2 『明日に咲く花』
川で溺れ、濡れそぼった体のまま家へと帰り着いた理沙。
朝の陽ざしとともに吹き抜ける風には春先のうそ寒い湿り気が残っていて、理沙の幼い体から容赦なく体温を奪いさっていく。理沙の唇は真っ青に染まり、カチカチと歯の根が合わない。
ガーデンから家に続く小道を駆け抜けて玄関に飛び込むと、すぐさま一階の最奥にあるバスルームを目指す。
無垢のナラ材でできた扉の上部にはめ込まれた、明り取りのガラスが音を立てて震えるほど乱暴に開き、浴室横の脱衣所で濡れたパジャマと下着を脱ぎすてる。
濡れた髪が顔や背中に張り付く煩わしさを気に留めている暇はない。
バスルームから横並びに続く、肌着や寝間着が収納されたウォークインクローゼットに駆け込んだ。
濡れた体を拭くこともそこそこに、洗濯済の新しい肌着に着替え、バスタオルを頭から被るように羽織って部屋へとまた駆け上がる。
急がなきゃ、アイツが帰ってきちゃう! と呟きながら。
数分後、AM1も帰宅して開け放たれたままの門扉を抜ける。
玄関の扉を開けると、理沙の小さな靴が放り投げたように散らばってある。
壊れ物を扱うように靴を拾い、泥を落として脇にそっと揃えておいた。
この時にも彼の脳内に刺激が走り、『安堵』の言葉が最も相応しい「良カッタ」と言う呟きが漏れた。
理沙の姿を探し歩いていると、バスルームの脱衣所に脱ぎ散らかされた衣類をみつけた。
カゴにびしょ濡れの衣類をまとめ、怪我の痕跡が無い事を確認して洗濯機のドラムに丁寧に入れた。
改めて床を見ると、フローリングに理沙が歩いたであろう箇所が濡れた足跡を作り、その足跡は二階まで続いていた。
きっと自室にいるのだろう。
手早くモップを振るったあと入念に空拭きを施して、理沙が出てきたときに滑ってしまわないよう注意を払った。
再度、理沙の部屋に入ろうとしたが、先ほどの事を思い出して扉は開かずノックして声をかけた。
[リサ、リサ。オ帰リデスカ? 寒クハ、アリマセンカ? 温カイここあヲ淹レマショウカ?]
しかし理沙からの返事もなく彼の声は空しく木霊するだけであった。
ドアノブにそっと手をかけると鍵がかけられている。これでは許可の声がないことには開けることもできない。
AM1は所在無げに暫くドアの前をウロウロと行ったり来たりを繰り返した。しかし、彼には裕仁から与えられた『日課』もある。「マタ、アトデ来マス」とだけ伝えて階下へ降り、洗濯の続きを優先することにした。
理沙は日中ずっと部屋に籠もったままだった。
AM1はきっかり二時間おきに部屋を訪れ、喉は渇いていないか、お腹は空いていないか、と声をかけたがドアの向こうは静まりかえっていた。
陽もとっぷりと暮れたころ、裕仁が研究所から帰宅した。
夕暮れに帰り、せめて夕食くらいは一緒にとろうと考えた裕仁の『日課』である。
AM1がその事を伝えると、理沙はやっとドアを開いて降りてきた。
小さな声で「おかえりなさい」と裕仁を迎えた。
おどおどと毛先をいじり、裕仁とAM1を交互にチラチラとみて様子を伺う。
[今夜ハ、菜ノ花ノふらいト、ぽーくそてーノ、くりーむそーす掛ケ、デス]
「へえ。もう菜の花の季節か。美味そうだ」
努めて明るいトーンで献立を告げるAM1に、裕仁は頬を緩ませた。
その様子を見て小さく溜息を漏らした理沙を、AM1は目の端に捉えた。
それから二人は、AM1が用意した夕食をダイニングで一緒にとることにした。
実のところ、裕仁は帰宅してすぐに午前中に一騒動あったことをAM1から報告されていた。
どうしたものかと心配を閉じ込めて様子を窺うが、理沙の口からは何も告げられず、ただ黙々と夕食を食べている。
理沙も後ろめたいのだろうか、いつもより口数が少なかった。
しかしここで叱るのもおかしい。AM1が来てまだ一日だ。いきなり慣れろと言うのも理沙の歳では無理だろう。
数日経てばこの日常に慣れていくだろう、今は敢えて何も言うまいと裕仁は一人納得した。
先に食べ終えた裕仁は、まだ仕事を残してきてあったので、あとをAM1に任せてまた研究所に戻った。
「このあとは泊まりになると思う。悪いがAM1、頼むよ」
[……ハイ。ダンナサマ]
主人の車のエンジン音が遠ざかっていくのを、庭に続く窓から確認したあと、AM1が理沙に向き直ると、理沙は食事の手を止めて俯いていた。
[リサ、ドウシタノデスカ? タクサン残ッテマスヨ。オ寂シイデスカ――]
さらに明るいトーンで声をかけ、AM1はあまり食が進んでいない理沙の顔色を伺おうとした。
すると、理沙は真っ赤な顔で息が荒く、そのまま倒れてしまった。
[リサッ! ドウサレタノデスカッ?]
