前編
――始まりは黒い雨と、紅い炎の海。
原型という原型は全て崩れ、元の構造が分かりうるものなどなく、ただ廃墟のみが支配していた。
夜瀬澪次はそんな地獄の中、身体を動かすことも出来ずにただ…仰向けのまま焦点の合わぬ瞳で自身に降り注ぐ黒い雨を眺めていた。
――黒い雨。
放射能によって汚染された大気圏が作り出した雨雲から降り注ぐ雨であり、当然原子爆弾が原因である。
死者が数十万人に達するこの紅い業火の中、澪次は奇跡的に生き残った一人だった。
――黒色の雨なんてあったんだなぁ…。
満身創痍な身体である澪次は――宙に向かって手を伸ばしながら……そんなどうでもいい事を思っていた。
――そう。
奇跡的に身体は無事であっても、…心は既に死んでいた。
やがてその気力さえ失って、澪次の腕は地に落ちる。
――筈だった。
そうなる前に彼の手は優しく、温かい何かにそっと包まれていた。
消えいく意識の中、最後に見えたのは自身の手をそっと握り、温かに微笑んでいた同年代の少女だった。
「――ねえ。貴方はこれからどうしたい?」
あれから目が覚めた澪次は、自分を助けたケティという少女に看病してもらい、そして治った今そんな事を問われる。
唐突にそんな事を言われても澪次は答えを持ってなどいなかった。――家族と暮らす選択もあったが、彼の家族は全員あの業火によって死に絶えていた。
居場所などなく、目的もない。
そんな彼を見てケティは自分と一緒に旅しないかと誘いをかけた。
その誘いに澪次は一瞬迷いを見せたが、どうせ目的もないならと承諾した。
――それからというもの澪次は彼女に振り回されっぱなしだった。
彼の承諾に彼女は満面の笑みを浮かべるとケティは「じゃあ!」と前振りもなく海外へ飛び出すし、世界には危険な国もあるからと強制的に魔術の鍛練を受けさせられる。
正直言って体力がいくらあっても足りないぐらいの波乱万丈な日々だったが、今までに感じたことのないくらいに新鮮で、何時しか彼女といることが楽しいとすら思うようになっていた。
そして試行錯誤を繰り返した後に、二人は色々あってNGOに入って人々を助けていた。 これはケティが澪次を助けたように、澪次も助けられた自分の命を、今なお苦しんでいる人達のために尽くしたい一心から彼が頼んだ事だが、ケティは何も言わずに笑顔で頷いてくれた。
――ある日の夜、二人は難民キャンプから満月を眺めていた。特に理由はないけど、彼女が何となく月が見たいって言うからこうしているだけだけど。
「…貴方と出会ってからもう4年が経つんだね」
「…そうだね」
「今ではこんな関係になってるけど、初めて出会った時ってレイジはボロボロだったよね」
「――それがあの時の事を言ってるのなら、冗談じゃ済まさないから」
思わず殺気が漏れてしまう。
だけど仕方のないことだと思う。あの時の核爆によってあの街の澪次以外の人達は皆死んでしまった。
……そう。彼だけが生き残ってしまったのだ。
ならばこそ死んでいった彼らのためにも、例えケティの冗談でもそれだけは許されない。
「…うん。分かってるよ」
ふと澪次の肩にケティが頭を預ける。
「冗談に聞こえたのなら許してね。だけどあの出逢いが無かったら、今の私達がいないのも事実なんだから」
「――うん」
静かに微笑むと、澪次もそんな彼女に重なるように頭を預けた。
互いの肩から、そして顔から伝わる温もりに確かな優しさを感じながら、二人は静かに星空を眺める。その中心に浮かぶ満月は、儚げながらも綺麗な輝きを放っていた。
これからもずっとこのように生きていけたら……、彼女と過ごしていけたらどれだけ幸せなのだろう。
澪次とってのケティという存在はそれほどまでに大きくなっていたのだ。
「――あのね、お願いがあるのレイジ」
「なに?」
「もし私が変わっちゃったらだけどね――」
「うん」
急にどうしたのだろうか。変わったらって何の事だろう。性格?心境?それとも容姿の事?
