プロローグ
この世界には何一つ説明出来ないことなどないのだけれど、説明出来ないと思わせることなら出来る、と縁術師の枕木ジンロウは言った。「もちろん簡単には出来ないことだ、しかし伝統的にあったシステムと、それからある程度の人員を投入すれば難しいことじゃない、つまり殆どの仕事とあまり変わらない、……いや、ちょっと違うかもしれないけれど」
「つまり縁術とは、」僕は煙草の煙を吐いて言う。「パブリック・ドラマ?」
「そんなに素敵なものじゃない、」ジンロウは口を斜めにして煙草の煙を吐いた。「ドラマなんかよりも、なんていうか、強引だ、無理矢理終わらせる場合もある、例えばピストルのトリガを引いて脳天を打ち抜いて、そのままカーテンコール」
「それはとても乱暴なことだと思うけど、」僕は煙草の灰を落として言う。「でも、嫌いじゃないな、むしろ僕は、そういうラストの方が、好みかも」
「シノブ君って、そうだと思ったよ」
ジンロウは子供っぽく笑って煙草の火をもみ消して僕の肩に軽く肩を触れ合せてから喫煙ルームの扉を押して外に出た。僕も煙草を捨ててジンロウの後に続き外に出る。
「雨が降るような気がする」
空を切れ長で秀麗な目で見てジンロウは言った。今日はずっと曇り空だと思っていたのだけれど、次の講義の時間中に本当に雨が降ってきた。天気が変わりやすい季節だから僕は全然、驚かなかったけれど。
今の季節は春。
ジンロウとは大学の中世史の基礎講読の講義で出会った。席が隣同士になりペアを組まされ、一年間共同で研究することになった。前期の十三回目の講義に僕とジンロウは研究の成果を報告することになっている。テーマはまだ決まってはいない。営為相談中。でも、ニヶ月以上先の話だから、二人ともまだ真剣に報告のことについては考えてはいなかった。
ジンロウは真剣じゃない会話の流れで縁術の話を始めたのだ。
時間は錦景市の朝の十時に遡る。大学の近くに下宿している僕は少し早い昼食を食堂で食べていた。そこにジンロウが突然、ふらっと現れて認可も出していないのに僕の対面に座ったのだ。「よぅ、シノブ君」
「ああ、」僕は視線を上げジンロウを見てお茶を飲んだ。「ジンロウじゃないか」
ジンロウは今日もしわくちゃの深緑色の柄のついたシャツに、ポケットの数が多くて太股のところにゴールドのファスナがある黒いカーゴパンツという出で立ちだった。靴はアディダスの濃い水色のランニングシューズ。
「研究熱心で素晴らしい、」ジンロウはテーブルに広げていた僕の中世史の資料の一部を手にして言う。「将来は中世史家だな」
「今夜暇?」僕は笑顔を作って聞いた。
「別に何もないけど」
「じゃあ、映画に行こう」
僕はジンロウを映画に誘った。ジンロウとは気軽に映画にいける関係になっていた。それはもちろん、恋人同士という関係ではなくて普通の友人関係という意味で。僕はジンロウのことを友達だと思っている。そうでなければジンロウは、一人食堂の隅で唐揚げ定食を食べながら中世史の論文に目を通している僕の前に来ることはないだろう。
「いいよ、」ジンロウは簡単に頷いた。「何を見るの?」
「ブラット・ピットの新しいやつ、予告見てない?」
「シノブ君はブラット・ピットが好きなの?」
「凄く好き、」僕は笑ってブラット・ピットについて熱く語った。常日頃日常の口調よりも二度くらいは熱かっただろう。中世史を語るときよりも一度くらいは低いだろうけれど。「彼は完璧だ」
「そっか」ジンロウは関心なさそうに、しかし笑顔で頷いた。
「うん」僕は語り終えて満足して、お茶を飲み喉を潤した。
「縁術、」ジンロウはブラッド・ピットのことから急に話題を変えて言った。ジンロウは最初から、このときに僕を縁術師に誘うつもりだったようだ。そのために僕の一方的なブラッド・ピットの話を辛抱強く聞いていたんだ。「ってご存じありませんよね?」
急に何を言い出すんだ、という目でジンロウの顔をじっと見ていたら彼は僕に説明を始めた。縁術の話と、縁術師の話だった。一度聞いただけではよく分からなかった。二度三度聞いても分からなかった。多分、その話っていうのは時間をかけなければ理解出来ない種類のものだと思った。どれくらいの時間が必要だったか、というと今夜、ブラッド・ピットの映画を見終わるまでの時間が必要だった。
映画の後、居酒屋の席でビールを飲みながら僕は頷いた。頷いたけれど僕はまだジンロウのつまらない空想だと思っていた。空想の話の骨子はなんとなく理解したけれど、それって空想で現実のお話ではないと思っていたのだ。「分かった、とにかくジンロウは僕をスカウトしているんだね、縁術という仕事をさせようってわけだ、それにしてもジンロウは説明が下手くそだ」
「シノブ君の想像力が足りない可能性ってないかな?」
「いいや、ジンロウは説明が下手くそだ、」僕はジンロウを睨み見て言った。僕はすでにビールのジョッキを何度も空にしていてつまり酔っていた。「そんなんじゃ駄目だよ」
「コミュニケーションって難しい」
「そんなことを言うなんて、ジンロウ、」僕はジンロウのピンク色の頬をじっと見ながら言う。「可愛いじゃないか」
「ロックンローラを探していた」またしてもジンロウは急に意味不明のことを言った。
「ロックンローラ?」僕は首を斜めにする。「レッド・ツェッペリンとか、ストーンズとか、クラッシュとか?」
「少し違う、」ジンロウは首を横に振り熱燗が空になっているのを確かめてから店員を呼びハイボールを頼んだ。「ロックンローラっていうのは、シノブ君みたいな奴のことだ」
「僕みたいな奴?」
「うん、シノブ君みたいな奴だ」
「僕はロックンローラなんかじゃないぜ?」僕は首を大きく振って否定する。「ギターなんて弾けないし、ロックンロールは好きだけど、僕はロックンローラなんかじゃない」
「いいや、シノブ君は、」ジンロウは胡乱な瞳に僕の顔を映して言う。「紛れもなくロックンローラだ」