瞬時に瞳が赤く光る。
即座に反応し、理沙を抱きかかえて二階の自室ベッドへ運んだ。AM1は、小指の先から爪楊枝のようなスティックを伸ばして引き抜くと、理沙の脇の下へそれを滑り込ませた。
小指から引き抜いたスティックは、イヤホンほどの細いコードでその指と繋がっており、医療用サーモグラフィになっている。いわゆる体温計だ。
体温の感知測定中は見た目にはスティックが虹色に光って見える。
そしてAM1の左手首の内側にはパルスオキシメーター(脈拍計)が内臓されている。彼のパルスオキシメーターは、血中酸素飽和度だけでなく、脈拍数、心拍も同時に測定表示できるようになっていた。
左手首を理沙の左手首に重ね合わせる。
一度まばたきをすると瞳のライトが青色に光り、サーモグラフィの熱分布が脳内ウィンドウに開く。
脳内チップにインストールされている医学知識から情報を辿り、発熱はあるものの、家庭内処置可能レヴェルと判断を下した。
スティックを指先へ戻したあとすぐにキッチンへ向かう。
少量の砂糖と片栗粉を入れてとろみをつけた甘い白湯を用意し、常備されていた解熱剤などの薬を細かく砕いて飲ませた。
スープスプーンで一匙一匙、ゆっくりと口に含ませる。
ふうふうと苦しげな呼吸を繰り返す理沙に、氷枕をつくり、汗を拭き、一晩中看病を続けた。
AM1は思考する。
昼間に川に落ちたせいで具合を悪くしてしまったのだろうか。
人間の子供は体力も少なく、免疫力が弱いと知識はあった。
にも関わらず、予後経過を疎かにしてしまった。
少し頭部に磁気が走ったような感覚が再び訪れる。
AM1は己の判断を『責めた』。
AM1はその拳を握りしめ、静かに理沙を見守った。
「ママ、ママぁ」
熱にうなされて母親を呼ぶ理沙。
感じた事のない不思議な感覚に促され、AM1は理沙の手を握り声をかけた。
[リサ、大丈夫デス。大丈夫デスカラネ]
*****
眩い朝光をふんだんに吸い込んだ爽やかな風がそよぎ、窓にかかる木々の木漏れ日が部屋を明るく照らしだす。
今は落ち着き、本来の白桃のような頬を涼風が撫でる。
小鳥のさえずる声に理沙は目を覚ました。
火のように熱かった額もよく冷えたタオルがその熱を吸い取り、今は心地よく幼い額を包むようにあてがわれていた。
[良カッタ。気ガツキマシタ! モウ、大丈夫デスネ。起キラレマスカ? サァ、リサ、コレヲドウゾ]
額に当てられた冷たいタオルを取り、AM1がそのボディには似つかわしくない
フリルエプロンのポケットから差し出した物を受け取って理沙は驚いた。
――ママの写真だ。
理沙の見開いた瞳を見て、慌ててAM1は付け足した。
[ス、少シ、泥デ汚レタノデ、綺麗ニ拭イテカラ、冷凍庫デ保存シタノデス。ソウスレバ、濡レタ紙モ真ッ直グニ、戻リマスカラ!]
体を揺さぶってジェスチャーしつつ説明する様が可笑しくて、理沙は「ふふ」とほほ笑んだ。
初めて見るほほ笑みにAM1はまた不思議な感覚を覚えていた。
[……ままハ、居ナイデス。デスガ、AM1ハ、リサノ側ニズット居マス。デスカラ、リサ、オ友達ニ、ナリマショウ]
また、振り払われるだろうか。幾通りもの行動予測が脳内を駆け巡る。
AM1はゆっくり、そうっと、そうっと、理沙に握手を求めた。
「ごめんね。ごめんなさい!」
あんなに嫌な子だったのに! AM1は自分を気にかけ、助けてくれた。
大切な写真を、川に入ってまで探して綺麗に戻してくれた。
理沙は自分が恥ずかしくなって小さな背を丸めて膝を抱えた。
だけど、理沙の言葉を静かに待つAM1が気にかかり、少し顔をあげて彼の姿をそっと窺う。
いつも来ていたシッターが置いて行った、白いフリルエプロン。
理沙が安心すると思ったのか。それを身に着けて、小首を傾げる無表情な筈のAM1。
だけど理沙には、なんだか照れているようにも、微笑んでいるようにもみえた。
理沙も涙を拭い、微笑み返して彼の手をとり、初めて彼の名を呼んだ。
「えーむ、わん。ううん、えーむ。りさ、わがまま言ってごめんなさい。もう、えーむがこまることいわないから。りさとおともだちになってくれる?」
理沙の大きな碧い瞳に、初めてAM1の姿がはっきりと映し出された。
小さな、壊れてしまいそうなほど小さな紅葉の手が、銀色の指先に熱を伝える。
「ずっと、そばにいてくれる?」
なんと甘やかに響く声だろう。頭部が痺れる。胸の辺りがなんだか熱いような初めての衝動。
触れた指先から理沙の体温が伝わるような感覚がした。
そして彼は 『己の使命』 を確信したのだった。
[ズット、ズット、オ友達デス。ズット、ズット、オ傍ニ居マスカラネ!]
AM1の瞳は、まるで柔らかな春の日差しのような色に輝いていた。