第二章⑥
歓楽領、という言葉についてチカリコと初めて話した次の日は雨だった。
大学生は暇なので、今日もエイコはピアノ教室の先生の邸の無響室でピアノを奏でていた。講義は午後の三時に全て終わって、そのまま自宅に帰っても暇を持て余すだけなのでピアノを奏でに来たのだ。
今日は一人じゃなかった。女子高生だった頃からの友人の鏑矢リホと一緒だった。彼女はエイコと同じ法学部で、ほとんどの講義を一緒に受けている。リホはピアノの横に机を持ってきて、エイコが奏でる旋律をBGMに、レポートに取り掛かっていた。明日提出のレポートだった。エイコは昨夜までに終わらせていた。リホは昨日の夜になってレポートの存在を思い出して、エイコに手伝ってと泣きついてきた。エイコはピアノを奏でながら、時折リホの質問に答えアドバイスを送っていた。アドバイスを送ってもどうにもならないときはピアノを止めて、リホの勉強のしてなさ加減を叱りつけながら教えてあげた。「もぉ、どうしてこんな基礎まで覚えてないわけ?」
「だ、だってぇ、」リホは瞳を潤ませて可愛い子ぶる。「私、阿呆な子だもん、勉強嫌い、法律嫌い」
リホが名門の錦景女子大に入れたのは錦景女子高校の生徒はエスカレータ式に大学に入れるからだった。そしてリホが名門の錦景女子高校の生徒になれたのは、日本中の同世代の女子の中で一番遠くに飛べる女子だったからだ。つまりスポーツ推薦で錦景女子高校に入って、そのまま勉強もせずに大学生になった彼女は、おそらく錦景女子大の一年生の中で一番莫迦で阿呆な女子なのだ。
「法律嫌いがどうして法学部になんて来たわけ?」エイコはこれまでに何十回もした質問をする。
「それはエイちゃんが法学部を選んだからだよ、何回も言ってるっしょ、久納ちんと一緒は、なんだか心配だったのぉ」
久納というのは、リホと同じくエイコの錦景女子時代からの友人で、リホと三年間、寮のルームメイトだった久納ユリカのことだ。大学生になっても二人は、大学の寮に入りルームメイトをしている。心配、とリホが言う様に確かにユリカは少し変わった女子だった。自称恋愛小説家。どうやら彼女の恋愛小説は出版されているらしいけれど真実をエイコは知らない。ユリカはかなり個性的で、エキセントリックで、脳ミソの大事な部分のヒューズが飛んでしまったような女子。でもごく稀に天才的な発想を見せる。言うならエキセントリック・ジーニアス。そんなユリカは文学部に進んだ。文学部に進み、なんだか熱心に勉強しているみたい。
「とにかく、」エイコは大きく息を吐く。「このレポートをなんとかしなきゃねぇ、ああ、まだ全然進んでないじゃないのぉ、本当に終わるの?」
「うわぁん、」リホはエイコに抱きつき泣き真似をする。「もぉ、やだよぉ、やりたくないよぉ」
「可愛い子ぶってないで手を動かしなさいよぉ、」エイコはリホの体を押し返す。「これはリホちゃんのレポートよ、リホちゃんの問題よ」
「うう、難しい問題だぁ」
リホが頭を抱えた、そのタイミングだった。
無響室の扉がこちらに開いた。
チカリコが姿を見せた。
エイコは少し驚く。
チカリコは全身ずぶ濡れで、長い黒髪が体に張り付いてまるで幽霊みたいに見えたからだ。
「お姫ちゃんってばどうしたの?」エイコは立ち上がり扉を背中に立つチカリコに近づいた。「ああ、体拭かなきゃ、風邪引いちゃうわよ、傘持ってなかったの?」
「うん、」チカリコは笑顔を見せ、視線をリホの方に向けた。「リホちゃんもいるね」
「久しぶりね、お姫ちゃん」リホも立ち上がり、チカリコの方に来る。
「ほら、お姫ちゃん、こっち、」エイコはチカリコの腕を取り引っ張る。「先生にタオル貸してもらおう」
「三人でお風呂に入りませんか?」チカリコは提案する。
「いいね、お風呂に入ろう」リホはチカリコの提案にすぐに乗った。
「リホちゃんはレポートがあるでしょう? レポートから逃げるつもりね、駄目よ、お風呂はレポートが終わってから」
「えー、お風呂入りたいよぉ、」リホは子供みたいに口を尖らせる。「お風呂、お風呂に入りたい!」
「駄目だってば」
「はっ、くちゅん!」チカリコはくしゃみをした。鼻水が垂れている。チカリコは鼻水を手の平で掬ってケケっと笑う。「ああ、お風呂に入りたい、三人で」




