五話 因果応報
四歳の誕生日の翌日は、いつもと変わらない心地よく清々しい朝だった。
俺は例の如くバケツに水を汲み、せっせと自室に運んでいる。
「すまんな、ヒナ。手伝って貰って」
「メイドですから!」
そう答えて、俺と一緒にバケツを運ぶ専属メイド。
昨年、頭に水を落とした事はすっかり忘れてしまっているらしい。手伝って貰っておいてなんだが、ひょっとしてこの子は結構頭の弱い子なのだろうか。
などと失礼な事を抜かしつつ、俺はバケツ片手にドアを開いた。
開いて、固まった。
「あ……お邪魔してます」
ペコリと頭を下げるのは、とぐろを巻いた目つきの鋭い大蛇。
「あ、はい……はい? ヒナ、バケツ」
「どうぞ」
手渡されたバケツを逆さまにして、頭から水を被る。
どうやら夢ではないらしい。頭を掻きながら人差し指を立て、床と髪と服に染み込んだ余計な水分を剥ぎ取る。
そこだけ無重力になった様にぷかぷかと浮かぶ水玉を、バケツの中へ放り投げた。
風呂上りにこれをすればすこぶる手間が省けるのだが、日常生活で魔力はあまり消費しないようにしているので、バスタオルを被ったまま部屋に戻ってくるのが常である。
「あの、どちらさん?」
ギラギラと輝く白い鱗に、天井スレスレの位置にある頭。
威圧感たっぷりの大蛇さんに訊ねてやると、奴は目を細め舌ちろちろ出しながら、頭を俺たちの方へ近づけて来た。寄るな恐い。
どうした物かと隣のヒナに目を向けると、いつの間にか床に倒れて気絶していた。頭が弱い上に小心者か。困ったな。
「私は、クリオルの森から来た、レイエムと申します。以後、お見知りおきを」
出来れば忘れたいです。
なんて言える訳もなく、俺は苦笑いで「はい」と答えた。
「ふむ……見た所、まだかなり幼いと見えますが……子供たちの呼びかけに答えて下さったのはあなたですか?」
「……呼びかけ?」
何の事だか分からない俺は、首を傾げて問い返す。
「覚えておられませんか? いやしかし、あの鳥に含まれていた魔力は、確かにここから感じられたのですが……」
「鳥? もしかして、水で出来た白鳥の事?」
「白鳥というのですか。私はあんな鳥は見た事が無かったので、どう形容したら良い物かと……」
この世界には白鳥がいないのか?
それとも、この地方に限られた話しなのだろうか。
俺はとりあえず、倒れてしまったヒナを部屋の中にひきずり、見られては不味いので扉を閉めた。
「ま、まあそれは良いとして、その鳥が何か?」
もしかして、何か粗相をして報復に来たのでは。
そんな不安を抱きながら、ベットの上に座る。
「はい。もうどんなお礼をすれば良いのか……」
巨体が部屋の中を滑る。恐らく、体を起こせばヴァーランの頭を越えるだろう。
「お礼?」
「はい。あの鳥がいなければ、私は既に命を落としていました……」
「ちょっと話が見えないな。その鳥は、君を助けたのか?」
「ええ。もうダメかと思った所に、あの鳥が現れたのです」
俺は腕を組みながら、ますます靄の掛かった話の筋に頭を傾げる。
あの水白鳥に何かを命じた覚えはない。
作ったら勝手に飛んで行っただけで、今こうして話題に挙げられるまで、すっかり忘れていたくらいだ。
「出来れば、詳しく聞かせて貰いたい」
そう訊ねると、彼(彼女?)は小さく頷いて、語り始めた。
曰く、俺があの白鳥を飛ばした日、森で今までにない記録的な大災害が起こっていたらしい。
森に住む多くの野生動物たちは息絶え、彼もまた、瓦礫に埋もれて他の動物同様に虫の息だった。
だから、その日森で何が起こったのかは、具体的に分からなかったのだとか。
「突然の出来事でしたから……私は温存していた魔力を使い、子供たちを護るのだけで精一杯でした」
子供たちって云う事は、やっぱり女性なのかな。
それはさて置き、そんな、もうダメかと諦めかけた所に現れたのが、俺の作り出した白鳥だった。
彼女が言うには、白鳥は自身に内包していた魔力を、彼女に全て分け与えたらしい。
「ん? おかしな話だな、肌が合わないと思うんだが」
「最初は私も不思議に思いました。普通、他人の魔力には拒絶反応が起こりますから」
だから、魔力の塊を作り出し、攻撃するなんて魔法が存在しているのだ。酷く燃費が悪いが、対人魔法としてはかなり有効だ。
よって、他人の魔力を自分の魔力に換える等、不可能に近い。
