9 『彼岸花』 哀しい思い出 恐怖
「パパァーー、パパァー起きてよぉ」
「もう少し寝かせてくれよぉ。昨日も遅かったんだ、パパ」
今日は学校が休みなのか。覚めきらない頭に理沙の声が無理矢理侵入してくる。
理沙はいつも通り朝早くに目覚めて自分でパンを焼いて食べ、それから裕仁を起こしに来ていた。
昨日は礼子の家から研究所に向かって計画書のデータを最初から洗い直し、AM1とAM2のカルテを家に持ち帰って調べ、書斎から出たのは深夜かなり遅くだった。眠りについたのも空が白み始めるころだったので、往生際悪く布団に潜り込んでいる。
理沙は、裕仁を何度呼んでも寝室から出てこず、起きてくる気配がないのでとうとう痺れを切らし、寝室に足を踏み鳴らしながら入ってきて羽毛布団の山になっている裕仁に馬乗りになって暴れていた。
「エーム看てたの? エームはいつ戻れるの? まだ戻れないなら、お見舞いにいきたいの! ねぇーえー、パパァ」
観念して起きようとしたとき、もう一つ観念しなければならないことがあったのだと気づいて急激に目が覚めた。
昨日、礼子と約束をしたのだった。今日こそは、真実を話すと。
裕仁は羽毛布団の山を崩して起きあがって理沙の肩をその腕に抱き直した。
「あの、さ、理沙。エームは……もう帰ってこられないんだよ。疲れすぎたからお休みするんだ」
思いがけない言葉に、先ほどまでの無邪気な笑顔が途端に凍りつき、理沙の碧い瞳が視点を失い虚空を漂う。
「どうして? 元気だったじゃない!」
「エームはパパや理沙と違って、ロボットだから急に壊れることもあるんだ」
「そ、んな。し、死んじゃった、の?」
「ごめん、な。パパの力不足だ」
信じられない言葉が次々に裕仁の口から理沙の頬をつたう涙と一緒に零れて落ちる。見開かれた瞳が一瞬閉じられたあと、裕仁を射抜くように見つめて堰き止めていた想いを一気に捲し立てた。
「――つき。パパの嘘つき! ママの時と同じじゃない。帰ってくるっていったくせに! エームは理沙の大事なお友達だもん! ずっと、ずーーっと、一緒に居てくれるって約束したんだもん!」
「理沙!」
理沙は心が重苦しく沈み込むことに顔を歪ませて、抱かれていた腕を振りほどき、布団を裕仁に投げつけて家を飛び出していた。AM1を求めて無我夢中に。
「エーム、約束したよね? ずっと、理沙の側に居てくれるって……きゃあっ」
心臓が飛び跳ねるほど走って川縁まで来たとき、躓いて転んでしまう。
遠い日に母を求めて走り出したあのときのように。
うつ伏せたまま、ぎゅうっと小さな拳で何度も地面を叩いた。
帰ってくると信じていた。あの優しい腕がまた戻ってくると。
ショウガナイデスネと言いながらいつものように助け起こしてくれると。
【ワタシハ、リサノ、傍ニ、ズット居マス】
「戻ってきてよぉっ! エェーームゥゥゥッッ!」
*
*
「理沙! 何処まで行ったんだ」
理沙が初めて見せた激しい感情にしばし茫然としたが、慌てて着替えて後を追って町へと探しに出ていた。しかし、思いつく場所には理沙の姿はなかった。
怒りを宿らせ、零れんばかりに見開かれた大きな瞳が瞼に焼き付いている。
大きく波打つ心臓の音が体中に響き、焦りと不安でクラクラと目眩がして倒れそうだった。
どうしたものかと立ち止まったときポケットの携帯電話が鳴った。
「はい。森口。どうした。え? 消えた、って、そんな馬鹿なっ! パワーソース(主電源)は切って置いた筈だぞ!」
電話は研究所からで、AM1がラボから姿を消したという連絡だった。
にわかには信じられない事態が起こっている。
確かにパワーソースは切られていたはずだ。あれから一度も起動させていない。
誰かが故意にスイッチを入れなければ、決して動くなど出来ないはずなのだ。
今までとは違う不安が裕仁を襲い、顔から血の気が引いていく。理沙が見つからないことに加えてAM1までも消えた。思考がぐるぐると巡って纏まらない。
研究所の呼び出しもある。車も取りに戻らねばならない。
携帯が割れそうになるほど握りしめ、一度家に戻ってみようと来た道を弾かれたように走り出した。
理沙が帰っていないかを確かめようと、裕仁は家中を探して回った。
しかし、気配さえかき消したようにどの部屋も静まり返っていた。
裕仁は寝起きのまま無造作にはねた髪に指をめり込ませて頭を抱え込んだ。
「居ない。一体何処へ」
何も、手がかりさえ掴めない。AM1まで行方がわからない。頭をガシガシと掻き毟る。
そうだ、研究所にも戻らねば。一人で探すよりも、所員たちにも手伝って貰ったほうが良いかもしれない。
裕仁は一縷の望みをかけ、急いで車のキーを掴んで車に飛び乗った。
はやる心そのままに車を走らせ研究所の駐車場へ滑り込む。
入り口付近で乱暴に車を横付けして飛び出していき、ガラス扉が割れそうなほど勢いよく開いてラボを目指した。
ラボの引き戸を開くと、所員たちはAM1が消えたことで慌てふためいている。
人を押しのけAM1の検査台の場所まで入ると、礼子も連絡を受けて来たのだと、裕仁の肩を叩いた。
裕仁は礼子の顔を見るなり鳩尾を打たれたように声を詰まらせ座り込んでしまった。
その姿に眉根をしかめ、礼子が座り込んだ裕仁を一喝して立ち上がらせる。
「しっかりなさいな!」
「AM1が、もう、帰ってこないって、言ったんだ。そしたら理沙が居なくなったんだ」
「まさか理沙ちゃんが?」
礼子は驚きで目を見張りながらも、その瞳はみるものを射るように光っていた。
もしかしたら、理沙がラボまで来てAM1を持ち出したかも知れないと考えたのだ。
「とにかく探しましょう。森口君泣き言は後よ! 何処か心当たりはないの?」
「思い当たる場所は、すべて探した」
二人のやりとりを見ていた所員がいたたまれなくなって声を上げだした。
「子供の足ではそう遠くへは行けないはずですよ。僕たちも全員で手分けして探します!」
「お願いそうして。最悪の事態にならないうちに!」
所員たちも口々にAM1と理沙の捜索を申し出てくれた。
裕仁は彼等を連れて家の周りなどをもう一度探すことにした。
「理沙ーーー!」
「理沙ちゃーーん」
「理沙さーん」
「どこにいったのかしら」
学院内や公園、裏山など数名に分かれて探して歩いたが、やはり理沙の姿はなかった。言葉にならない焦燥感で胸がぎりぎりと軋むように痛む。
藍色の空にぽつぽつと街灯がともりだしたころ、一人の所員が裕仁を急かすように進言する。
「森口博士、万が一の時のためにエマージェンシーを用意した方がよいかと」
「それが――」
「ないのっ?」
「あぁ、AM1の横に置いていたんだけどな……」