3 『吾亦紅』 愛し慕う 移ろいゆく日々
AM1が森口家に来て理沙と馴染んでから、生活は文字通り一変した。
それまで来ていたシッターもよく働いてくれはしたが、深く関わることは決してしなかった。
理沙に体調不良があれば、症状が軽くても必然的に裕仁が呼び戻され、彼自身が病院などに連れて行かねばならなかった。
これは、小さな子供を預かるうえで、万が一を想定すれば当たり前の行動である。しかし男親である裕仁には、今ひとつ利便性に欠けるとどうしても不満を感じずにいられなかった。
だがAM1が居ることで、病状の判断も的確に行い、必要であればインプットした罹りつけの小児科医院へと連れて行ってくれる。
AM1に目覚めの挨拶をし、共に出かけ、寝物語を読んでもらって一日を終える。
ずっと傍にいるモノが変わらないというのは理沙にとっても大きな安心だった。
その甲斐あってか、理沙が夜中に悪夢にうなされ泣き出すこともなくなっていった。
日常的なイベントにおいても彼はその管理能力の高さを如何なく発揮して、滞りなく済ませてくれる。
例えれば誕生日に用意するプレゼントの内容や飾り付けから、裕仁が出席しなければならないような学校行事や習い事の発表会のスケジューリングも万全だった。
何よりも裕仁を満足させたことといえば、AM1と理沙が手を繋いでガーデンを散策して木々の手入れをしたり、季節ごとに花の植え替えを行う日常。
洗濯をすれば仲良く二人で干したり、窓を挟んで内側と外側とを拭き合ったり、仲睦まじく過ごす風景をみられるようになったことだ。
AM1は理沙と共に『成長』していったのだった。
*****
そして現在。
小学二年生に進級した理沙は、標準より背は低いものの、随分と女の子らしく成長していた。
フランス人である母譲りの陶磁器のように透きとおる白い肌、少女ながらも人形のようにスラリと伸びた手足。
そしてなにより印象的な、夏の空を思わせるような大きく碧い瞳。濃く長い睫。
桜の花びらのようなくちびる。うっすらとサーモンピンクに色づいた頬には、笑うと小さなエクボがみえる。
亜麻色(黄味がかった明るい栗色)の髪を胸まで長く伸ばしており、丁寧に梳かれて艶やかに輝いていた。
その長い髪を、毎朝丁寧にAM1にポニーテールに結い上げてもらい、リボンで結い留めてある。
今日は、縁に小花型に編んだレースがついた、幅広のふわふわで大きな乳白色のシフォンレースだ。
理沙の一番のお気に入りで、なんとAM1のお手製である。
赤や黄、水玉模様、ストライプ、色とりどりのリボンを作っていたが、このシフォンのリボンが一番亜麻色の髪にとてもよく映えて似合っている。
お互いにその事を分かりあっていて、三日と空けずこのリボンを結ぶ。
リボンだけではなく、理沙の普段着などもAM1がせっせと作っている。
どれも理沙のリクエストを添えて作られ、彼女の可愛らしさを際立たせる一品ばかりだった。
縫いあがったばかりの洋服に袖を通して鏡の前でくるりとまわり、可憐に微笑む理沙を見ると、AM1は『喜び』を感じていた。そして理沙の更なる笑顔のために腕を振るうのだった。
AM1は、一般家庭用として造られていたので大抵の家事は熟すことができる。
モーションキャプチャー(人物や物体の動きをデジタル的に記録する技術)によって人体動作技能学習ができる。そうして取り込んだ人間の動きを繰り返し再現する事で精度が増す。
それに付け加え、手指の造りも何度も試行錯誤が繰り返されていた。
人間の骨格や細かな筋を出来る限り緻密に再現することで、非常にリアルで滑らかな動作を実現させることが可能になった。
まさかその技能を熱心に学習するきっかけが、少女の洋服や小間物を縫う事であるなど想像もできなかった裕仁だったが。
料理のレシピも和食、イタリアン、フレンチのみならず、理沙に『安全なものを食べさせたい』とパンやデザートにも及んだ。
日々品数も増えていき、店舗顔負けのフルコースを堪能することもできる。
理沙が一言「美味しい!」と瞳を輝かせれば、AM1は『幸福』を感じることができたし、その笑顔を得るための努力を惜しまなかった。
「……おまえ、そのうち米や野菜まで作るとか言いだすなよ」
[ダンナサマ! ナント素晴ラシイあいでぃあ!]
「いやいやいやいや! そんな場所ないから!」
何でもやろうとするAM1に、余計なことを言うまいと裕仁に決意させる瞬間もしばしば起こる、穏やかな日が続いていた。
*****
彩りを忘れたかのように厚く灰色の雲が張り出し、こつん、ぽつんと雨粒がガーデンの如雨露をたたき出した昼下がり。
理沙は学校から帰りつくやいなや、乱暴に門扉を開け放った。
靴を脱ぐ事ももどかし気に玄関先になだれ込んで突っ伏すと、この時間キッチンで炊事をしているであろうAM1を大声で呼び寄せた。
「エームゥ、エームゥっ!」
[リサ? リサ、オ帰リナサイ。コレハ、コレハ。ドウシタノデスカ?]
