第一章①
「……ねぇ、ユウちゃん、聞いてる?」
枕木ユウは聞いていなかった。聞かずに屋上のフェンスを背中に青い空をぼうっと眺めていた。風に流れている雲の変化がなんだかとても楽しくて何も聞いていなかった。隣に座る幼なじみのキティ・ローリングの話なんて全くユウの耳には届いていなかったんだ。
「……ごめん、何?」
ユウが正直に謝ると彼女は英国流の盛大な舌打ちをしてからユウの顔をきつく睨んだ。彼女は日本生まれだが両親はロンドンの人だ。ローリング夫妻はユウとキティが生まれる一年前に日本にやってきて、枕木邸の、邸と言っても普通の文化住宅だが、隣の空き地に家を作って住み着いた。枕木家の三番目の子供のユウと、キティの誕生日は一緒だったから必然的にユウたちは同じ季節をともに感じることになった。今も感じている。同じ中学校に進学し、同じ制服に身を包み、昼休みの屋上で同じ春の空を感じていた。でも感じ方には違いがあるようで、キティはユウみたいにぼうっと、透明なブルーを全身では感じてはいなかったようだ。キティは空の色なんて本当にどうでも良さそうだった。それはキティのゆらゆらと揺れるブルーの瞳を覗き込めば分かった。
キティは絶賛ヒステリック中のようでございます。
僕にはその理由がさっぱり分かりません、……というのは嘘です。
「ユウちゃんのことが好きなの」
キティは睨む目を逸らして正面の空気を見ながら言った。「ユウちゃんのこと愛してる、好き、大好き、ずっと好き、幼稚園の頃から、ううん、きっともっと前から好きだった、産まれる前から好きなのかも、だから、ねぇ、お願いします、付き合って下さい、キスして下さい、ユウちゃん」
ユウは困った。苦悩した。この場から逃げ出したかった。早くチャイムが鳴ればいいのにな、と思った。そうすれば教室に逃げ込み問題を保留することが出来る。ユウは彼女を傷つけないようにする回答を持ってはいなかったし、どうしたって思い浮かんで来なかった。
ユウがキティの気持ちに応じて付き合ってあげれば、それが彼女にとっての正解なんだろうけれど。
ユウにとっての正解ではない。
二人にとっての正解でもないと思うのだ。
僕が本気じゃなかったらそれってキティを裏切っているってことだと思うから。
「もう、なんで黙るのっ!」
キティはヒステリックに怒鳴ってから、ユウの唇に乱暴にキスした。こんな風にユウが黙り込んでキティに乱暴にキスされるのは多分五回目だ。いや、六回目かもしれない。いや、もっと多いかもしれない。つまりユウはそれくらい、彼女から告白されていた。
最初は冗談みたいな感じだったのに。
彼女の目はどんどん本気になっていって。
いつの間にかユウはキティに恐怖のようなものを感じるようになった。
彼女の綺麗なブロンドが視界に入るだけで、体が反射的に緊張してしまうようになった。
中学二年生になり、彼女はどんどん綺麗になっている。その綺麗さに比例して彼女のヒステリックは大きくなり、鋭さに磨きが掛かっているようだ。
いつの間にかユウは彼女に押し倒されていた。
キティはユウのお腹の上にお尻を乗せて見下し。
悲痛な表情で。
次の言葉を待っているようだ。
ユウは喉に力を入れた。
「ごめん、やっぱり僕、キティとは付き合えない」
キティは涙をこぼした。
じんわりと染み出る感じ。
それがなんだか悲しくて。
ユウは少し泣いた。
悲しい気持ちは本当だ。
「どうしてユウちゃんが泣くの?」
キティは涙を煌めかせながら笑っている。怒っている。「私のことを振ったユウちゃんが泣くなんておかしいわ、狂ってるんじゃない?」
「だってキティが泣いているから」
ユウが笑顔で泣きながらそう言うと、キティは目を丸くして、ユウの頬に優しいキスをした。
