第三章④
錦景市立春日中学校のお昼休。
二階の渡り廊下から、枕木ユウとキティ・ローリングは百葉箱を中心に北校舎と南校舎の間に広がる中庭を見下ろしていた。中庭では灰色のズボンと白いワイシャツと白いスニーカの男子たちが走り回っている。
鬼ごっこをしているのだ。
中学生にもなって鬼ごっこなんて、と思うけれど男子たちは凄く楽しそう。最近の男子たちはグラウンドでサッカーをするんじゃなくって校舎と校舎の隙間、物陰が多い場所で鬼ごっこをしている。流行っているみたい。二十人以上の男子が鬼ごっこに参加しているんじゃないだろうか。とにかく鬼ごっこが流行っているおかげで、サッカー好きの女子たちはグラウンドのゴールを使うことが出来ている。渡り廊下の反対側からグラウンドが見える。撫子たちはパンツが見えるのも構わずに愉快そうにボールを蹴っている。
「ああ、楽しそうっ、」キティが声を上げ息を吐いた。キティは中庭で走り回る男子たちを睨むように見ていた。「私も鬼ごっこしたいな」
「混ざってくればいいじゃん」
ユウはそっけなく言った。男子たちは鬼から逃げるために中庭から消えて、武道館や部室の方に散開する。
「私があの獰猛な男子たちと一緒に鬼ごっこをしてもユウちゃんは何も思わないの?」
「すぐに捕まっちゃうよね、」ユウは片目を瞑って小さく笑う。「キティ、足遅いもんね」
「ユウちゃんなら、」キティはユウを睨む。「捕まらないかもね」
「僕でも捕まっちゃうよ、男子たちとは筋肉の量が違う」
「男の子ってお得よね、無邪気でも許されるんだ」
「そうかな」ユウは首を捻って視線を下に降ろす。
「でも男の子が大人になって男になったら、」キティは人差し指を立てる。それってキティが自分勝手な哲学を創設したときのポーズだ。「無邪気さは失われて邪気の塊になる、きっと中学生の男の子があんな風に天衣無縫イノセントでいるのはきっと邪気の塊になるためね、ドロドロの邪気の塊よ、つまり排泄物みたいに汚くなるから、汚れてしまうから、だからああやって発散して、バース時に満タンにあったイノセントをゼロにしようとしているんだわ、しているというかそういうシステムがある、本能ね、きっとそう、そう思うと可愛そうね、男の子って可愛そう、そう思うと彼らの鬼ごっこって、戦場へ向かう兵士の最後のダンスね、この中庭は最後のダンスホールってわけだ、切ないね」
「そうかな、」ユウはキティの顔を覗き込んで言う。キティの顔はピンク色だった。それに凄く汗を掻いていた。「暑いの?」
「暑い? 錦景市が暑くなるのはこれからでしょ、まだまだ錦景市は暑くなるんだから、私はこれくらいで暑いなんて言わないわ」
「ジンロウを見ていたら、僕はそうは思わないけどなぁ」
「え? ジンロウがどうしたの?」
「いや、ジンロウは無邪気だし、邪気の塊には見えないって話」
「ジンロウはまだ子供よ、あんなの、大人じゃない、子供よ、ガキンチョだわ」
「一応僕の兄貴なんだけどな」
「私にはユウちゃんの方が大人びて見えるわ、」キティは手すりに体を預けて目を細めてユウを見つめる。「なんだろうな、ユウちゃんの心って広くて真っ直ぐで、真ん中で、ブレていないの、私はそんなあなたが好きなの、愛しているの、キスしていい?」
「駄目だよ、」ユウはキティから身を引いた。「学校だし」
「学校だからいいんじゃないの、」キティは首を傾けてブロンドの髪を揺らした。「んふふっ、ねぇ、良いこと思いついた、鬼ごっこしましょう?」
「え、男子の鬼ごっこに混ざるの?」
「違うわよ、私とユウちゃんの二人で鬼ごっこをするの」
「それってとっても面白くなさそう、二人だけなんて」
「私が逃げるから捕まえて、」キティは後ろで手を組んでじりじりと後退しながら言う。「捕まえられたら私はユウちゃんにキスをするわ」
「ねぇ、それってどういうこと?」
「ユウちゃんが捕まえられたらご褒美にキスして差し上げますわ、っていうことね、んふふっ」
「なんだろう、それって可笑しい気がする、それって僕がキティにキスしたいみたいじゃないか」
「それって間違いなの?」キティは自分の唇を舐めて濡らして、少し尖らせて指で触る。「キスしたいでしょう?」
