最強のお兄ちゃん
「……で? 反省したか?」
氷点下何度か分からないくらい冷たい兄の声が、正座で震えている青年の耳に届くと、彼はぴくりと身体を震わせた。
青年は細くてキラキラと輝く金髪と、宝石のような綺麗な青い瞳を持ったまさしくイケメン王子様と呼んで差し支えないほど整った顔なのだが、今はそれを青痣や傷だらけにしている。
折角のイケメンが、ボロボロだなんて勿体ないような気もする。
青年は顔を歪めるようにすると、項垂れた。
その哀れな、確かファルなんちゃら王国の王子ロバートなんちゃらとかいう青年に、私は心から同情した。
しかし何の助け船も出さない。出せない。
だってお兄ちゃん怖いんだもん!
「は、い……」
青年から苦しげに漏れた掠れた声は、今まで命令をするほうの立場であった青年にとっては屈辱に違いないはずである。
こんな路地裏の一角で、葵お兄ちゃんに上から見下ろされ、正座で反省しているのだ。
私は出来るだけ視線を合わせないように、ちらりと隣の兄を見た。
王子の返事を聞いて、つり目がちの猫みたいな顔立ちの兄は、にんまりと笑う。
ああ、その表情……猫が目の前に追い詰められたネズミを見つけて、さあどうやって食い殺そうかと考えているかのようなその表情。
そっと小さなため息をつくと、なんちゃら王子の冥福を祈った。なむなむ。
「反省したなら、それは結構。じゃあ、当たり前だがお前がしようとしたことをやりかえされても何の問題もないな?」
「え? あ、の?」
当惑した表情の王子。恐らく兄の言っていることが分からないに違いない。
私は毎回の事ながら、因果応報という言葉って怖いなぁと現実逃避をして空を見上げていた。
綺麗な青い空だった。もうしばらくすれば赤く夕日に染まるだろうか。
幸いなことに青い空と、美しい夕日を今日も地球で見ることが出来た。
お兄ちゃんがいなかったら、私は今おそらく、異世界で別の色の夕日を見ているかもしれない。
そんな兄は目を細くして、正座している王子にゆっくりと近寄った。
「魔力の強い異世界の娘を召喚して、王子の嫁にする。繋がりは王家の魔力を強め、悠久の平和を目指そうとした、と。まぁ目指すだけなら当然好きにしろ。でもな?」
ぐっと声を低くすると、正座した王子の耳元で、兄は囁く。愚かで傲慢な召喚者の耳の奥に届くように、溢れそうなほどの怒りを抑えた口調で囁くのだ。
「勝手に人の妹を召喚して帰す方法もなく、無理矢理 娶るっつうのは、こっちの世界じゃ誘拐拉致監禁って言うんだよ、ボケが」
真っ青ななんちゃら王子は、耳元で低く怒鳴られ、背筋も凍るような冷たい目で睨み付けられて息も絶え絶えという様子である。
パパにも殴られたことが無いかも知れない王子様にとってはきっと初めての経験だろう。可哀想に。
再度なむなむ、と手を合わせる私に、ちらりと葵お兄ちゃんが目を向けた。
あ、やばい。
「蓮香」
「はい! あなたの妹、蓮香です! 葵おにいさま!」
素直に返事をしたというのに、兄の目はニィと細くなった。え、あっれー!?
「蓮香の説教は後だ。俺はこいつの今後についてちょっと話がある。いい子だから、先に帰ってろ」
「はーい!」
素直に素直に頷いた。逆らいません可愛い妹なので。
縋るような青年の瞳に心が痛みはした、が。
「蓮香は、勝手に召喚しようとした人のことなんて知りません! お兄ちゃんの傍から離されるなんて恐ろしい! 先におうちに帰ってます!」
大事な我が身を守るために、見捨てた私は外道なのです。ごめんなさい。
そんな私の反応に、満足したのか兄は鋭い目を緩めて頷く。ぼきりぼきりと両手をならすと、オトコの話し合いという名の殴り合いが再度始まるようである。
私はもう一度両手を合わせると、なんちゃら王子が死にませんように、と祈った。
勿論王子の身を心配したわけじゃないよ! 葵お兄ちゃんが人殺しになったら嫌だからね!