「――太くんが、裕太くんがぁ、理沙のほっぺつねったのぉ」
足早に理沙に寄り添うAM1の姿に安心したのか泣き崩れる理沙。
どうやらクラスのいじめっ子にやられたらしい。
[ヨク、見セテクダサイ]
AM1は片膝を立てて理沙を膝に座らせ、赤く腫れた頬に手を添えた。
小さな爪痕が残っていたが傷にはなっていなかったので『安堵』した。
「冷たくて気持ちいい。」
機械の体。ひんやりと冷たい手。
だが頬を撫でる度に痛みが和らぎ、冷やされた所から暖かい『心』が流れ込むようでとても心地よかった。
AM1は、また頭部に磁気が走った感覚を味わった。
インストールされているあらゆる辞書を繰っても、どれが該当するのか分からない。
しかし、理沙を見つめていて脳内に浮かんだ言葉をそのまま口にした。
[ リサ ヲ マモル ]
「エーム……? どうしたの?」
[リサ。次ニ、イジメラレタラ、大声デ、ワタシヲ呼ンデ下サイ。リサノ声ハ、ドコニイテモ、解リマスカラ]
「ほんとっ」
[本当デス]
「うんっ! わかった。絶対そうするねっ! うれしいなぁ。私だけの、エーム」
理沙はそっとAM1の胸元に頬を埋めた。
鼓動の代わりに静かに体内に響く起動音を聞きながら、他の誰も聞いたことがない甘えた声で囁いた。
そしてひとしきり安心を噛みしめると上目づかいにAM1を見上げ、小首を傾げておねだりをした。
「あのね、エーム。きょうも宿題を教えて欲しいの」
[承知シマシタ]
二人は立ち上がると、手を取り合って廊下の奥へ進んだ。
リビングに入ると、テーブルを挟んで向かい合ってソファに座る。
[サァ、デハ、今日ノ宿題ヲ見セテクダサイ。算数デスネ。リサ、コノ問題ノきーハ三角形ノ公式デスヨ。]
AM1は、くるくると表情がかわる理沙を見つめ、勉強を教えながら思った。
毎日毎日、一日として同じ日などない。
沢山の不思議な『感覚』を理沙は与えてくれる。
一人ぼっちで可哀想であった理沙。
だけどとても可愛い理沙。
どんなことがあろうと――自分が、理沙を、守る。
AM1にとって理沙は掛け替えのない者になっていた。
もちろん、理沙にとっても気持ちは同じだった。
*****
「ただいまぁーー」
[オ帰リナサイマセ、ダンナサマ]
「理沙はもう寝たのかい?」
[ハイ。オ休ミニ、ナリマシタヨ]
久々に早く帰れたと言ってももう十時をとうに廻っている。
自室のウォークインクローゼットで手早く着替えを済ませて理沙の部屋へ行き、寝顔をみて一息つく。そして寝乱れたベッドを整えてやって階下へ降りる。
これが裕仁のここ数年の日課だ。
[ダンナサマ、びーるデモイカガデスカ?]
階段を降りてきた裕仁に、キッチンから廊下へ半身を出してAM1が小首を傾げつつ伺う。
「あー、頼むよ。忙しかったから一息つきたいな」
溜息交じりにこたえると、AM1は「承知シマシタ」と告げてキッチンへ戻った。
裕仁は廊下からリビングに入って部屋を横切り、リビングドアの真向かいにある書斎へと向かった。キッチンと書斎もコの字の形でドアで繋がっている。
書斎の窓辺には、今日庭から摘んできたと思われるバーベナが、白く四角い花瓶に活けられており、少し開いた窓から入る風に乗ってハーブ特有の爽やかな香りが鼻をくすぐった。
パソコンのモニターが二台並んだ机の前に据えた、いつも寛ぐときに愛用しているふわりと体を包み込むような椅子に体を預け、いそいそと晩酌の用意で書斎とキッチンを行き来するAM1に尋ねた。
「それで、理沙は今日もいい子にしてたかい?」
すると、パタパタと歩き回っていた足を止め、つまみの小鉢をのせていたトレーを胸に抱いて、とても『嬉しそうに』AM1は応えた。
[ハイ、ソレハソレハ、トテモ!]
「じゃあ、いつものを見せてくれるかい」
[ハイ。タダイマ]
よく冷えたビールをグラスに注ぎ、半月に切ったライムを絞り入れてから裕仁に手渡す。ビール瓶をテーブルにそっと置くと、AM1は書斎の何も置かれていない方の白い壁に向き立った。
一つまばたきをして瞳のライトが一際強く輝くと、今日一日の「記録」を投影しだした。
AM1の瞳のレンズ裏、眼球にあたる部分には、デジタルで記録・再生をする情報処理プログラムが組み込まれている。その瞳で見たモノを記録として保存し、オーナーの許可声紋を認識して再生・投影することが出来る。
AM1のお陰で、側にいられない間の理沙の様子もこうして知ることが出来るのだ。
次々に映し出される理沙。活き活きとした表情が仕事の疲れも癒してくれる。
こうして過ごすのも大切な日課になっていた。
しかし、近頃気にかかることがひとつあった。
「なぁ……、AM1。ちょっとさ、最近理沙に甘過ぎやしないかい?」
[ワタシハ、リサガ、トテモ好キデス]
「うん。知ってる。好きなのもいいがあんまり甘やかしてもいけないよ」
[リサハ カワイイ……]
投影し終わったAM1がそう呟いたとき、表情のない筈の彼がとても嬉しそうで、深い慈しみを感じさせるような微笑みを浮かべているように見えた。
裕仁は更にまた彼が成長し、感情の進化を遂げている事に驚きを隠せなかった。
そして、何故か。
言いようのない不安が、脳裏をかすめた。
「仲良くやってるなら良いことじゃないか。そう、良いことなんだ……」
裕仁は浮かびそうになる仄暗い想いを、冷たいビールと共に沈めこんだ。