第一章⑭
季節は夏。
極彩色な桜を見せてくれた暑い春のせいか、今年は雨が少なくほとんど梅雨というものを感じなかった。天気予報師によればまだ錦景市の梅雨は明けていないというが、この青過ぎる空を見上げれば誰だって今が夏だと言うだろう。
錦景女子高校の文芸部の部室にはエアコンはない。だから地獄。でもダイソンのプロペラのない扇風機(?)ならある。だから少しはマシ。暑がりのフミカはダイソンの前から動けなかった。口は半開き。
チカリコはそこから動けないことをいいことに、フミカの膝の上に頭を乗せてスヤスヤと眠っていた。
いつ見ても可愛い寝顔にフミカは癒される。
そしていつでもエッチなことしたくなるのです。
家来のくせに、お姫様とね。
とりあえずフミカはお姫様の口の中に自分の人差し指を出し入れして遊んでいた。
「……生ぬるい」
そのときだった。
コンコンコン。
ノックの音、三回。
「はーい、」フミカは声を出しウェットティッシュで人差し指のチカリコの唾液を拭った。「どうぞぉ」
「失礼しまぁす」
扉から顔をぬぅと覗かせたのはヒトミだった。ヒトミは忍び込むように部室の中に体を滑り込ませてから後ろ手に扉を閉めてこちらに歩み寄り、そしてチカリコのことを上から覗き込むようにして見た。ベビーベッドで眠る赤ちゃんにそうするように。「あ、松平さんはおやすみですか?」
「起こそうか?」
「いや、いいです、その、枕木さんでも」
「あら、その物言いは少し気になるわね、」フミカは髪を払って言う。「まあ、私でも、いいけど」
「ご、ごめんなさい、そういうつもりじゃ」慌ててヒトミは両手を顔の前で左右に振って愛想笑う。
「座りなよ」フミカは対面のソファに座るようにと手を動かした。
「はい、すいません」ヒトミはソファに浅く腰掛け、落ち着かないという感じでテーブルに視線を泳がせている。
「それでなぁに?」フミカは笑顔を作った。「ユイコちゃんとの恋はどうなって?」
「えっと、あの、それがまだ、全然、」ヒトミは自分自身を嘲るように苦笑した。「なんですよねぇ」
「進展はゼロってこと?」
「まあ、限りなくゼロに近いことは否めません」
「そう」フミカは軽く頷く。
「……はい、すみません、その、折角、お二人に力を貸していただいたのに、何と言いますか、」ヒトミは沈痛な面持ちで自分の額をこんにゃくでも貼り付けるみたいにぺちんと叩いた。「不甲斐無い」
「不甲斐無い、」フミカはチカリコの最高に愛らしい寝顔を見ながらヒトミの言葉をゆっくりと反芻した。「本当に不甲斐無い」
ヒトミとユイコの人間関係。
客観的に見て、縁術師たちが二人に縁術を掛けた四月の決戦の日曜日から、二人の人間関係はラブという基準を設定して見れば、この汗が止まらない季節まで何の変化もなかった。何の変哲もなかった。けれど確かな変化はあった。それは過度な変化と言っても言い過ぎではない変化だった。その過度な変化とはヒトミとユイコの二人が錦景女子高校の軽音楽部に入りロックンロール・バンドを結成したということ。
チカリコとフミカとジンロウとシノブのジャパニーズ・シークレット・アフェアのライブをあの日に見て、どうやらすっかりユイコは影響されてしまったようなのだ。ユイコはすっかりロックンロール・マニアになってしまった。そして彼女はすっかりベーシストになってしまった。
不思議ね、とフミカはユイコが歩いていく方向を見ながら首を傾けざるを得なかった。あの日のジャパニーズ・シークレット・アフェアのセットリストは、ほとんどがラブソングで、聞けば恋をしたくなるように作った我らが姫が拵えた楽曲ばかりだった。恋のエネルギアをチカリと充填するためのロックンロール。それなのにユイコは恋をしたいとは思わずロックンロールをしたくなったらしい。
シノブ君の歌声が素敵過ぎたせいかしら?
あるいはお嬢さんがお気に召したのは私のベース?
さあ、どうなのでしょう?
