第二章⑤
「フミちゃんって呼ばないで」
フミカはシノブのことを睨み、そんなことを冷たく言った。それは自分の心から飛び出た言葉だけど、勝手に口が言ったから心の全てはシノブに伝えるためには足りてなかった。
色々なものが足りてない。
愛しいあなたにフミちゃんなんて呼ばれると恥ずかしくって死にそうになるので呼ばないで下さい、というのがフミカの心の正解。
睨んだのは、慌ててしまったから。
冷たい声音だったのは、緊張で喉が開いていなかったから。
包丁を握り締めて離さなかったのは興奮のせい。
シノブ君が傍に立っていたので興奮してしまったんです。
そんな自分は。
はい。
客観的に見て、変だと思います。
シノブ君も私のことを変な娘を見る目で、ええ、限りなくそういう目で、見ていました。
「ごめんね、」シノブは寂しそうな顔をして謝った。「もう馴れ馴れしく呼んだりしないから、嫌な気持ちにさせてしまったなら、ごめん、忘れて」
忘れてと言われても、それは難しくって。
食事中ずっと、フミカはシノブのことを考えていた。
シノブのことで頭は灼熱していた。
ケンジを殴って、叫んで、そして消えたと思ったシノブへの恋心は。
そう、恋心だ。
恋心は簡単に蘇りフミカの眼前にて揺らめいている。
テレビはミュージック・ギャラクシィを平たい画面に映している。
リビングには、ザ・コレクターズのロックンロールが響いている。
ユウがよくしゃべっている。
ジンロウが夕食について文句を言ってユウのことを怒らせる。
シノブはユウの味方をして、ジンロウを非難している。「女の子の料理を貶す男は最低だぜ、例え味が濃くったって男なら黙って食べろ」
「え、やっぱり味、濃かったかなぁ?」
フミカの灼熱の頭は言葉を紡がなかった。
「ごちそうさま」
茶碗にご飯三分の一を残してフミカの食欲は消えた。自分の食器だけシンクに張った水に沈めて二階の自室に入った。自室の扉に勉強中を知らせるボードを提げ鍵を掛けた。フミカの部屋には鍵が二つある。それを両方とも締めて、フミカはベッドに飛び込む。紅茶色の枕を抱き締めた。
枕を抱き締めたまま。
フミカはベッドの上を転がった。
悶々としながら、転がった。
悶々。
悶々。
悶々。
転がるのを止める。
フミカは起き上がって、転がったせいで髪の毛がボヘってる、書棚の前に立つ。そして岡本かの子の短編集を選び紐解いた。肉情を消すためだ。エッチな気持ちを消すためだ。シノブにキスして体を触りたいっていう猥褻な気持ちを消すためだ。
かの子先生。
私はどうしようもない女の子です。
フミカは「金魚繚乱」にしばし浸って書棚に戻す。文学の気持ちになった。よし、とフミカは机に座り、姿勢を正し、ノートパソコンを立ち上げる。
文学を書こうとしたのだ。
そのタイミングだった。
フミカの鍵穴二つの扉がノックされた。強いノックだった。「フミカちゃん、ごめん、ちょっといいかな?」
シノブの声に文学の気持ちは遠くに消えた。とりあえず、咄嗟にノートパソコンを畳んだ。ノートパソコンの壁紙は、お姫様の裸体だったからだ。
「なんですか?」フミカは扉の前に立ち、声を出した。
「中に入れてくれない? 嫌ならいいけど」
フミカは少し迷って、別に何か結論を出した訳じゃないけれど、二つの鍵を開けて扉を押し開ける。「どうぞ」
フミカはシノブの顔を見れなかった。
「中に入っていい?」シノブの声は無理に明るくしてます、という感じで、フミカはちょっと辛い。
「どうぞ、」フミカは頷き、無理に微笑んだ。「ちょっと、汚いかも、です」
「ありがとう、可愛い部屋だね、」シノブはフミカの部屋を見回し言った。シノブがフミカの部屋に入るのは初めてだった。あんまりジロジロ見て欲しくないと思った。「凄く女の子らしいっていうか」
「そうですか?」フミカは恥ずかしくって、扉の前から動けない。
「ほら、この豚とか」
「その豚は可愛いです、」ピンクの角張った一等身の豚のぬいぐるみは、ライフラインの精肉売場のキャラクタでトントロという名前だった。以前にケンジからプレゼントされたぬいぐるみだった。豚のくせに豚肉をウマイってアピールするんだぜ、皮肉だよね、とケンジは笑ったが、フミカは笑えなかった。ちょっと命のことを考えてしまったのだ。豚は可愛い。可愛い豚を食べているんだって、考えた。それだけ。「中島さん、その、なんの用ですか?」
「用っていうかね、」シノブはクスリと笑う。「その中島さん、っていうの、ちょっと、アレかも」
「アレって?」
「まあ、いいや、」シノブはフミカのベッドの腰掛けた。フミカのベッドに腰掛けて、隣にフミカを誘う。「ちょっと、話したいことがあって、嫌なら、そのすぐにおいとまするけど」
「いえ、そんな、嫌だなんて、」フミカはぎこちなく笑いながら、手を前で繋いだままゆっくりと、慎重にシノブの隣に座った。二人の間には、なんとも言い難い、と言える距離がある。「話、聞きますよ」
「フミちゃん!」
「きゃ!」
フミカが悲鳴を上げたのは、急にシノブがフミカに密着して肩を抱いて顔を寄せて来たからだ。
シノブの格好良くって綺麗な顔がそこにあって、フミカは頭も心も体も灼熱になって、目が回りそうだった。「な、中島さん!?」