「――――その時は迷わずに私を殺してね」
その時ケティが言ったことを澪次は理解できなかった。
その翌日。
二人は隣国の紛争地帯へと向かうことになった。本当なら行くつもりは無かったし、わざわざ銃弾が飛び交う中に嬉々として足を踏み入れようとするほど狂人者でもない。
それでも向かうことになった理由は、ある情報を耳にしたからだ。
――その紛争に吸血鬼が関わっている可能性がある、と。
そしてその時は訪れた。
日は沈み、闇の垂れ幕が辺りを覆った夜、その中に建つ一際大きい建築物の中で二人は目的と対峙する。
建物の中へと息を切らせながら扉を蹴破って侵入した澪次は油断なく周囲を警戒する。
そして自分に向けられる視線に気づき、左手に構えていたダガーを振り向き様に投擲した。
「フム。どうやら今回の客人はどうも物騒なお方のようだ」
予想はしていたが、それはソイツに届く前にあっさりと空中で掴まれる。――ならばと右手にコンテンダーを具現化させると、その銃口を牽制するように『吸血鬼』へと向ける。
今標的にしている吸血鬼といった人外は、不死性の身体を備えているため普通の銃弾では聞かない。だからこそコンテンダーに魔術的な術式を組み込んであるし、銃弾においては自分の血液を編み込んである。
――既に準備は万全だ。
そうして構えた先にいる敵を改めて確認した澪次の瞳は驚愕に見開かれたのだった。
「――マーカス…さん?」
――そう。今銃を向けている先にいる吸血鬼は自身のよく知る人だった。
暑い夏日が降り注ぐなか、澪次は大型天幕にて食事をメンバー達と共に作っていた。
難民へ配色することを前提とし、器材などは多人数分を目的にしているために本格的なものは料理できないが、それでも澪次は手を抜くことは一切しなかった。
「レイジー!ケティー!ご飯まだー!!」
「もうお腹ペコペコだよー!」
――そう。ここにはこうして自分を受け入れてくれるメンバー達や住人達、そして彼らの子供達だ。
そんな笑顔が見れるからこそ、澪次もこの仕事に対して幸せを感じていた。
そんな澪次をケティは微笑みながら見つめていた。
――彼女が澪次を初めて見たときの彼に対しての感想は……機械――その二文字につきた。
感情が抜け落ちたかのような無表情。自分自身の意思を持っているのかと疑問に感じてしまうほどの言葉数の少なさ。
そんな彼を見たとき、ケティは理解してしまったのだ。
――――感情も何も皆、あの業火に焼き消されてしまったのだ、と。
けど、あの時と比べて澪次は少しずつだが変わってきている。ちゃんと怒る時は怒るし、呆れるときは呆れるし、悲しむときは悲しむ。微弱ながらも表情に表せるようになっている。
ならばこそ彼の成長を見守ろうとケティは心に決めた。
「――経済が発展してない国でも……あの子達のように笑えることだって出来るんだ」
難民キャンプから少し放れた広場で球遊びをしている子供達を、澪次は眩しそうに微笑みながら見つめていた。
戦争から逃れてやって来た避難民の人達。家族を失った子供、身体の一部を失くした子供、一時敵国に利用されて人を信じれなくなってしまった子供達がここへ流れ着いてきた。
そんな彼らが笑っている。
それだけで澪次は救われたような気持ちだった。
――だからだろうか。
「――がッ!?」
突然澪次の右肩を銃弾が貫いた。紛争地帯の敵からの物だ。いくら平和のように見えてもここは戦場。澪次はその事を刹那とはいえ忘れて油断していたのだ。
「レイジ兄ちゃん――!?」
突然の事に子供達は泣き出し、混乱し出したが、そのなかでも一人肩をおさえて蹲る澪次に駆け寄ろうとするものがいた。
子供達の中でもとりわけ澪次に好意を寄せ、彼の事を兄と慕っている女の子だ。
「来ちゃダメだ、テラ!!」
敵の狙いはこの国の子供達なことは疑いようがない。澪次に中ったのは彼が一番年長だからといった偶然以外の何でもないだろう。
だからこそこの状況を上手く利用していくしかない。自分が狙われている限り、あの子達が逃げられる時間を稼げるからだ。
「良く聞いて、テラ。君は今のうちに他の子供達を連れてキャンプ場に戻って」
「でもそれだとお兄ちゃんがっ!」
「僕なら大丈夫。―――このくらいなら問題なく逃げ切れるよ」
――大嘘だった。
様子から見てこちらに銃を向けている気配の数は15を越えている。
そんな状況から生きて帰れると思えるほど自分は慢心していない。
でもだからこそだ。ならば尚更テラや子供達を危険に巻き込むわけにはいかない。
澪次は首に掛けているネックレスを外すと、
「――テラ」
「なに――ってわぁ!?」
テラに向かって放り投げた。
「それはずっと昔にね、僕がケティから貰った大切な物なんだ。僕が帰ったら返してもらうけど、そのときまでテラが預かってくれるかな」
「だけどレイジお兄ちゃんは……」
それでも泣きそうなテラに澪次は苦笑した。全く……僕も随分と慕われたものだ。
当然の事だが敵は待ってなどくれない。今度は右腕が銃弾に貫かれた。――これではもう右手は動かすことなど出来ないだろう。
「――早く行けッ!!」
「っ!――う、うん!」
テラは顔を涙で歪ませながらも頷いて走っていった。本能が察したのだろう。このまま自分が駄々をこねればこねるほど、澪次がさらに傷ついていくのたろうと。
「――さて、と」
無事にこの場を去ったのを見届けた澪次は、左手に小銃を具現化させる。
この状況の中生き延びられるなど思ってはいない。自分に出来ることは子供達がキャンプ場に帰るまでの時間稼ぎ。
――ならば最期まで足掻かせてもらうさッ!