それはユイコ本人に聞いて見なければ分からないことだ。
ロックンロールには魔法みたいな力がある。
何かを変貌させてしまうほどの強い力がある。
でもロックンロールは万能な魔法じゃない。
だからこちらの狙いと違った未来になるのもまあ、ちょっと苦しいけれど、想定の範囲内ではある。我らが恋の縁術が完全に失敗だったというわけではない。即効性がなかっただけのことだ。近道をしなかっただけのこと。ヒトミはユイコに徐々にではあるが近付いている、というのは間違いなく言える。二人がそれ以前よりも親密になっている、というのは紛れもない客観的な事実だ。その事実は調査しなくても錦景女子高校に漂っている、常識とか、一般論のようなもの。
と・に・か・く。
あの日、決戦の日曜日。
縁術師たちは確かに触れ合うことなく掠めることもなくどこまでも遠くに離れていた質が大きく異なる二本の赤い糸を手繰り寄せて捻じりあげて一つの輪っかを形成した。
つまり。
バンドの結成は私たちの縁術の成果なのだ、ということも出来る。出来る、というか、そういうことなのだ。
後は二本の赤い糸の端と端を摘んでキュッと結ぶだけ。
それだけ。
それだけで、恋となる。
けれどまだ二本の赤い糸は戯れるように弱く絡まり合っているだけだ。真剣に行く末を睨み付けていない状態から、情熱的にならなければならない。風に吹かれたり水に流されたり雷に打たれたりしても離れ離れにならないように、情熱的に確実に、結び上げなくてはならない。それだけのことをヒトミは成し遂げなければならないのだ。それだけは、こちらの方ではいかんともしがたいことだ。残念ながら、もう面倒を見ることは出来ない。後はどうぞご自由に頑張って、と言うしか出来ないのだ。
「……はあ、」フミカは大きく息を吐いてわざと苦悩の表情を作ってヒトミに見せた。内心は恋する少女のことを愛おしいと思っているフミカでもある。「全くしょうがないんだから」
「はい、このままだとしょうがないと思って、」ヒトミは額を触り続けながら言う。まるで熱に解けてくっついてしまったみたいに手の平は額に張り付いている。「だから、……告白しようって決めたんです、実は今、ユイコちゃんを屋上で待たせているんです」
「そう、」フミカはチカリコの額をぺたりと触っていた。「決めたんだね」
「だから枕木さんに聞いてもらおうと思って、聞いてもらったら、決意は揺るがないと思って、その、やっぱり怖いから」
「ついに縁を結ぶのね」
「はい」
「偉いよ、君は勇気があるね、」フミカはストレートにヒトミを見ながら言った。「だからまあ、せいぜい頑張りなさいな」
「はい、頑張ります、」ヒトミは額から手を離し笑顔で頷いた。「じゃあ、行ってきます」
「縁を結ぶということはとても楽しいこと」
急に声を発したチカリコは目をパッチリと開いていた。どうやらヒトミがここに来てからずっと起きて話を聞いていたみたい。「しかし縁を結ぶということは、自由を失い不自由となり解放の真逆となる束縛へと向かうこと、容赦ない苛烈な現実と立ち向かうということ、つまりそれはこの世の縁起と絡まることとも言える、それはいわゆる、平和という状態ではないかもしれない、自由と言う状況からどこまでもかけ離れた場所へ吹き飛ばされてしまう可能性は十二分に存在する、要するに、小早川ユイコが一青ヒトミの思い通りになるとは限らないということだ、ヒトミ、その場合は大丈夫?」姫様の口調は慈しみに満ちていて優しい。「痛みは襲って来なければ分からないものだから」
「……は、はい、」ヒトミは少し戸惑う素振りを見せたが、笑顔は顔から消さなかった。「私は大丈夫、きっと大丈夫です、想いを打ち明けられないでいる方が多分痛いんだと思います」
「そう、」チカリコは鼻から息を吐きそして目を細めて風雅に笑った。「どうやら跳び越えたみたいだ、ヒトミ、君は確かに跳び越えて変わった、変わったんだよ、君は大丈夫のようらしい」
「変わったのかな、」ヒトミは照れた風に後頭部をさすった。「でも確かに、なんだか気持ちは春とは、不思議と違うようです」
「変わったよ、」フミカは何度も大きく頷きながら言う。「ヒトミは変わった」
「へへへっ」ヒトミは歯を見せて笑う。
「いい夏になりますように、」チカリコは胸の前で五指を組み目を瞑る。「恋の占い師は祈りを捧げます」
「祈りを捧げます」フミカもチカリコと同じように五指を組んだ。
「お二人が祈ってくれるなら、」ヒトミも二人と同じように五指を組む。ヒトミはとっても素敵な表情をしていた。「未来は素敵な気がします」
そしてヒトミは文芸部の部室から外へ出た。
チカリコは黙り込んだまま彼女が出て行ってパタンと閉まった扉をじっと見つめていた。
チカリコはそこに、何かを見ているようだった。
何を見ているのだろう?
何も見ていないかもしれない。
けれど何かを見つめ続けていた。
矛盾している。
けれどそんな眼差し。
そんな横顔だった。
もしかして未来でも見ているの?
チカリコの髪は風に揺れている。
「……ふあぁ、」チカリコは急に口を大きく開けて欠伸をした。一度両手を持ち上げ伸びをして、そしてフミカの膝の上に再び頭を乗せた。「おやすフーミン」
「ちーちゃんってば、寝るならもう帰らない?」
窓の外を見れば、夏の夕焼けに我らが錦景市は圧倒的なオレンジ色に染め上がっていた。
これ以上ない、と言うほどのオレンジ。
そのオレンジに照らされながら進むヒトミの未来には、一体どんな風が吹いているのでしょう?
二人の結末はまたの機会に。
以上、縁結びの姫様という、お話。