ほんの一時間ほど前に、私は異世界召喚されそうになった。
輝く身体に、途切れそうな意識。地面が消えてしまうような感覚を味わった。
私が異世界に飛ばされかけたときに、兄が消えかけた私の手を掴み、無理矢理引っ張り戻した。
召喚術は破壊され、代わりに召喚しようとした異世界の人間が逆に地球に飛んで来てしまったようである。
そして飛んできた王子を、まずぶん殴った上で兄は尋ねた。
「目的は何だった?」と。
王子は当然応戦した。
「何をする貴様、無礼者め!」
剣を引き抜いて構えたし、無造作に近寄ってくる兄に向かって剣を振り下ろした。
でも無駄だった。
兄は剣を片手で止めると、遠慮も手加減もなく、王子の腹に拳をめり込ませた。
あ、手加減はしたかも知れない。前、別の人をぶん殴ったときにはその人の腕折れちゃったとか言ってたもんね。そんな勢いで殴ったら内臓破裂である。そしたらさすがに王子もあんな風に話せまい。
腹を押さえてのたうち回る王子の襟首を片手で掴んで持ち上げると、葵お兄ちゃんは私に視線を向けた。
猫のようなつり上がった目が、一瞬だけ細められる。私は頷くと目を瞑って耳を塞いだ。
今からこいつを精神が折れるまでぶん殴るからお前は目を閉じてなさい。だそうです。
こわいこわい、お兄ちゃんこわい。
そうしてしばらく経った頃に、別人のように従順になったなんちゃら王子は、素直に異世界召喚の目的を話したのである。
そんなお兄ちゃんを兄に持つ私は、平凡な女子高生である。と思いたい。
「ただいまぁ、お腹空いたー」
「お帰りなさい、蓮香さん。ご飯出来てますよ」
玄関を開けると、私を微笑んで出迎える人がいた。エプロンをつけた銀髪の青年リーガルさんだ。
異世界の魔法使いだけど、筋肉の逞しいマッチョな人である。その世界では魔法使いは何故か体育会系らしい。魔法使わずに素直に拳で殴ればいいんじゃないかと思う私がいる。
リーガルさんの後ろには眼鏡の青年がいた。夕飯の支度を手伝っていたのだろうか。キートさんは研究肌だから料理は得意そうなんだけど、細かいんだよなぁ。切った人参の長さが一緒じゃないと、黙々と統一させるために切り続けるとかさ。もうみじん切りだよそれ。
「レンカ殿お帰り。アオイ殿は?」
「お兄ちゃんは説教中ー」
軽く答えると、驚いた表情でキートさんは目を丸くした。
「またか。レンカ殿が召喚されかけたのか?」
「うん」
こっくりと頷く。最近は全然召喚されることもなく平穏だったのに、久々の出来事に私も驚いた。
リーガルさんは全く似合わないピンクのエプロンを翻して、お茶碗やお箸を運んでいる。彼の手にのっているお茶碗って、おちょこみたいだなぁといつも思う。
「今度はどこの世界からの人なんですかねぇ」
「わかんなーい」
意図的に深く関わるまいとしている私は、適当に答える。台所で鍋のふたをあけると、美味しそうな煮物が見える。
「わーい、肉じゃがだぁ」
「こら、レンカ殿。つまみ食いはダメだ」
「しないよぉ、キートさん」
夕飯は時間通りに全員揃って食べるべし、とするキートさんの小言を食らいたくなくて、つまみ食いをしようとした手を引っ込めた。
「お兄ちゃんが帰ってきたら一緒に食べるんだもん」
「また異世界の男が増えるのか。部屋足りるか?」
あまり広くない家だが、現在一人一室は貰えている。一階にはリーガルさんとキートさん。二階は私とお兄ちゃん。
なお、夜中に私が寝た後、二階に上ったら死刑らしい。よく分からないけれど、リーガルさんもキートさんも、玄関から猛獣が襲ってきたとしても絶対に二階には逃げないと宣言している。
「わかんないけど、増えないかもよ。今回の人は私を花嫁として召喚しようとしたらしいから、どこかの女の人と強制的にお見合いさせて、結婚させるつもりかも?」
なんちゃら王子はイケメンなので、相手も喜びそうだ。まあ、素性は不明だがそこはお兄ちゃんがなんとかするだろう。意外と顔の広いお兄ちゃんならさっさと見合い相手を見つけて叩き出すくらいはしそうである。
「……さすが葵様。恐ろしいです」
ぼそりとリーガルさんはつぶやくと、マッチョな巨体を縮めるようにして震えた。彼は素手で熊と戦闘させられた。私を魔王を倒す勇者として召喚をしようとした人である。
「……アオイ殿は容赦ないからな」
視線を移ろわせて、キートさんが頷く。キートさんは実験での異世界召喚を行ったため、実験という名のお兄ちゃんの料理を毎日食べさせられていた。あれは食べ物ではなかった。兵器だった。
「そのうち王子様を連れて帰ってくると思うから、私は宿題してくるね」
二人に言って部屋に向かうと、ふと二階の窓から外を見た。
そこにはポケットに両手を突っ込んでゆっくり歩く兄と、その前を蹴飛ばされるようにして歩く先ほどよりボロボロの状態のなんちゃら王子がいる。
召喚されかけること十数回。そのたびに兄が飛んで来て、召喚拒否をして代わりに相手を引き込んでいる。
あれは何者だと聞きたくもなるが、聞いてはいけない。
唇を尖らせるようにして、小さく呟いた。
「あれは私のおにーちゃんです」
とりあえず、それでいいのだと思う。
「おかえりー、お兄ちゃん!」
窓を開けて、外に手を振ると、兄は笑ってこちらに手を振ってきた。
地球の夕日は、兄の顔を赤く染めていた。