第二章②
ぶっ殺してしまいたい自分がいる。
殺さないと家に帰れないから。
ぶっ殺してしまいたい自分がいる。
それは姫様じゃない人を好きになってしまいそうな自分。
彼女のことを愛してしまいそうな自分。
彼女に甘えたくなりそうな自分。
恋にとろけてしまいそうな自分。
そんな自分をぶっ殺してしまいたい。
殺すなら。
殴って殺せと姫様は言った。
だから拳を握り締めた。
心は火の玉みたいに燃える。
燃え盛る。
「ぶっ殺す!」
フミカはヒステリックな声を上げ、宮沢ケンジのことを殴り飛ばした。「死ねぇ!」素晴らしく奇声。「くそったれぇ!」
鈍い音が反響する。
軟骨が奥にズレた、という感じの音が響く。
ムチのようにしなるフミカの右ストレートを喰らって、ケンジは砂場の上に仰向けに倒れた。ケンジの鼻からは血が流れている。
女子高生にとっての放課後、錦景市は黄昏の五時。
場所は枕木家から自転車で十五分くらいの場所にある、ライフラインというスーパーマーケットの裏の背の高い木々に囲まれた公園だった。ケンジはライフラインの精肉売場のチーフだ。歳は二十八歳。彼女は五年くらいいなくて、女子高生好きの変態だった。
フミカがケンジと知り合ったのは昨年の正月に黒毛和牛のロースステーキを注文したときだった。フミカは錦景女子高校の麗しきセーラ服姿でライフラインに訪れていた。白衣姿のケンジはハムとソーセージとウインナーが陳列された売場の前でフミカに告白した。フミカはレズビアンなので、当然彼のことを振った。二秒で振った。しかしケンジはしつこかった。裏の公園でフミカが右ストレートをお見舞いするまでしつこく交際を迫ってきた。でも右ストレートをお見舞いすると、ケンジはフミカのことを諦めた。でも今度は、友達になってくれ、としつこかったので、会う度に殴らせてくれたらいいわ、と冗談を言ったら彼は凄く壮健な顔をして「俺は構わないぜ」と言った。その壮健な顔に許せないくらいムカついたので、フミカはもう一度右ストレートをお見舞いした。誰かを殴ることはフミカにとって、快感だった。
そんなわけで正月からフミカとケンジの奇妙な関係は始まり、奇妙なことに途切れることなく続いていた。ケンジのシフトは基本的に午後五時まで。ケンジはフミカが来る来ない関わらず、午後五時には煙草を吸いに公園に出る。ケンジが言うことには、仕事はまだ山ほどあってサービス残業をしなければならないがフミカに会うために貴重な時間を使って公園で煙草を吸っている、ということだった。「君との関係を終わらせないためだ」
しかしそんなことを言われる意味が分からないのでフミカはケンジに右ストレートをお見舞いした。それからケンジは仕事が山ほどあるとは言わなくなった。
ちなみに、ケンジはもちろんながら詩人の宮沢賢治とは一切関係なく、「銀河鉄道の夜」も知らなかった。文学に生きているフミカはケンジのくせに銀河鉄道の夜を知らないケンジのことを殴った。そのときケンジは「どうして殴ったのよ?」とオカマみたいな声を出して理不尽そうな顔をした。
今日もそのときみたいな顔をしている。そりゃそうだろう、とフミカだって思う。
だって会って二秒で殴ったんだもん。
それに理不尽な顔をしないで、訳知り顔でいられたら一発じゃ済まない、というものだ。
「ふ、フミちゃん?」ケンジはフミカのことを、フミちゃん、と慣れ慣れしく呼んでくる。「きょ、今日は一段となんだか、機嫌が悪いみたいだね、どうして?」
「うっさいっ!」フミカは叫び、ケンジの顔に錦景市駅前で配っていた漫画喫茶のポケットティッシュをぶつけた。
軽い音が響く。
「い、痛いよぉ、フミちゃん」
「黙れ、くそったれ、ぶっ殺すぞ!」フミカは叫びながら、ただ叫びたいだけで別にケンジに怒りが溜まっているというわけではないのだけれど、どすんと砂場の横にあるベンチに腰掛けた。足を組み、ケンジに手の平を向ける。「ケンジ、煙草」
「フミちゃんは未成年でしょうに、」ケンジはポケットティッシュを鼻に詰めながら言う。「煙草吸ってもいいことないよ、前も言ったけど」
「いいからさっさと寄越せよ、また殴られてぇのかよ、ロリコン野郎!」フミカは叫びたいので、叫んだ。別にニコチン中毒な訳ではない。
「はい、はい、」ケンジはフミカの横に距離を置いて座り、密着したら殴るからだ、煙草の箱を揺すって一本取り出し、フミカの顔の前に差し出した。フミカが煙草をくわえたタイミングでケンジは火を用意する。「ささ、どうぞ、お吸いになって下さいねぇ」
フミカは煙草を吸う。
煙草の、焼却炉の中の匂いを集めたような味を口の中で感じて。
すぐにむせる。
煙が肺にまで入らなくって、咳込むのはいつものこと。ケンジは何も言わずに表情も変えずに煙草を吸う。渋い横顔を見せながら、煙を吐く。「フミちゃんが前に宮沢賢治を読めって言ったから詩集を買ったよ」
「岩波の?」フミカは目を細め黄昏の遠くの空を見つめながら煙草をくゆらす。
「うん、岩波文庫の、背表紙が茶色いやつ」
「どうだった?」
「詩なんて分からないな」
「まあ、ロリコン野郎には分からないだろうな」
「でも煙草を一箱買うよりは価値があると思ったよ」
「私は姫様以外を好きになってしまうかもしれない、それが怖い、そんな自分の不安定な心が憂鬱だわ、憂鬱、憂鬱だぜ、ああ、くそったれ」
フミカは煙草を地面に捨てて、ローファの底でもみ消しケンジにユウが書いた買い物リストとお財布を渡した。「あの、これでお願いします」
「別に好きになってもいいんじゃないの?」
「え?」
「それは自由でしょ?」
「自由? そんなもの私にないわ、縁起の原理に従えば、私と姫様との絆は確かにあって、それは、うん、」フミカは小さく頷いた。「不自由で、うん、不自由だから不自由なのよね」
「どうして不自由だって、笑ってるわけ?」
「ケンジには分からないだろうな、んふふ、あはははははっ、」フミカは口を大きく開けて笑う。電線で羽を休めていたスズメたちが黄昏の空に飛び立った。「いいから早く買い物して来いよ、早く帰らないとユウが怒るんだよ、ユウってば怒ったら怖いんだよっ、ぶっ殺すぞっ、こらぁ!」




