第三章⑥
「私はけだものになりたいわ!」
キティの叫びは誰もいない静かな公園に響いた。「けだものになりたいのっ!」
ライフラインというスーパマーケットの裏手にある公園で、広くもなく狭くもなく、遊具はブランコと鉄棒とシーソしかない公園だった。錦景女子高校から枕木邸へはこの公園の前を通る。暑くってしょうがなくってユウはアイスクリームを食べたくなったので、ライフラインでアイスクリームを買って公園のベンチで食べようと提案した。キティはそれに大賛成した。提案通り、二人はライフラインでアイスクリームを買って公園のベンチに座って食べた。冷たくっておいしくって、ぼうっとしていた脳ミソがやっと働き出したような感じだった。働き出した脳ミソでユウはチカリコとフミカがやって見せてくれたことを思い出した。やっぱりけだものだと思って、それをキティに伝えると、そう叫んだのだ。「けだものになりたいのっ!」
「僕はなりたくないな、なんていうか、汚い」
「まあ、汚いだなんて!」キティは大げさに声を張り上げる。「汚くないわ、とっても素敵だったじゃないっ」
「素敵なんて、思わなかったな、」ユウは素敵なものを想像していたけれど目の当たりにしたものは想像とは程遠くて、汚くて、けだものだった。正直、引いてしまったんだ。「キティはどういうところが素敵だって思ったの?」
「まさに、そのけだもののところだよ、ユウちゃん!」キティは強く、訴える。「けだもの、みたいに、原始的に、そう、原始的だった、とってもプリミチブなエネルギアがそこには溢れていて、その形は、互いに愛ぶつけ合う二人は、ぶつけ合っては二人は太陽みたいに綺麗だった」
「綺麗だったかな?」ユウは口を尖らせて言う。
「綺麗だったわよぉ、」キティは胸に手を当て言う。「あれが綺麗じゃなかったら、綺麗って何?」
「僕、キティにあんなことしなきゃいけないの?」
「そうよ、んふふっ、ユウちゃんは今夜、私にあんなことをしてくれるんだね、んふふっ」
「それって決まってる未来?」視線を上げれば、遠くの空は紫色に滲んでいる。錦景市に夜が近付いている。「ねぇ、キティ、まだ僕たち、中学生だし、早いんじゃないかな、そうだよ、早いと思うんだよなぁ、早いと思うぜ、もっと時間が経ってからでもけだものになるのは遅くないと思うんだ、もっと時間が経ったら僕だってキティと同じ気持ちになれるかもしれない、綺麗だって思えるかもしれない、でも、今は違う、だから今夜は、」
「ふざけんなっ!」
キティは叫んだ、というか、吠えて立ち上がった。怖い顔をしていた。ユウは小さく悲鳴を上げた。「き、キティ?」
「ユウちゃん、ねぇ、どれだけ私が今夜を待ちわびていたか知ってる!? どれだけ私がユウちゃんと添い遂げたかったか知ってる!? どれだけ私がユウちゃんのことを愛しているか知ってる!?」
「き、キティちゃん?」ユウはベンチから腰を浮かせた。手を前に出してキティから距離を取る。いつでも逃げられる態勢を取った。キティは怒っている。本気で怒っている。滅多にない大爆発。スーパ・ノヴァ。「あの、なんていうか、落ち着いて、落ち着いてってば、キティ」
「ユウちゃんは知らないでしょうね! そんなことを平気で言うんだから! ああ、もう!」キティは地団駄を踏んでいる。地団駄を踏んでいる女の子をユウは初めて見た。「あったまきた! あったまきた! あったまきた!」
キティは吠えながら拳を振り上げてユウを襲う。
キティの襲撃にユウはわっと逃げた。
「待て、こらぁ!」
ユウは止まらず逃げ回った。
公園の中をぐるぐると逃げ回った。
キティは足が遅いので、ユウは捕まらなかったけれど、公園を何周もしてヘトヘトになった。キティだってヘトヘトには違いないんだけれど、追いかけるのを止めない。
ユウは逃げ続けた。
キティは追い続ける。
二人は走っているけれど、それは歩くペースと変わらなかった。
しばらくして公園に一人の男性が登場した。ワイシャツに、黒いスラックス。彼は不思議そうに走る二人を見ながらベンチに座り、煙草に火を点けた。
煙を吐き、スラックスのポケットから文庫本を取り出して開いて読み始めた。
声を出して読み始めたんだ。
多分。
それは詩。
とても叙情的で観念的で取り留めのない言葉を彼は連ねていく。
彼の声は抑揚なく低く響き。
それは紫色に染まってしまった空の下に相応しい。
ユウはこの公園に住まう文学者の邪魔をしてはいけないと思って立ち止まる。
立ち止まった背中にキティが優しくぶつかった。
キティの目も、公園に住まう文学者に向いていた。
文学者の声が響いてくる。
「ああ、諸君はいま、
この颯爽たつ諸君の未来圏から吹いて来る、
透明な風を感じないのか」(生徒諸君に寄せる、谷川徹三編「宮沢賢治詩集」より)




