第二章③
「歓楽領?」
松平チカリコの踊り子って、きっと錦景市には沢山いる。少なくとも九人以上はいるだろう。いると思う。でも、その九人の中に踊り子の概念を分かりやすく説明できる人はいないと思う。しかし踊り子の定義を分からなくとも、踊り子たちは自分たちのことを踊り子だときちんと自覚している。認識している。自分はお姫様の踊り子だって思ってる。
踊り子とは、ひとまずそういうもの。
踊り子の一人である、錦景女子大一年の朱澄エイコは姫様の口から飛び出した聞き慣れない言葉に首を傾げる。「歓楽領、って、何なのそれ?」
「フーミンにとっての楽しいところ、」チカリコは目を狐みたいに細めてケケっと笑って、ピアノの鍵盤を叩いているエイコのことを後ろから抱き締め大きく息を吐いた。溜息のようでもあるしそうでもないようでもあった。「楽しいところなんだけれど、でもね、フーミンはちょっと、勘違いしているみたい、歓楽領は平和ではないんだけどそれを平和だと思っているんだ、それはとても危険なこと、そろそろ私は忠告をしなくちゃならなくなるかも、でもそれって私のキャラクタじゃないし、フーミンに束縛されてるって思われるのも嫌だし」
「えっと、何の話?」エイコは鍵盤を叩くのを止めた。メロディが消える。無響室の壁に吸い込まれるように音が消えた。ここはエイコが小さな頃から通っていたピアノ教室の先生の邸の無響室。チカリコも同じピアノ教室に通っていて、小さなころから彼女のことをエイコは知っている。「よく分からないけれど、フミカちゃんが危険なら、お姫ちゃんは助けてあげなくっていいの?」
「そうねぇ、」チカリコは今度は煙草の煙を吐くように息を吐いた。右手の日本の指は煙草を挟んでいる形だった。「でもやっぱり、束縛されてるって思われるのも嫌だし」
「ねぇ、フミカちゃんって、まさか、」エイコはチカリコの少ないヒントから彼女の言葉が表現する事態を推測しながら言う。「お姫ちゃん以外の女の子と付き合い始めたってこと? 歓楽領って、そういうこと?」
「ううん、」チカリコはすぐに首を横に振った。「そういうことじゃなくって、まあ、男、なんだけど」
「え、フミカちゃんって、レズビアンでしょう?」
「その男と付き合っているわけじゃないの、」チカリコはエイコをそっと押して同じ椅子に体を密着させて座った。「殴ってるの」
「殴ってる?」エイコは目を丸くした。唐突な、殴る、なんて暴力的な響きに目が覚めているのに、さらに目が覚めた感じだった。「フミカちゃんが? あの清純清楚なフミカちゃんが男を殴っているっていうの? 信じられない」
「信じられないことかもしれないけれど本当のことよ、うん、フーミンってばね、男のことを殴ってるの、公園で定期的に男と会って男のことを殴っているみたい、つまりフーミンとその男は殴る殴られるっていう関係なんだ、ジンロウはそれ以外の関係はないって言ってる、とにかくフーミンと彼の間にはちょっと奇妙奇天列な人間関係が出来上がってしまった、フーミンはそれを健全だと、うん、健全だと思っている節があるわ、ただの殴る殴られる関係だと思っているみたいなの、だから危険なの、フーミンは勘違いしているわ、それはただの関係であって、間違いなく確かな関係であるということを分かっていない、そこは関係が生じる場よ、そこに確かな平和は存在していなくって平和を一瞬でさらっていく世俗一般的な普通の場所だって分かっていないの、それなのに勝手にフーミンはあの公園を特別な場所だと思ってる、軽い気持ちであそこに向かって歩いている、軽い気持ちで、刹那的な快楽を得るためだけに軽い気持ちで殴っている、だから危険、だからなんとかしなくっちゃいけない」
「ねぇ、歓楽領ってつまり、私にとってのこの無響室みたいなところ?」
「違う、全然違う」
「じゃあ、私にとってのコレクチブ・ロウテイション?」
「もっと違う、」チカリコは目を細めて笑う。ケケっと笑った。「それって真逆よ」
「まあ、お姫ちゃんの言うことはやっぱりいつもよく分からないけど、」エイコは、なんとなくだが歓楽領の意味を把握していた。それを説明せよ、と言われると難しいけれど、概念、みたいなものは分かった気がする。間違っているかもしれないけれど、方向はそれほどズレてはいな気がした。だからエイコは微笑んだ。「手伝えることがあったらなんでも言ってね、大学生って暇だから」
「どうしよう、」チカリコはこちらに傾いてエイコの肩に頭を乗せた。「踊ってもらうかな」
「もちろんいつでも踊るわ」
「でもなぁ」
「珍しい、」エイコはチカリコの顔を覗き込む。チカリコは目を瞑っていた。「お姫ちゃんが迷っているなんて」
「迷うわ、迷うわよ、私だって迷い猫になるときがあるんだみゃあ」
「みゃあ」エイコは鳴き声を返した。
「みゃあ」チカリコは本格的な猫の真似で返す。
「フミカちゃんのことだから迷っているのね、きっと」
「ああ、」チカリコは今気付いた、という風に声を上げた。「そうかもしれない、いけないわ、私、フーミンのことを束縛したくないのに、束縛しようとしている、いけないわ、私はお姫様なのに」
「束縛したいんでしょうに、心に嘘を付かないで」
「嘘じゃない、」チカリコは目に力を入れて否定した。「私はフーミンのことを束縛したくないの」
「お姫ちゃんって面倒臭い娘、」言いながら、エイコは錦景女子高校の制服に身を包んでいた過去の自分と、それから彼女のことを思い出していた。「とっても面倒臭い、言葉を巧みに使って自分の心に嘘を付いて、嘘を本当にしようとしている」
「なんのことを言っているのか」チカリコはとぼけるように言って首を振る。
「ああ、面倒臭い、凄く」
「凄く面倒臭いって、」チカリコは瞬間的に笑顔を作る。「自分でも思います、ケケっ」
「でもそれでも、」エイコは自分の過去を振り返りながら言う。「不思議と素敵なのよね、本当に理解不能意味不明なんだけど、凄く素敵」
「私はフーミンのことを愛しているわ、踊り子のあなたたち以上に、特別に、私はフーミンのことを愛している、なので」
「ええ、踊りましょう」
「いや、」チカリコは小さく首を横に振る。「待って、みゃあ」
チカリコはまた迷い猫になったみたい。
迷っている。
エイコにはなんとなく。
チカリコが考えていることが分かった。
チカリコはフミカの歓楽領について真剣に考えている。
計算しているのだろう。
フミカの最大幸福の値を導き出そうとしているみたい。
でもそれってね、お姫ちゃん。
想像が限りなく現実的に広がって正しいと思えてもね。
全てはそう、大人になって残酷的に分かるわ。
私は分かったんです。
時間の無駄。
時間の無駄よ。
ええ、時間の無駄だったんです。
もっと早くこの口が上手に動いていれば。
でも。
それは間違いなく凄く素敵な時間の無駄。
これはきっと教えられない心理なので。
エイコは難しい顔をするお姫様の横で、ピアノを奏で続けていた。