「私はずっとユウちゃんのことを好きでいるつもりだから」
「うん、好きにして」
「これからも定期的にユウちゃんには告白させてもらいますからね、」キティはいたずらに笑ってそう宣言した。キティの笑顔は可愛い。ヒステリックの色に染まっていない普通のキティは物凄く可愛い英国少女だ。それは間違いのないこと。「それまでは親友のままでいましょう」
キティは立ち上がり、ユウの手を取り立たせた。
「さ、教室に戻ろうか」キティはそのままユウの手を引き歩き出す。
キティの手の温もりを感じながら、ユウはキティと付き合う自分の姿を想像してみた。
すぐにその想像をユウはストップした。
やっぱりそれはおかしいことだ。
なんてたってちぐはぐしている。
狂っているとさえ思うんだ。
ユウはやっぱりキティと恋人同士にはなれないと思う。
キティには悪いけどユウは彼女とはずっと親友のままでいたいと思った。
未来のことは分からないけど。
親友という距離感が、ユウとキティの絶妙だと思うんだ。
今のところね。
さて、放課後。
帰り道。
ユウは親友に戻って間もないキティにあることを相談した。
本当は昼休みの屋上でするはずだったんだけれど、その時間はキティの告白に使われてしまったから出来なかったのだ。
夕日のオレンジ色が綺麗。
キティはユウの少し前を歩きながら軽くステップを踏み「シャララーン」と鼻歌を歌っている。
ユウは彼女の背中に向かって言った。「キティ、実は僕ね」
「ん?」キティはスカートを踊らせてこっちに振り返る。
「好きな人が出来たんだ」
「はあっ!?」
キティは絶叫した。
そしてユウの胸ぐらを掴み、険しい顔を近づけて睨み聞いた。「そ、それって、だ、誰なのっ!?」
「ちょ、苦しいって、やめてよ」
「あ、ごめん」キティはパッと手を離した。
「キティが知らない人」ユウは視線をキティから逸らして言う。
「な、名前は!?」
「シノブ君」
「シノブ君? 誰よ、私、知らないわよ」
「キティが知らない人って言ったでしょうに、」ユウは顔が熱くなった。「ジンロウの友達でさ、最近家によく来るようになってね」
「ジンロウの友達って、大学生ってこと?」
「うん、」ユウは頷き足元を見た。二人の影は長く伸びている。「格好いいんだよ」
「……惚れちゃったの?」
「一目惚れでした、」ユウは照れくさいのを我慢できずにニヤケ、胸を押さえた。「こんな気持ちになったの僕、生まれて初めてかも」
「ふうん、それで、」キティは腕を組み、まっすぐにユウの顔を探るように見て言う。「今日も来てるの?」
「え?」
「そのシノブ君とやらは枕木家に今日もおるのか?」
「口調がなんだか武士っぽいよ」ユウは笑った。
「今日もおるのなら、」キティは真面目な顔を変えない。「会っておかねばならんだろう」
「いるかもしれないけど、どうして?」
「見極めるのじゃ」
「見極める?」
「ユウちゃんに相応しい人かどうか見極めるんだよ、親友として当然のことでしょ?」
そしてキティはユウの手首を掴み強く引っ張った。
「ちょっと、キティ、別に僕はシノブ君と付き合いたいとか思ってないからね、それに、会ってもさ、シノブ君に変なこと言わないでよぉ」
「変なことって例えば何よ?」キティは早口で聞く。
「例えば僕とキティが今までにキスをした回数だとか、そういう変なことは言わないでよね」
「さあ、分からないわぁ、」キティは急に立ち止まりこちらに振り返り鋭い眼をして言った。「状況的に、判断しますわ、なんてたって、大事なことですもの、ユウちゃんに相応しくない人でしたら、私はそういう変なことを言って遠ざけなくっちゃなりませんわ、もちろん親友としてね、親友としての当然の責務だと思いますわぁ」
「今度はなんだか、」ユウは口を尖らせて言う。「お嬢様っぽいよ、キティ」