8 『カンパニュラ』 思いを告げる 後悔
車のウィンドウガラスに区切られた空は、梅雨時だという事を忘れそうなほど青く輝き、山のような入道雲の白とコントラストが悲しいほど美しかった。
研究所を出てから、理沙にAM1のことをどう伝えるべきかと考えているうちにここへとたどり着いていた。
学院の門の前に車を停め、裕仁は理沙を待った。こうして迎えにきてやるなんてどれくらいぶりだろうか。
ぼんやりと考えていると、学院の敷地内に堂々と聳える歴史ある鐘楼の鐘が五回鳴り響く。下校の時刻だ。
空高くへ吸い込まれていくように鐘の音が鳴りやむ頃、校庭には子供たちの姿があふれ出す。
女の子は緑のラインが入った濃紺のセーラー服に緑のリボンタイ。男の子は濃紺に緑のパイピングが入ったブレザーで、裕仁もこの学院卒なので制服を見るたび懐かしい思いに駆られた。
子犬のようにはしゃぎながら通り過ぎていく子供たちを眺めていると、群れから隠れるようにして、一人俯き加減で歩いてくる理沙をみつけた。
車のウィンドウを開けて声をかけようとしたとき、丁度横を通る数人の女の子のかしましい声が耳に入ってきた。
「――理」
「理沙ちゃんだ。また一人だよ?」
「一緒に帰ってあげようか?」
「やめときなよ。どうせ声かけたってロボットがどうのって話しばっかりでつまんないんだもん」
「でも……」
長い髪をきっちりと三つ編みにした一人の女の子が、振り返って理沙に声をかけようとした時だった。
「いいもん! 別に声なんてかけて欲しくないもん! 理沙には、理沙にはエームが待ってるんだから!」
今まで俯いていた顔をあげ、女の子達を睨み付けて陰鬱な言葉を吐き投げて走り去っていってしまった。
あとに残された女の子たちは肩をいからせ、顔を真っ赤にして不快感を露わにしながら足早に去っていく理沙の後姿に罵声を浴びせた。
「何よ! やな感じ!」
「ほら、あんな子なんだもん! いこいこ!」
裕仁は数分のやりとりを見てがっくりと肩を落としシートにめり込むようにもたれかかった。なんてことだ、とため息が漏れる。
AM1への依存は、裕仁が思っていたよりも深刻だった。
自分から高い壁を築き上げて近づく者を寄せ付けなくなった理沙に、これから伝えなければいけないことはどれほど残酷な事実なんだろうか。
*
「エームゥ。ただいまぁっ」
「あれぇ。エームゥ。どこぉー?」
「えっ! エームゥ! エーーームゥゥーー!」
結局声をかけられず重い気持ちのまま車を走らせた裕仁は、一足先に家へ帰り着いていた。
書斎でどう切り出そうかと思案している間に理沙が帰ってきてしまった。
AM1を探してヒステリックな声で彼を呼びながら、家中を駆ける足音がだんだんと近づいてくる。
書斎のドアが勢いよく開かれ、理沙が飛び込んできた。
「おかえり」
「パパッ。え? なんで?」
理沙は、大切な書類があるからと普段ならば呼ばれない限り書斎に入らない。動揺の果てにノックも無しに入ってしまったことも合わせて、ばつが悪そうに目を逸らした。
それに付け加えていつもと違う重暗い雰囲気は、まるでうしろから冷水をかけられるのを待つような不安感に肌が粟立っていた。
居ないはずの裕仁が居て、居るはずのAM1が居ない。
「どうしてこんな早くに帰ってたの? エームはどこいったの?」
はくはくと喘ぐように言葉を紡ぐが、白桃のような頬がだんだんと青ざめて目が泳ぎだす。仄暗い記憶が蘇って理沙の胸を締め付ける。
裕仁は意を決し、椅子に腰を下ろしてAM1の所在を尋ねる理沙を膝に抱きよせた。
「あのな、理沙。エームは」(さぁ、言わなければ……!)
「け、検査に行ったんだよ」
「どーして! エーム病気なの? ロボットなのに?」
訝しげに裕仁の言葉を待っていた理沙は、更に大きく膨らむ不安を爆発させていた。
「そう、だよ。理沙だって病気になったらお医者さんに行くだろ? ロボットだってロボットだけの病気があるんだ。だから病気かどうか検査するんだよ」
「――――帰ってくる?」
「あ? あぁ、帰ってくる、よ」
今にも泣きだしそうに顔を歪める理沙の頭を撫で、ぎゅっと抱きしめた。
そっと絹糸のような髪を指で梳いてやると、摘みたての苺に似た甘い香りが鼻をくすぐる。
裕仁の胸にも黒い靄が立ち込める。また誤魔化すことしかできなかった。
AM1がはじめてきた日がまた蘇る。
だけど
此処に
彼だけが
居ない。
**
次の朝、数年ぶりに裕仁がキッチンに立ち、レタスをちぎって皿に盛っただけのサラダと、焦げたハムとAM1が焼いておいたパンを切り分けて、味気ない朝食をぼそぼそと食べた。
久しぶりに送るよ、と理沙を学校に送り、小さな背中を丸めて歩いていく姿に憂いをそそられる。
こみ上げてくる激しい熱を押し込めていた裕仁は、誰かに腹の底に溜まった自分への怒りをぶちまけたくなって礼子の家に車を走らせた。
チャイムを鳴らし来訪を告げると、礼子はその赤い唇を目いっぱい引き上げて笑い裕仁の手を引いて招き入れた。
AM2が遺した傷跡もすっかり元通りになったリビングに通され、裕仁は珈琲を飲みながら今朝までのことを礼子に打ち明けた。
「理沙に、本当のことが言えなかった」
向かいに座っていた礼子がそっと裕仁の隣へ移りその肩に手を置いた。
「大丈夫よ。お別れする時間ぐらいあるわよ」
「また泣かせてしまうんだろうなぁ。一日居ないだけでああなんだから」
「本当に好きなのね」
肩に置いた手を裕仁が膝で組んだ手の上に重ねて、ふわりと寄り添う。
「今ではもうリディ以上だ」
「本当のお母さんより……」
裕仁が妻の名を口にした瞬間、礼子の体もピクリと反応した。あの名を呼ぶ柔らかな声が耳障りに鼓膜を叩く。
裕仁の体も小刻みに震え、組んでいた手をぎゅっと握りしめた。
「あぁ。それに理沙――――。人間の友達も居ないんだ。そんな大事なことにも気付かずに同じ過ちを繰り返して今まで暢気に居たなんて、な」
「も、森口君……?」
もう記憶の彼方に追い去っていたかつてのライバルの名に眉根を寄せたが、突然堰を切ったように泣き出した裕仁に、礼子は戸惑いながらその身を彼から離した。
「やっぱり、このまま会わせない方が良いのかも……な」
「――――」
礼子は行き場のない懺悔を下手な慰めをするでもなく、静かにただ黙って聞きながら、涙も拭えずにいた裕仁にそっとハンカチを渡した。
血がにじむほど、唇を噛みしめながら。