「フミちゃんって僕のこと嫌い?」
「ええっ?」
「僕のこと嫌いなの?」
「き、嫌いだなんて、そんな、そんなことありません、」フミカは首を横に振りながら声を絞り出して言った。「むしろ、その・・・・・・」
「むしろ?」シノブはさらに顔を寄せて来る。シノブの匂いがした。「むしろ、何?」
「ええっと、ええっと、」好きだなんてフミカは言えない。恥ずかしいし、チカリコのことを考えると好きだなんて言えない。いや、このときはただ、恥ずかしくって、勇気がなくって言えなかった。チカリコのことは考えられなかった。それほどの余裕はなかった。シノブが近過ぎるから、チカリコのことなんて考えられなかった。ただシノブに対して、灼熱になっていた。「・・・・・・あの、嫌いってわけじゃ、ありません」
「嫌いじゃないんだね?」
「はい」
「じゃあ、好き」
「・・・・・・」フミカは両手で口元を隠して黙る。首は動かさなかった。
「どっちなの?」
「・・・・・・」フミカは口を隠したまま、目をぎゅっと瞑った。
「・・・・・・まあ、いいけどさ、」目を開ければシノブは睨むようにフミカを見ていた。「まあ、いいけど、だったら、その、フミちゃん、仲良くしようよ、僕はフミちゃんと仲良くなりたいの、仲良くしたいの、仲良くご飯を食べたいの、なんか気まずいじゃん、気まずくない? 気まずいから、そういうの面倒臭いし、僕嫌なんだ、そういうの、だからお願いします、仲良くして下さい」
シノブがおどけるように言って、優しい笑顔をくれたので。
嬉しかった。
シノブの強引さが、嬉しかった。
フミカは頷いた。
「・・・・・・はい、仲良くします」
「よし、」シノブは拳を握り締めて高く持ち上げた。「じゃあ、これから僕はフミちゃんのことフミちゃんって呼ぶよ、いいね?」
「はい、いいです」
「じゃあ、僕のことはなんて呼びたい? もちろん、中島さん以外で」
「しーちゃん」フミカは即答した。
「え?」シノブの表情は少し固まる。「しーちゃん?」
「はい、しーちゃん」
「なんか、僕にしては、その、可愛過ぎるというか、女の子っぽいというか、そう思わない?」
「ううん、しーちゃんは可愛い!」フミカは思いっきり首を横に振った。「ウィッグを被ってノースリーブのワンピースを着たときのしーちゃんは可愛い! 凄く、可愛いんだもん! 凄く、好きなんだもん!」
「まあ、いいか、」シノブは照れた風に笑う。「じゃあ、これから僕のことはしーちゃんで、・・・・・・って、フミちゃん、何してるの?」
フミカはすでにセーラ服を脱いで、下着姿になっていた。
「しーちゃん!」フミカはシノブのことを押し倒し、馬乗りになる。「しーちゃん、私、ずっとしーちゃんとエッチなことがしたかったの、だからその、しーちゃんの前だと上手に話せなくって、それで、その、ああ、とにかく、凄く好きなの!」
フミカはシノブの唇に自分の唇を重ねた。
気持ちよくってどうにかなりそう。
唇を離す。
シノブは微笑んでくれた。
「鍵を締めて、」シノブは部屋の扉を指さす。「ジンロウには内緒だよ」
「うん」フミカは二つの鍵を締めた。
そしてベッドに戻る。
シノブはフミカを抱き締めて迎えてくれた。今度はシノブが上になった。
キスをする。
何度も唇を重ねた。
シノブと体を擦り合わせた。
シノブの体はとってもいやらしくって最高。
フミカは何度も大きな声を出したいのを枕に顔を押しつけて堪えた。
その繰り返し。
何度も果てた。
灼熱は冷えることがなかった。
今がずっとならばいいと思った。
しかし、今は当然ながら、続かないもので。
でも、ちょっと神様は酷いと思った。
フミカが我慢できずに高い声を上げた。
その瞬間に二つの鍵が開いた。
二つの鍵を持つ人は、この部屋の住人であるフミカと、フミカのお姫様である、彼女以外にいない。
チカリコが部屋に入って来て、スイッチを押して暗くしていた部屋を明るくした。明るい部屋。上に乗ったシノブも、チカリコのこともよく見える。
チカリコは珈琲カップを持っていた。
珈琲を一口飲み、チカリコはケケっと笑う。
そしてすぐに笑顔を消した。
冷たい目で、こっちを見てくる。
「・・・・・・あ、あの、ちーちゃん、これは、そのっ、」
「違うんだ、」シノブがフミカの声を遮り言う。「ちーちゃん、僕が無理矢理、フミちゃんを」
「どうぞ、」チカリコは扉を閉めて、机の前に座り、足を組み言う。「続けて、見てるから、珈琲を飲みながら見てるから、二人がセックスするのを見てるから、ほら、早くなさいよ、ジンロウにも、ユウにも黙ってて上げるから、ほら、続けなさい」
「ち、ちーちゃん、」フミカは泣きそうだった。「ごめん、ごめんなさい」
「謝らなくていい、別に怒ってないし、フーミンだって別の人と寝たいときだってあるでしょうよ、私がそうなんだから、別に気にしないわ、だからほら、続けなさいよ」
「ごめん、ごめんね」
「謝らなくていいって言ってるでしょう」
「ちーちゃん、だって泣いてるから」
「え?」
チカリコはすでに赤く腫れている目から伝う自分の涙を触り、濡れた指先を不思議そうに見て言う。「どうしてだろう、やっぱり、特別だから?」




