百円として十六冊分の時間は多分、楽しめると思うけど、ユウちゃんはどんな漫画読むの?」
「少女漫画とか、」ユウは牛乳をコップに注ぎ飲んだ。「僕の部屋、沢山あるよ、読んでいいよ、その、中世史研究に疲れたときとか」
「へぇ、今度読んでみようかな、僕にも牛乳くれる?」
「うん」
「ありがとう」
ユウはコップに牛乳を注ぎながら言う。「ねぇ、シノブ君、もうここに住んじゃえば?」
「え?」
「ほら、だってさぁ、」ユウは口を尖らせて言う。「ここのところずっとほぼ毎日、そのソファはシノブ君のものだし」
「ああ、ごめん、ここ、ユウちゃんの席だった?」
「いや、そういうこと言いたいんじゃなくって、」ユウは牛乳の入ったコップをシノブに渡す。「下宿代もったいないでしょ、我が枕木家に住めば下宿代もかからないだろうし、光熱費だってもろもろさ、その浮いた分のお金でちゃんとしたご飯を食べたらいいと思うんだよね」
「いいのかな?」
「僕は全然、」ユウは大きく頷く。「構わないけど」
「でもフミカちゃんは、僕がいたら嫌がるだろう、なんてたって女子高生なんだから、家族でも友達でもない他人が家にいるのは嫌だと思うもの」
「僕は女子中学生だけどぉ」ユウは口を尖らせて言う。
「ああ、ごめん、失言だった、」シノブはユウの頭を撫でた。「許して、ちゃんとユウちゃんの、そのプライベートな空間には入り込まないようにするし、もし一緒に住むようになった場合」
「別にそういうことは気にしなくてもいいんだけどな」
「え?」
「なんでもない」
「お言葉に甘えたいな」
「うん、フミカにはちゃんと僕から言っておくから、」ユウは腰に手を当て言う。「任せといて、ジンロウのことは別に気にしないで」
「ありがとう、」シノブは笑って、ユウのことをぎゅっと抱き締めた。「本当にありがとう、……ユウちゃん?」
抱き締めてすぐに離れるつもりだったんだけれど、なぜかユウはシノブのことをぎゅっときつく抱き締めていた。ユウの頬はシノブの胸に密着していて、彼女の表情は分からないけれど首筋はピンク色だった。
ユウは寂しいのかもしれないとシノブは思った。
枕木家の両親はシノブがここに来るようになってから一度も姿を見せてない。すでに他界しているのか、それとも何らかの事情があって帰っていないのか。シノブはその事情を聞いていないけれど、何か事情があって三兄妹は両親と会えない状態が続いているのだ。ジンロウとフミカくらいの年齢であれば、すでに両親の不在を割り切っているだろう。しかしまだ中学生のユウには難しいことかもしれない。両親不在の寂しさを解釈し消化することはきっと難しいことだと思う。ジンロウとフミカは、数日間一緒にいて思うことだが、ユウの精神的なよりどころとは言えない兄と姉だった。ユウがしっかりしている分、むしろジンロウやフミカの方がユウを頼りにしている部分があった。つまりユウは兄にも姉にも甘えられない状態だったのだ。だからきっと、ユウはシノブに兄や姉らしい存在になって欲しいのだろう。そうでなければ一緒に住もうなんて、赤の他人に、まして貧乏学生のシノブなんかに提案しないと思うのだ。
「ご、ごめんなさい、」ユウは自分から離れた。「ジンロウがいないからって、その、勝手なことして」
「気にしないで、」シノブはユウの肩に手を置き言う。「僕でよければ、いつでも抱き締めていいから」
「いつでもは駄目だと思うな」ユウは頬を僅かに朱に染め口を尖らせて言った。
そのタイミングでチャイムが鳴った。
「あ、キティかも」ユウは言った。
「え、キティちゃん?」
「ああ、サンリオのキティちゃんじゃなくってね、隣に住んでる、僕の幼なじみのキティのことで、今日、遊びに来るって言ってたから」
ユウはどこか罰が悪そうにそう言って玄関に向かう。
シノブはリビングのテーブルに散乱した中世史の論文を片付けて専門書に栞を挟み鞄の中に入れた。
「シノブ君はいるか!?」
爆弾のような何かが破裂するような声にシノブは本当にびっくりした。その声はチカリコの声だった。松平チカリコ。上州松平家のお姫様だ。彼女は足音を大きく立ててフローリングの廊下を進みリビングに顔を覗かせた。これ以上ないってほどの満点の微笑みだった。「ついにシノブ君の初陣が決まったじぇ!」