構えをとると、銃弾を放ちながら戦場を駆け出した。
冷たい空気が流れる夜の砂漠の中、澪次は全身が血にまみれ呼吸もままならない様子で空を仰いでいた。
結論から言えば生き延びられた。あの場にいた敵は殲滅し、子供達も無事に逃げ延びられたようだ。
――だがそれだけだ。
このように自分の身体も穴だらけ、今では指一本でさえ動かすことが出来ない。
後は死ぬときを待つだけだろう。
そう確信していた。
だがその時に一人の陰が澪次に被さった。
「――酷いな」
彼はそう呟くと澪次の側に屈み込む。
「……ぅ。――貴方は?」
「目が覚めたのか?――私はマーカス・レルディムという者だ。出来れば動かないでもらいたい。今から傷を癒やすのでな」
マーカスは澪次の胸に手を添え、何かを呟く。
すると澪次の傷は少しずつだが癒え始めたのだ。
――治癒の魔術。
澪次はその正体を見抜くと同時に、マーカスという者が図れずにいた。
魔術師という生き物は自分のためだけにしか魔術を使用することはない。なのにこの男はその魔術を澪次を助けるために使用している。澪次は訝しげにマーカスを見つめた。
「――何故助けているのに不審に見られねばならんのだ?」
「……魔術師の生き方を考えれば当然の反応だと思いますが?」
「……成る程」
マーカスは口元を吊りあげながら澪次を見て笑みを浮かべる。意味深な瞳を向け、何かを思い付いたかのように悪魔のような顔をしたのを見た彼を見て澪次は嫌な予感がした。
「やはり魔術師は等価交換が原則だったな。これは失敬。――では」
そう言うや彼は澪次の傷の癒えきってない身体を平手で叩き始めた。
「―――っっっ!?!?」
当然だが傷口から来る激痛に澪次は声にならない悲鳴を上げる。
「私は人の苦しむ顔を見るのが大好きでね。これで等価交換の代わりとさせていただこう」
「ストップ!ストップ!ストーーップ!?」
この人性格絶っ対破綻してる!あぁぁぁーー!?弾痕に指入れないでッ!!