全て辞書の受け売りだ。
「兎に角、私はあなたの温厚な意思により、救われたのです!」
「は、はあ……」
まだ四歳の身として、ずいずい近寄ってくる大蛇の頭には恐怖心を抱かずにはいられない。
幾ら精神が成人しているとは云え、差があり過ぎる。
「何かお礼を!」
「分かった、分かったから少し静かにしてくれ。それと、近い」
「も、申し訳ありません……」
奥の方へ下がるレイエム。
そう云えば、子供たちとやらはどこへ行ったのだろうか。
森に置いて来ているとか? だとしたら、一刻も早く帰って上げて欲しいのだが。
「いえ、子供たちは既に自立しています。我々は群れませんから」
「ああ、そう」
「そんな事より、どんなお礼をすれば宜しいでしょうか。気に入らない相手がいれば噛み千切りますし、私兵になれと言われれば大人しく貴方の配下に加わります」
そう言って頭を下げるレイエム。
これはかなり魅力的な話だ。こんな大蛇を従えれば、将来どんな敵とあいまみえようとも、大概は怯えて逃げてしまうだろう。
所謂、努力が実ったという奴なのか。少し違うような気もするが。
だが……。
俺は一度咳払いをして、腕を組む。
「レイエム。すまんが、俺はお前に、そんな奴隷紛いの事をして貰おうとは思っていない」
「? 生贄にでもするつもりなのでしょうか?」
こいつは人間に対してどんなイメージを抱いているんだ。
「いや、そんな物騒な儀式を執り行う予定もない」
「ではどうするおつもりですか? あなたに救って頂いたこの命、既に子育ても終わった故、あなたの為に使う以外道は残されていません」
蛇ってのはこんなにも律儀なのか。
段々近寄ってくるレイエムの頭を押し退け、ベットの方へ移動する。
「正直、俺はお前に、大人しく森へ帰るなり何なりして、自由に生きて貰いたい」
「そんな!」
声がデカイ。
指摘すると、彼女はしゅんとした様子で引き下がった。
本当に優しいんだな、レイエムは。
多少、やり過ぎ感が否めないが。
「どうしてもって言うなら、俺が本当に困ったりした時に、助けてくれると嬉しいな。それ以外に、今の俺に望みはないよ」
「……宜しいのですか?」
「ああ、こんな所まで来てくれて、有難うレイエム」
「…………あなたがそう言うのなら、そうします」
彼女は暫し俯いた後に、くるりと振り返って、開け放たれたベランダの方へ向かった。
「…………そうだ! これをさし上げます!」
再度振り向き、俺の方へ寄ってくる。
急にドアップは流石に厳しい物があるぞ。
「……何だコレ?」
パックリ開いた大口の中。赤く細い舌の上に乗っかっていたのは、テニスボールくらいの大きさをした、紫色の宝玉だった。
「私の命珠です」
「命珠?」
恐る恐る手に取りながら、首を傾げる。
何だソレは?
初耳だな。
「我々魔物と野生動物とでは、決定的な違いがあります。分かりますか?」
それは知っている。魔力の有無だ。
野生動物は魔力を持たず、姿形も家畜等とそう変わらない。
魔物は魔力を持ち、その身は魔力による影響で、通常の生態系からはかけ離れた存在だ。
魔力の有無で姿が同じ種族はただ一つ。人間だけだ。
「その魔物が魔力を有している理由は、己の体内で常に魔力を精製しているから。
そして、その魔力を精製する源が、この命珠なのです」
因みに、人間が魔力を精製する仕組みは、まだ分かっていないらしい。
だから、魔法を使えない人間と使える人間が存在しているのだ。
色々と始めて聞いた。これで一つ、役に立つ知識が増えたな。
それだけでお釣りを返したい気分なのだが……。
「それをあなたが持っていれば、私が得る筈だった魔力が、あなたへ供給される事になります」
「俺に? でも、さっき言った様に他人の魔力は……」
あれ?
でも、触っていても何の変化もないな。
もし彼女の言う通り、この命珠とやらが俺に魔力を注いでいたとしたら、言い様のない刺突されたような痛み(辞書から引用)が、全身に走る筈なんだが……。
「私とあなたの相性が良いのか、それとも、もしかしたら…………」
黙り込むレイエム。何だよ、そこで止めるなよ怖いな。
「いえ、お名前をまだ……」
「ああ、カノンだ。カノン・ラル・マナード」
「マナード、ですか……?」
驚いたように目を見開きながら、復唱する。
何だ、へびにらみか? 俺の住処はボールじゃないから、マヒはしないぞ?
