第二章①
「もう止めてよ、お姉ちゃん」
枕木ユウは何の変哲もない日常の枕木家のリビングのソファにごろんとなって少女漫画を読んでいた。ユウの至福の一時だ。その少女漫画は全部で十五巻あるんだけれど、それを全部リビングのテーブルの上に乗せて一歩も動かなくてもいいようにしていた。それからテーブルの上にはコーラとフォーチュン・クッキィを用意して突然の口寂しさにも一歩も動かなくてもいいようにしていた。
そんな風にしてユウは絶賛少女漫画の主人公になっていたんだけれど、音も立てずに姉の枕木フミカはリビングに入ってきて、何も言わず伺いも立てず、フミカはユウを抱き締めた。
そしてユウは体のいろんな部分を触られた。フミカの触り方は凄く、官能的だ。官能的に触ってくる。官能的、というのは最近覚えた言葉の一つ。それを覚えてからユウはエロい、と言うときは官能的だ、と言うようにしようと決めた。
ユウは最初のうちは声を上げることもなく、抵抗もせずに抱き締められていた。何も言わないフミカに何も言わず、まだ少女漫画に入り込んでいた。こんな風にフミカに抱き締められることは慣れている。フミカは寂しがり屋さんなので、寂しくなるとユウのことを抱き締めるのだ。本日もおそらくきっと、松平家のお姫様である、松平チカリコが他の女の子と遊んでいるから寂しくなったのだろう。特別、フミカがユウを愛しているとか、シスコンであるとか、そういうことでは決してないことを、ここに断っておく。
思えば小さい頃からユウはフミカの抱き枕だった。フミカはユウを抱き締めてよく絵本を読み聞かせてくれた。ユウはそれがとても好きだった。漫画を読むようになるまでは、フミカの絵本がユウの最高のエンターテイメントだったのだ。フミカの手付きが官能的になっていったのはいつからだったろう。多分、フミカが小学六年生になったときくらい。ユウがまだ小学三年生の頃だ。それぐらいからきっとフミカは自分が少し変わり者の女の子であることに気付き、身近な女の子だったユウのことを官能的に触り始めたんだ。
小学三年生のユウは官能的な手付きの意味が全く分からなかったけれど、中学二年生の今のユウなら分かる。
フミカはエロいことをしようとしてるって。
あ、間違えた。
官能的なことをしようとしているって分かるのだ。
最初は仲良し姉妹のじゃれ合いなんだけれど、いつも途中から、何かの数値がフミカの中で振り切れた瞬間に、凄く官能的になる。
ユウはそのタイミングを見計らって声を上げた。
「お姉ちゃん、もう止めて」
それまで何も言わずに抱かれていてあげたのは、小さな頃に何度も絵本を読んでもらった恩があるからだ。でも、エロいこと、じゃなくって、官能的なことをするためには別料金、じゃなくって、姉妹の間で越えてはいけないことだと思うのだ。
フミカもそれは心では理解しているのだろう。一度、Tシャツを脱いでブラジャを外して形のいい胸をユウに見せたのだけれど、照れ笑いをしてから再び服を着た。
「ごめんね、ユウ、また私ってば、」フミカは自分の顔を手の平で仰いでいる。「ああ、冷静になる時間が必要よね」
「別にいいよぉ、」ユウは口を尖らせて言って少女漫画をテーブルの上に置きコーラを飲んだ。「僕、慣れてるし」
「本当にユウはいい娘、優しい娘、大好き、多分、世界一妹のことを大好きなのは私だと思う、なんちゃってぇ」
フミカはユウの横に座り、頭を撫でてくれた。抱き締めてもらうより、こっちの方が嬉しいユウだった。
「エッチなことをさせてくれたらもっと好きになるかも」フミカはユウの頭を触りながら真顔で言った。
「え?」ユウは身を引く。「え、マジで?」
「冗談よ、」フミカは笑顔で言った。「私はシスコンじゃないんだから、ロリコンでもないし、レズビアンだけど、そう、なんでもないんだし、んふふっ」
ユウは笑顔を返す。謎の張りつめた空気が漂ったけれど、なんとなく気にしちゃいけない気がしたので気にしなかった、という感じで言う。「でも」
どうして「でも」と言ったんだろうって自分で思った。
「でも?」
「……相変わらずいいおっぱいしてるよね、」ユウは無理やり言葉を続けた。「お姉ちゃんは」
「そう?」フミカは別にそんなこと言われても一切嬉しくない、という顔を見せた。でも嬉しそうだった。
「うん、僕はいつまでもぺったんこ、本当に膨らむのかなって思ってる」
「ユウはお父さん似だもんね」
「えー、何それ」
「別にユウにはなくてもいいわ、ユウは僕っ娘だし」
「えー、関係ないよ、それとは」
フミカはなだらかなユウの胸に触り上下に動かしながら言う。「これくらいの方が私は官能的だと思う」
