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恋の縁術師(the Secret Affair)  作者: 枕木悠
第二章 枕木文華の歓楽領(the Field)
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第二章④

「ただいまぁ」

 錦景市は午後の六時、フミカが夕食の買い物から枕木邸に帰って来た。彼女はリビングを経由せず廊下からキッチンに入った。キッチンとリビングの境はダイニングカウンタでしか仕切られていない。なのでリビングのソファに座るシノブからキッチンの様子はよく見えた。丸見えだ。

「もぉ、お姉ちゃん、遅いぞぉ、」先に夕食の支度を始めていたユウが口を尖らせてフミカに言った。フリルの多いエプロンを纏ったユウはお人形さんみたいに愛らしかった。「買い物にどんだけ時間かかってんのさぁ」

「商品間違えて交換してもらってたのよ」フミカは言いながら錦景女子高校のセーラ服の上から割烹着を着た。

「間違える要素なんてあった?」

「なかったけど、」フミカは手を洗う。「ちょっと、ぼうっとしてて、ぼうっとしてたんだよ」

「ちーちゃんのこと?」

「ちーちゃん?」

「違うの」

「違わないけど、」フミカはキュッと蛇口を締める。「・・・・・・違うのよ」

「どっちだよ」

 シノブとジンロウは中世史基礎講読の講義で行う報告のため、リビングで史料を眺めながら議論をしていた。そのための史料を探しに大学に行っていたのだ。

 報告は初夏の季節で、今の季節は梅雨入りなのだけれど、シノブは、なんというか、待ちきれなくて始めてしまった。それと言うのもシノブが大学という四年の生涯を掛けて研究しようとしているテーマの基礎に、講読で報告することになっているテーマがほとんど関わって、どうせ私的に研究をするなら報告の準備も同時にした方が効率がいいと判断したからだ。

 意外にもジンロウは中世史の勉強をしていた。基礎講読に出席している他の大学生と比べて、というレベルだがジンロウは歴史を知っていた。歴史を知らないくせに歴史の研究を始めようとする中身のない大学生が多い中、ジンロウの存在はシノブにとっては嬉しいことだった。それを誉めるとジンロウは照れた風に笑う。

「まあ、小さな頃から錦景市に住んでいるからな、これくらいは知ってるよ、普通だよ」

 報告のテーマはこの錦景市に関わるものだ。錦景市という土地は中世史研究にとって欠かせない場所でもある。だからシノブはそれほど偏差値の高くないG県の国立大学に入った。シノブは隣のN県出身だ。母には地元のS大でも一緒でしょう、と言われたがそれは違うとシノブは言った。S大では駄目でG大がいいと言った。だったらT大に行きなさい、あんた、頭いいんだから、先生が合格は間違いないって言っていたわ、と言われた。お袋、それは違うんだって、とシノブは言った。僕は有名企業に就職しようとか思ってないの、僕は中世世界に捕らわれた囚人なのだ、と笑った。お袋は蔑むような目でシノブのことを見て溜息を吐いて、せめて結婚して孫の顔を見せてくれよ、と懇願した。シノブははっきりしない返事をした。こんな自分を愛してくれる人はいるのだろうか、と考えてしまった。けれど、中世史のことを考えていたらその夜に眠れない、ということはなかった。中世史のことばかり考えていたのだけれど、一応、自分のことを愛してくれる人は見つかった。

 そいつは目の前にいる。

 シノブはじっと目の前の男を見た。

「何?」ジンロウはソファの横にある空気清浄機に向かって煙草の煙を吐いた。空気清浄機は煙に反応して待ってましたという風に騒ぎ出す。

「なんでもない、」シノブはエレクトリック・ギターを鳴らした。最近シノブはギターを始めた。チカリコみたいに自分もギターを弾きたいと思ったのだ。自分もライブのステージでギターを鳴らしたい。ロックンローラになりたい。ギターはジンロウが買ってくれた。赤いギターだ。名前はレインメーカ、とか言うギター。その赤いエレクトリック・ギターを抱えながら、シノブは論文に目を通し、ジンロウと議論をしていたのだ。シノブの腕前はまだ、Fコード。「そろそろ疲れたね」

「うん、」ジンロウは頷き煙草を灰皿に押しつけた。「もう集中力がゼロ」

「今日はここまでだな、」シノブは言って、ギターを降ろし史料を片付けた。「でも、中々捗ったんじゃない?」

「どうやってまとめよう」

「まあ、レイアウトは、パソコンと睨めっこしながら考えるよ」

「作ってくれるの? 俺、そういうの苦手で、その、助かる」

「ここに寝泊まりさせてもらってるし、ご飯食べさせてもらってるしねぇ、そのお礼?」シノブはジンロウに向かってニッと笑い立ち上がり、キッチンの方に向かった。「さてさて、今日の晩ご飯は何かなぁ」

 シノブはそしてフミカの背後に近づいた。

 シノブの近寄る気配を感じてか、フミカははっとこちらを振り返った。

 手には鈍い銀色の煌めきを放っている包丁。

 切っ先は天井を向いている。

 険しい形相。

 口は半開きで。

 これは相当嫌われてるらしいな、ってシノブは思う。

 嫌われてはなくても好意は絶対に持たれてはいないだろう。

 でも、なんだろう。

 シノブは体を僅かに右側に傾けて、ほのかに自分の心を確認する。

 彼女とは仲良くしたいな。

 シノブが仲良くしたいタイプの女の子だ。

 ジンロウの妹でもあるし。

 シノブはフミカと仲良くしたい。

 いちゃいちゃしたい、とも少し思う。

 今はまだ、少しだけ。

「フミちゃん、」シノブは馴れ馴れしく呼んでみた。一音省略したのは、もちろんこちらの親しみの気持ちを分かってもらうためでもあるし、単純にシノブがそう呼びたかったこともある。「今日の晩ご飯は何?」


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