第一章⑩
チカリコにワンピースをプレゼントされたのは土曜日の昨日、枕木家での最終ミーティングのことだった。「これがステージ衣装だよんっ、シノブ君っ!」
チカリコが「じゃんじゃらじゃーんっ!」と謎の効果音とともに広げたノースリーブのワンピースには水墨画が描かれていた。どことなく雪舟を思わせるものだった。シノブは絵画には詳しくないので、もしかしたら雪舟じゃないかもしれない。腰の当たりに鯉が泳いでいる。芸術的だと思った。思ったけれど。
「ちーちゃん、これを僕に着ろって?」
チカリコは満点の笑顔で頷いた。「だからステージ衣装だって言ってんだろぉ、着るんだよぉ」
チカリコはワンピースをシノブに手渡した。シノブはワンピースを広げ、近くで眺めてみる。スカート丈が膝下まであるのが、まだ救いか。
いやいや。
こんなに芸術的で可愛らしいノースリーブのワンピースを着るなんて拷問以外の何ものでもない。ましてこれを着て街を歩くなんて。「いくらちーちゃんのお願いでも、これは無理だって」
「おねがぁい、」チカリコは手の平を顔の前で合わせて猫撫で声を出す。「シノブ君に着て欲しいのぉ」
「多分僕、これ着たら死んじゃう自信があるぜ」
「死なないと思う、」チカリコは握り締めた拳を持ち上げて真顔で言う。「余裕っしょ?」
「僕に女装しろって?」シノブの口調は自然と鋭くなってしまった。「ノースリーブのワンピースなんて着れないって、ちーちゃんには悪いけど、フーミンが着なよ、ほら、絶対フーミンの方が似合うと思う」
「シノブ君、」フミカも真顔で言う。「ちーちゃんが着てっていうんだから、着なきゃ駄目です、ちーちゃんはお姫様なんですから」
「そうだぞぉ、」チカリコは片方の頬を膨らまして言う。「チカリコ様の言うことは絶対聞かねばならんのだ」
「でも、ちーちゃん、」シノブは絶対にワンピースを着たくない。「でもさぁ」
「この根性なしっ!」
チカリコはソファから立ち上がり、耳を塞ぎたくなるほどの声を出した。「私より綺麗な顔して、背が高くて細くて、素晴らしいボイスを持っているのに着れないなんて、ちーちゃん、許さないっ!」
お姫様はブチ切れて。
そして僕の頭を強く叩きました。
僕の頭を叩いたお姫様はすぐに表情を変えて。
なぜか酷く狼狽しています。
「ああ、ああ、ごめん、シノブ君っ! 私、ブチ切れると手が出ちゃうの、理性が消えて野性的になっちゃうの、ごめん、ごめんね、シノブ君っ!」
そしてお姫様はなんと信じられないことに土下座したのです。
僕はきょとんとしてしまいました。
「ちーちゃんは手癖が悪いから、」フミカはきょとんとしていたシノブに耳打ちした。「でもちゃんと悪いことをしているって自覚はあるし、謝っているので許してあげてください」
「許してあげてください」
チカリコは土下座したまま言って、そしてクルリとでんぐり返りをした。
チカリコは仰向けになって叫ぶ。「好きにしていいよ、シノブ君っ!」
僕はそれがとっても可笑しくって。
僕はお姫様のことを許しました。
そして土下座までされてしまったので。
お姫様に土下座をさせてしまったからには、ワンピースを着ようと決めました。
「きゃあ!」ワンピース姿のシノブを見たユウは両頬を包み歓声を上げた。「きゃあ、きゃあ、シノブ君、すっごく素敵だよっ」
「ありがとう、」シノブの心境は複雑だったけれど、とりあえずその場で一回転してスカートを踊らせてみた。「まあ、たまにはいいか」
チカリコは拍手をした。ほめたたえられているみたいで気分は悪くない。
フミカもシノブに向かって拍手をした。
そしてジンロウはワンピース姿のシノブをじっと睨んでいた。
「何だよ、」シノブはジンロウをにらみ返す。「僕に何か言いたいことでも?」
「何でもねぇ」ジンロウはぷいっと視線を逸らす。
「しししっ」チカリコは変に笑っていた。
さて、決戦の日曜日。
「僕に何か言いたいこと、あるっしょ?」
シノブはジンロウとのキスの後、腕を組み歩きながら聞いた。「無言、というのは少し、あんまりだと思うぜ」
「初めて縁術はどうだった?」ジンロウは前を向きながらシノブの質問をはぐらかす。
「縁術と言っても、カツラを被ってジンロウとキスしただけだ」
「それだけでも彼女たちには十分な影響を与えたと思う、二人は確かにキスを見つめていただろう?」
「うん、見つめていた、確かに見つめていたね、目もしっかりと合った」
「じゃあ、大丈夫、上手くいく」
「そうかなぁ」シノブは半信半疑だった。確かに多少の影響は与えただろう。二人のキスを見て、心境の変化はあったと思う。でも、決定的に彼女たちの何かが変わったとは思えない。
「最初はこんなもんだ、まだ最初だ、最後には決定的に変わっている」
「そうだね、まだ錦景市は午後の二時、それでジンロウ、僕とのキスの感想は?」
「別に俺は、」ジンロウは歩むスピードを早くした。「姫様に言われたから、シノブ君とキスしただけだ、そこに感想なんてない」
「僕は楽しかった、」シノブは正直に言った。「ジンロウとキス出来て楽しい」
「縁結びをするのは楽しいもんだよ、縁切りの数倍は楽しい、シノブ君の実感は正しいよ」
「とんちんかんなことを言うなぁ」
シノブは笑って、ジンロウの肩に頭を乗せた。「あ、ジンロウ、中世史研究のことなんだけど」