「胸がなくても官能的なの?」ユウは自然に官能的、という言葉を使うフミカのことを羨望の眼差しで見た。フミカは、チカリコもそうだけど、中学生には難しい言葉を言ったりする。その度に、うわ、大人、と思うユウだった。「膨らんでなかったら、子供じゃん」
「ううん、それは違うわ、子供だけど、なんていうか、とにかく、まだ中学生のユウには分からないと思うけど、胸がなくても官能的な場合ってあるのよ、我らが姫も、その部類よね」
フミカは言って静かになって大きな溜息を吐いた。チカリコのことを思い出してブルーになったみたい。溜息は止まらない。またユウのことを官能的な手付きで触り始めるかもしれないと思った。フミカの言うことはよく分からないけど、ユウの膨らんでいない官能的な胸を触るかもしれないと思った。
ユウは官能的に触られないように、立ち上がりフミカに聞く。「珈琲でも淹れようか?」
そのタイミングで「ただいまぁ」と声がした。中島シノブの声だった。シノブは最近にこの枕木家の住人になって、二階の部屋で暮らしている。足音は二種類。兄の枕木ジンロウも一緒に大学から帰ってきたのだろう。彼は挨拶が出来ない駄目な大学生だ。挨拶をしろって言っても絶対にしない。挨拶をしないことが格好いいと思っている駄目な大学生なのだ。そんな駄目なジンロウのことをシノブはどう思っているのか、とっても気になるユウだった。
とにかく二人は図書館で調べものがあると言って出掛けたのだ。思いのほか、早い帰宅だった。
「ただいま」
シノブはリビングに綺麗な顔を見せて言ってから、中に入ってくる。今日のシノブは桜色のシャツにジーンズという装いで、本当に似合っていて格好よかった。ジンロウもその後に続く。ジンロウはいつもの小汚い格好だ。二人は密着はしていないけれど、寄り添うようにして歩いて同じソファに腰掛けた。
やっぱり二人は付き合ってるのかな、というユウはお似合いの二人をじっと見る。
本当に。
すっごく、お似合いなんだもん。
「なんだ?」ジンロウが声を出す。
「べぇ」ユウは舌を出した。
「なんだよ、お前、」ジンロウは苦笑する。「面白い顔しやがって」
「はあ!?」なんだかとっても苛ついたので大きな声が出た。「僕の顔が面白いだってぇ!?」
「ジンロウ、面白い顔だなんて、女の子に失礼だぜ、言っちゃいけない言葉の一つだよ、傷つくんだぜ、そういう些細なことが、」シノブは煙草を口に咥え、ユウを見て言った。「ね、ごめんね、ユウちゃん」
「なんで、シノブ君がジンロウの代わりに僕に謝るのぉ?」ユウの声は嬉々としていた。気障な台詞を特に何もない休日の、枕木家のリビングで言うシノブが凄く格好良くてキュンキュンしてしまったのだ。こんな風にキュンキュンしている姿を幼なじみでユウのことを愛しているキティ・ローリングに見られたらきっと殺されると思った。「理解不能意味不明だよぉ、どうしてシノブ君が僕に謝るのぉ?」
「ユウちゃん、お願い、珈琲を淹れてくれる?」
シノブはライタの火を点けて煙草を燻らして、その煙草を中世史の資料に眼を通していたジンロウの口に咥えさせた。
間接キスだ。
ちょっと、衝撃的なシーン。
くらくらした。
ジンロウに殺意が沸くシーンでもある。
でもユウはそんなシノブの格好良さにキュンキュンが止まらない。「ま、待ってて、すぐに珈琲、淹れますからっ」
そしてユウが珈琲メイカのあるキッチンの方に向かうと、フミカは「あっ」とわざとらしく声を出してリビングを出て二階の自分の部屋に向かった。「宿題、宿題」
宿題なんてきっとない。
シノブがいると、なぜかフミカは静かになる。そして何かと理由を付けてすぐにシノブから離れようとする。
そのフミカの気持ちは謎だ。
「やっぱり嫌われてるのかな、」シノブは僅かに声のトーンを落として言う。「女子高生だもんね」
「気にするなよ、」ジンロウが中世史の資料を読みながらぶっきらぼうに言う。「あいつ、ああいうところあるから」
「ああいうって?」
「ああいうところだ」
「ああいうところねぇ、」シノブは小さく笑う。「ジンロウ、そうやって妹のことを何でも知っている風に言うもんじゃないよ」
「え?」ジンロウは顔を上げてシノブの横顔を見る。
「最高にヒステリックになるんだぜ、気を付けた方がいい、分かった?」
ジンロウは無言でシノブのことを見つめている。
「返事をしろって」シノブはジンロウの頭を強めに叩いた。
「……はい、」ジンロウは小さな声で素直に頷いた。「分かりました、ごめんなさい」
「別に謝らなくっていいって」
「すいません」
「だから謝るなって」
「あははっ、」そんな二人の様子を見て、ユウは声を出して笑ってしまった。「シノブ君って最高」




