第二章⑩
「私のフミカから離れろ、この変態ロリコン野郎っ!」
チカリコの声だ。
チカリコは二人の踊り子を従えて、タキシード姿のエイコとリホを左右に立たせてステージ用の小さな傘を差させていた。
青い十二単を装ったチカリコはライブ用のユニオンジャック柄の拡声器を構えて叫んだのだ。
強い雨の中だったけれど、その叫びは雨に染み込み溶かされることなく公園に響いた。
「……ちーちゃん?」
三人はゆっくりとこちらに近づいてくる。
チカリコは目を細くして、ケンジのことを睨んでいた。
片目を瞑り照準を合わせている。
拡声器をピストルみたいに構えて。
それはピストルじゃないんだけれど。
ケンジはフミカの体から手を離し、それを顔の横に持ち上げた。
それはピストルじゃないんだけれど。
チカリコは狙いを付けたまま、彼から三歩空いた距離で立ち止まって。
「バーンっ!」
チカリコは拡声器に向かってがなった。
ひび割れた巨大な声に驚き、フミカの心臓は一度停止したかもしれない。
リホは口を半開きにして耳を塞いでいた。
エイコは表情を僅かに歪め、後ろに小さく仰け反った。
「わっ!」
直撃を受けたケンジは声を上げて、後ろに倒れた。
ケンジは傘を手放した。傘は後ろに飛んで、公園の地面に落ちて、独楽のようにクルクルと回転して止まる。
「ケケケっ、」チカリコはケンジを睥睨し、愉快そうに笑う。「ケケケケケケケケケケケッ」
ケンジは呆然とチカリコの姿を見上げている。
「……ち、ちーちゃん?」
「帰るよ、フミカ、」チカリコは笑顔を消して、厳しい口調で言った。「こんなところにいては駄目よ、フミカ」
「フミカ?」自分のことをフーミンと呼ばないチカリコに、フミカは底知れぬ不安を覚えた。
「ずぶ濡れじゃない、」チカリコは不機嫌そうにフミカの髪を触った。指を入れる。乱暴だった。力が強い。強い力に髪が絡んで少し痛いと思った。「予報はずれの雨だったとしても、傘を買える場所が近くにあるのに、どうして傘を買わなかったの? 莫迦になったの?」
「ごめん」
「なぁに?」
「ちーちゃん、」フミカは震えていた。雨に濡れているから震えているんだと思うけれど、チカリコのことが怖くて震えているのかもしれなかった。自分の心がよく分からなかった。「怒ってるから」
「怒ってないわよ」チカリコは目を細める。チカリコは強い力でフミカの髪を梳く。
「ごめん」
「だから怒ってないわ」
「痛い、止めて、」我慢できなくて、フミカはチカリコの肩を押して自分の髪とチカリコの指を離した。「お願い、ちーちゃん、」フミカは涙が止まらなかった。「許して、許して下さい」
「だからなぁに?」
「ごめんなさい、もうしません」
「もうしません?」
「はい」
「何を?」
「シノブ君とはもう、しないから、だから、」
許して下さい。
フミカの文面は遮られる。
頬に硬いものがぶつかった。
痛い。
頬を触る。
そこだけ雨に冷えた体の中で熱い。
まるで灼熱。
チカリコが拡声器で。
フミカの頬を叩いたのだ。
そしてチカリコは拡声器を捨ててフミカの濡れた体を抱き締めた。
「痛かった?」
「はい」
「当然よね?」
「はい」
「フミカはもっと私に従順であるべきだ、」チカリコはフミカの痛い頬を舐める。そして濡れた体を強く触ってくる。「こんな風に私に秘密で歓楽領を作って、まるで私から逃げるように歓楽領を作って、ちょっと理解出来ないことをしている、危険なことをしていた、今まさに、歓楽領でフミカは揺らいでいたし、揺らぎやすい場でもある、そして縁を結ぼうとしていた、浅はかに、そんな男と、ええ、浅はかにもほどがあって、なんていうか、最低だと思うな、それって最低、どうしてフミカはここにいる?」
「どうして?」
どうしてだろう。
私はここに。
何が欲しくって。
何が恋しくって。
ここにいるんだろう?