どうしたと訊ねると、彼女は微笑しながら首を振って、再度こちらを向いた。
「カノン様は特別なのかもしれませんね」
確かに母は大物っていうか、玄人っていうか。
兎に角、親の七光的な物は、この先ありそうなイメージだ。
話を戻そう。
「でも、貰って大丈夫なのか? 魔力の源って言うくらいなんだから、絶対マズイだろ」
「別に魔力がなくとも、生活に何一つ不自由はありません」
「む、むう……なら、預かっとこうかな」
「…………それが傷付けば、私も痛いですけど」
「ちょっと待て」
今、凄く聞き捨てならない台詞が聞こえた気がする。
「つまり、一心同体って事か……?」
「嫌ですねぇ。もしそんな危険な事になるとしたら、渡したりしませんよぉ」
ニコニコ笑いながらそう告げる、大蛇レイエムさん。
嘘ですって顔に書いてあるのは明白だが、どうにも返すと言って受け取ってくれそうにはないので、仕方なく手の中に納めておくことにした。
全く。命知らずって云うか、他人を信じ過ぎだ。
「だって、裏切らないでしょう、カノン様は?」
「何でそう決め付けてるんだよ。そうとは限らないだろ?
初対面の人間をそうやって信じるのは、純粋じゃなくて【無謀】って言うんだぞ」
「話しただけで分かりますよ。私、蛇を見る目があるってよく言われるんです!」
俺は人間なんだけど、そこまで言うなら仕方ないか。
何より、ここまで根拠のない信頼を寄せてくれる相手を、無下に扱う訳にもいくまい。
「それでは、今度こそ失礼致します」
「ああ、気をつけて帰れよ」
「あ!」
「まだ何かあるのか……?」
またいきなりドアップ。もう止めてくれ。
まじまじと俺の全身をくまなく観察した後、彼女は目を細めながらぽつりと呟いた。
「カノン……ちゃん?」
「君だ」
魔物との初対面は、そうして幕を閉じた。
中々ショッキングって言うか、それなりに衝撃的だったな。
でも、もう俺の魔法が誰かの役に立ったんだって思うと、少しだけ嬉しかった……気がする。
** * *
静寂の夜。
まだ明かりの点いた家はあると思うが、十時半という時間帯になると、少なくともウチの屋敷は真っ暗になっていた。
それは紛れもなく、幼い俺に対して気配りを絶やさない母による物で、その時間までには必ず仕事を終わらせ、他の支度も済ませ明かりを消す。
そこまでする必要があるのか疑問だが、それでも、単に思ってくれているのだと考えると、嬉しくて文句や不満を募らせた事は一切無い。
「母さん……」
「なあに、カノン?」
「暑苦しい……」
そんな、無駄に広い部屋の無駄に大きなベットの上で、無駄にくっついて横になっているのが、俺たち親子である。
ガッチリ抱き締められた俺は、ロクに動くことすら出来ない。
彼女が眠ってしまった所を見計らって、抜け出すのが毎晩の作業である。
「ふうん? なら、氷結魔法を使って氷を作ろうか?」
「そういう問題じゃなくてさ……」
母は空気中の水分を操る事が出来る。
というより、普通は水魔法は空気中の水分を捕らえ、液化させるのが初段階だ。
しかし、その技術をすっ飛ばし、水流操作や他の属性魔法に感けていた俺には、どうにも水を作り出すという作業が出来ないでいる。
だからいつもバケツ運びを、ヒナに手伝わせているのだ。
理由はさっぱり分からない。何というか、感覚が全然掴めない。
魔導書には、液化魔法は水魔法でも、すこぶる簡単な容易な魔法……と記されていた。
俺からして見れば、妨害されている風魔法以上だ。成功例がないからな。
顔に柔らかい何かが押し付けられる。
更に強く抱きしめられた事を悟り、呼吸ルートを確保する為に上の方へ体をずらす。
前世の俺なら、ここで全身から変な汁を出しながら喜んだ事だろう。
だが、彼女は母だ。そういう対象に見るには、少々厳しいと言うか……。
何より、こちらの世界に来て、そういう欲求が全く感じられない。
まだ子供だから当然か。そうだな、子供だしな。
「そういえば、母さん。髪はいつ切らせてくれるんだ?」
このままでは、そろそろ真面目に女としてしか見られなくなってしまう。
性別を超えたいという願望、俺には無いのだが。
「いいじゃない、可愛いんだし!」
「でも、俺は男なんだけど……」
「大丈夫、どうしてもって言うなら、お母さんがカノンちゃんに変えて上げるから!」
全身に走る悪寒。
柔和な声と温厚な笑顔。しかし、その台詞は俺にとって死刑宣告に等しい物だった。
そして同時に、この人なら本当にやりかねないという不安も抱きながら、俺は一切の文句から身を引くのだった。