「――あぁ…十分過ぎるくらいの対価だ」
「……そうですか。それは良かったです――」
一騒動過ぎた後、マーカスは幸福に満たされ愉悦を感じた笑顔で、対する澪次はげんなりしたような表情で俯せになっていた。
「ありが――――と?」
とはいえ助けられたことは事実。改めて目の前の男に礼を言おうとした瞬間、強い力で引かれた。
何だと振り返ると、ケティが僕の手を引き、守るかのように正面へと立った。
「下がりなさい」
ケティに表情はなく、今までに数えるほどしか見せたことのない、とても鋭くて、冷たい視線。
――そう、敵を見るような眼だった。
ケティに敵意の視線を向けられているマーカスはただ薄く笑っているだけ。そこからはこちらに対する殺気や殺意などは感じられない。
「大丈夫、何かされてないレイジ?」
「あ、うん。むしろ助けられたみたい」
するとケティは瞳を大きく見開くと、おもむろに僕の身体をさわりはじめ、解析の魔術を起動した。そして何処にも異常が無いのを確認すると一息つき、マーカスという男に向き直る。
「――もう一度だけ忠告するわ。下がりなさい。彼を助けてくれたことに免じて見逃してはあげるけど……それに治癒の魔術に乗じて解析の魔術まで使ったことに対しては看過出来ない」
殺気の籠った視線を飄々と受け流しているようかに見えたマーカスは、やがて降参だと肩を竦めて両手を挙げた。
「やれやれ。君のような見目麗しいお嬢さんに睨まれるのは、この老骨には堪える。まあ今日は楽しめたよ。…ではまた」
彼はフードを深く被るとそのままその場から去っていった。
僕は目の前の現状が理解できなかった。
何故…何故
「何故貴方が…ここにいるのですか…?」
情報通りだとここは吸血鬼が隠れ家としている工房であるはず。ならば今目の前にいる人物がマーカスさんなはずがない。いや彼であってはいけない。
だが本能だけは察しているようで銃口を向けている右腕は意思に反して下りることはない。
「フム。何故とな?」
片手で顎をしゃくりながら不思議そうにこちらを見つめるマーカスさんに、思わず銃を握る力が強まる。
「――争いの絶えない場であるほど……ククッ血を吸いにやって来た吸血鬼が目立たない環境はあるまい」
瞬間、広間に発砲音が響き渡った。――そう。分かりやすい挑発だと理解していても、それは僕の許容力を越えていた。――だから我慢が出来なかった。
「――おや?何故狙いを外したのかな」
「それを分かっていて聞くのですか貴方は……っ!」
マーカスの表情に変化は無い。相変わらず薄い笑みを浮かべているだけだ。
銃弾は彼の頬を掠めていっただけで当たることはなかった。――そう、的を外さざるを得なかったのだ。
「……やれやれ。数多の命を殺した噂の吸血鬼を殺せる機会だったのだがのう。その為には子供一人を切り捨てることに躊躇など持つべきではないと思うが」
彼の話など聞く耳持たなかった。ただ殺気を籠めた視線をありったけ彼にぶつける。何故なら彼の腕のなかにはまだ10歳にも満たない少女が人質として拘束されていたのだ。
確かに多くの人を救うのならば、今ここにいる少女ごとマーカスを殺してしまえば問題はない。
そんなことは僕が一番分かってるし、それを今するつもりでいる。
―――だけど身体が全く動いてくれないんだ。
マーカスはそんな僕を見て心底落胆した様子を見せた。
「――興醒めだ。そんなお前を観察などしても何の愉悦にもならん」
『……そう。最期なんだから愉しんでいけば良かったのに』
どこからともなく発せられた言葉と共にマーカスが二分に切り伏せられた。
その主――ケティは刀についた血を振り払うと鞘に納め、そのまま僕の方に歩み寄る。
その瞳は僕に向けているものとは思えないほどに冷たく、その理由が分かってるだけに僕は辛かった。
「……何故躊躇なんかしたの?あそこで迷わなかったら間違いなく貴方は彼を殺せてた」
「――ほんと何でだろうね。覚悟は出来てた、けど身体が動いてくれなかったんだ」
苦し紛れな言い訳だ。覚悟を持っていたのは事実。それに反して身体が動いてくれなかったのも事実。……だけどそれだけだ。
――それは裏を返せば覚悟が足りなかったということ。
僕とケティはしばらく見つめあったまま沈黙を保つ。そしてケティは深く溜め息をつくと、呆れたように苦笑した。
「――本当に呆れた。やっぱりレイジはお人好しだよ。…………うん。でもね、本当は貴方がそんな決断をしなくて良かったとも思ってるんだ」
「……は?」
「特に深い意味は無いんだけど、やっぱりレイジはいつまでもそのままでいてほしいんだ」
柔らかに微笑んでケティは人質にされていた女の子を連れてくる。
「私は一先ず用事があるから、先にキャンプ場に戻るね。レイジはその娘を両親の所に送っていってあげて」
それだけ言うとケティはスキップするかのように鼻唄をしながらこの場を去っていった。
相変わらずな彼女に僕は苦笑いをすると、女の子の頭を撫でながら優しく微笑みかける。
「じゃあ僕達も帰ろうか。君もそろそろお家に帰りたいだろうしね」
コクりと頷く女の子を背負い、僕達もその場を後にした。