ユウは少し。
ほんの少しだけ、動揺する。
きっと夏なので。
夏の暑さで汗に濡れで、頬をピンク色に染めて、どことなく妖艶なキティの柔らかそうな唇にキスしたくなった。
夏の気の迷いだきっと。
でもその迷いが何かを変えることもあるのかもしれない。
なんてことをふと、思いました。
錦景市の初夏の暑さにやられてしまっているのかもしれません。
僕は夏が苦手です。
「さあ、よーい、どん!」
キティは手をパチンと叩いてユウに背を向け、灰色のスカートを激しく揺らして北校舎の方に走った。
「あ、キティってばぁ!」
ユウも走った。逃げるものを追いかけることは本能だろうか。とにかく鬼ごっこが始まってしまった。
始まってしまったら。
途端に楽しくなった。
凄くキティにキスしたい気持ちになった。
その気持ちは無邪気だろうか。
無邪気だったら、素直に嬉しい。
でも女の子って無邪気に見えても、男の子みたいに無邪気じゃない。
その無邪気な目をよく見れば何かを企む目をしていて。
それはゾクっとするほど怖い目で。
それで確かに狙っているんだ。
僕だって怖い目をする。
「ユウちゃん、なんだか怖いよ」
音楽室の前で捕まえて近くの誰もいない女子トイレに連れ込んでキスしたらキティは儚げな声を出して言った。「どうしちゃったの?」
どうしちゃったんだろう?
夏の気の迷いで鬼ごっこをして五分後。
キスをして。
何かが変わってしまったみたいだ。
いや、追いかけた、というプロセスの中で。
ふと。
キティがこのまま僕の隣から消えてしまうんじゃないかって思ったら。
途端にいつも傍にいる彼女のことが溜まらなく愛しくなったんだ。
シノブ君よりも、キティを見つめていたいと思った。
そう心が思ってる。
ユウの頭はなんだかぼうっとしていて回っていない。
「熱いな」
走り回ったせいだろう。校舎の中は暖かい空気が籠もっていてきっと外よりも暑いはずだ。「凄く、熱い」
「まだ錦景市は初夏だよ、」キティは汗で凄く顔を濡らしている。「まだまだこれから暑くなって、きゃ!」
ユウはキティを壁に押しつけて、無理矢理キスをする。
息が苦しくなってやっとユウは唇を離した。
二人とも呼吸が乱れている。
キティは今までに見たことない目をしていた。瞳は濡れている。困惑と期待と歓喜と恐怖の感情を複合的にその色に、チカリチカリと見せていた。「……ねぇ、ユウちゃん、本当にどうしちゃったの?」
ユウは答えずにキティのことを強く抱きしめて彼女の胸に顔を埋めた。キティの匂いが強くした。汗の匂いがブラウスに染み込んでいた。このまま午後の授業に出席するには薄手の白いブラウスは濡れ過ぎている。
ユウが胸に強く触れるとキティは小さく悲鳴を上げた。その悲鳴はユウの脳ミソの深いところを刺激して悦楽を覚えさせる。
「ねぇ、キティ」
「な、なぁに?」
キティの声は震えていた。泣き声のようにも聞こえた。嬉しくて泣いているみたいだ。きっと今までにないくらい、ユウが抱き締めたから嬉しくて泣いてしまったんだ。
「続きってどうやるの?」ユウは続きを知らない。この先、どういう風にことを進めたらいいか分からなかった。まだ中学生なので、ほとんどのことって試行錯誤の連続だ。「キティは、知ってる?」
「知らないわよっ!」キティはゴールドの光を放つような、とびっきり明るい声を出した。「そんな! 続きのやり方なんて私が知ってると思ったの!?」
「知らないの?」
「知らないっ! 知らないっ! 知らないっ!」キティは飼い主を出迎える犬の尻尾みたいに首を振ってブロンドの髪を揺らした。「私、そんなにエッチなことばかり考えてないもんっ! ユウちゃんが思っているよりも私ってちゃんと真面目なことを考えているんだよ!」
「いや、」ユウはキティから体を離して言う。「別にそういう意味で言ったんじゃ、」
「帰ったらお姉さまに聞きましょう!」キティは言って、嬉々とした表情になった。
「え、お姉ちゃんに?」
「うん、フミカお姉さまならきっと、」キティはミュージカル女優みたいに両手を広げてクルリと一回転した。「続きのやり方を丁寧に教えてくれるわ!」