……ああ。
ああ。
そうか。
私は。
恋しかったんだ。
欲しがっていた。
いつも。
いつも、このチカリコの温もりが恋しくって。
いつも傍にいて、なんて。
所詮、家来の私は主張出来ないこと。
嫌みは言えても、それが限界なんだ。
諦めていたから。
その憂いを、破裂させる場所を作ったんだ。
諦めていたから。
私は違う人に、真剣になったんだ。
ずっとお姫様を抱き締めていられないから。
私は王子様にはなれないから。
だから。
「莫迦ね、」チカリコは額をフミカの額にくっ付けて囁く。誰にも聞こえないようにフミカに聞こえるボリュームで囁いた。「フーミンは女の子よ、王子様になれるわけないでしょ?」
「でも私はちーちゃんの、王子様になりたかった、なりたかったの」
「莫迦ね、王子様になれなくたってフーミンは特別よ」
「特別?」
「そう、私の特別よ、それじゃ駄目なの? いけないの?」
「特別ってなぁに?」
「私以外の人を好きになっては駄目なの、フーミンは私以外を好きになっては駄目な女の子なの、だから特別なの、こんなに特別な女の子って他にはいないわ」
「特別なんて初めて言ってくれたね、」フミカは少し嬉しかったでも。「でもちーちゃんは他の女の子を好きになるんでしょうね、」思い切りの嫌みを声に込めた。「それって今までと何も変わらないわ、特別って言ってくれてもそれが変わらないなら」
「そうよ、変わらないわよ、何も変わらない、それじゃ嫌」
「嫌、ちーちゃんは私のことだけを愛して、愛して欲しいの」
「それは無理だわ」
「どうして?」
「私がお姫様だから」
「ああ、なんて、」フミカはチカリコの背中に爪を立てて奇声を上げた。「なんて不条理なの!」
「でも特別よ」
「特別なんていらない!」
「特別な女の子はあなただけよ、一緒に雨に濡れて額を突き合わせて会話をしているのはあなただけよ、すっごく特別じゃないの、この特別には凄く価値があるでしょう?」
チカリコの長い黒髪と青い十二単はすでに水を吸っていた。チカリコは雨に濡れて、凄くいい女になっている。フミカは彼女の唇を強引に奪った。噛み付いた。歯が当たって少し痛かったと思う。フミカだって痛かったから。
「お姫様の戯れ言ね、」フミカは言ってやった。睨んでやろうと思ったんだけれど、顔は勝手に笑っていた。どうしてこんなにヒステリックなのに、フミカはチカリコの戯れ言に信じられないくらいヒステリックだった、それなのに、なんだか、可笑しくって堪らない。訳が分からない。ヒステリックで、意味不明なんだ。「そんなこと言われたって、私は、私のヒステリックは消えないし、騙されないんだから、騙されない、絶対に、絶対に!」
「騙すって何のこと?」チカリコはとぼけるように言う。「真実しか、私は言っていないんだけどな、真実しか、聞こえなかったでしょう? その真実が嫌だからって勝手にヒステリックにならないでくれる?」
フミカは吹き出した。
声を上げて笑う。
狂ったように、笑ってるんだ。
凄く好き。
彼女のことが大好きだと思う。
フミカはチカリコの手を触り指を絡めた。
「もう一度結ぶわ」
チカリコは囁いて縁術を施した。
千切れかかって、ボロボロになった糸。
もう一度結んで。
大丈夫になったみたい。
ケンジには悪いけど。
今まで散々殴ってきたお礼はしようと思う。
また高いお肉を買ってあげよう。
それで十分よね。
とにかくもう。
「歓楽領にはもう来ない、」フミカは後ろで呆然と立ち尽くしているケンジに向かって言う。「もう来ないわ、絶対にね」




