三話 いつの間にか魔導士
気候の安定したこの国では、日本のような四季は無いが、年中春のような丁度良い気温に包まれている。
そんな、雨季以外なら絶好の昼寝日和が続く【ガーバウス王国】に暮らし始め、一年という月日が経過した。
これまで行って来たのは、主に文字の読み書きだ。メイドや母の目を掻い潜りながら本棚に向かうのは少々手間だった。ベビーベットの柵を自分で外し、上り降りを行う。
まだ幼いこの体では、それだけで体力的に厳しい物がある。傍から見れば異様な光景なので、可能な限り迅速に移動を行わなければならないからな。
それにしても、一つだけ不思議に思う事がある。
母が俺の髪を中々切るように言ってくれないのだ。それどころか、夜一緒に寝る時、長く伸びた母譲りの髪を、もっと伸びろと言わんばかりにサラサラと撫でていたり。
一応言っておくが、俺が男である事はしっかり確認済みだ。この部屋に鏡は存在しないので、髪がまだ肩に届いていなかった頃から、自分の顔は見た事がない。
ちなみに、今は腰辺りまで、その水色の髪は伸びてしまっている。重くて敵わない。
さて、そんな俺のささやかな悩みはどうでも良いとして、最近新しく始めた事がある。
魔法だ。魔導士という称号がある事から、この世界に魔法が存在しているとは知っていたが、中々その練習には在りつけなかった。
それもその筈。なんと言ったって、俺は今日、この日まで文字を完璧にマスターした訳ではなかったのだから。
いや、絵本等に書いてあるような、この世界における常用文字ならば、十ヶ月程前に把握した。
しかし、いざ魔法に関する書物。つまり、魔導書を手に取り中を開くと、そこには見た事もない文字のオンパレードで、パラ見した後にすぐさま閉じて本棚に戻してしまった。
その後、直ぐに他の書物を漁り、遂に鈍器のような重量ほ誇る、言語関係の本を見付け出した。
先の魔導書に記されていた文字が【魔導文字】という名の、通常の文字とは別種の物なのだと、俺はそこで初めて知った。
二冊を横に並べて、魔導書を翻訳しながら読み進めるというのも考えはしたのだが、それは面倒を後回しにするだけであって、結局は学校か何かで学ぶ羽目になるのではないか。
そう考えると、その文字を学習するのに専念した方が得策だと思い、今に至る。
常用語より時間が掛かったのは、魔導文字が常用文字の倍以上数があり、かつ、この辞書が古いのか、解説の載っていない文字が存在していたからだ。
まさか全て暗記できるとは思ってもみなかった。流石子供という奴か。
そういえば、最近日本語の方が曖昧になってきた。
頭の中で思考する際にも、こちらの世界の言語を使うようになったのが原因だろうか。どちらにせよ、もう日本語を使う事もないだろうし、別にこのまま忘れたって構わない。
「さて、今日から魔導書解読だ!」
意気込み、回らない舌を必死に動かしながら、魔導文字辞書より少しサイズの下がる書物を開く。
前世の俺なら、こんな文字だかけのページを見ただけで、もう目が眩んで放り投げていただろう。好奇心というのは人を変えるのだ。
「魔法を使うのに必要なのは……」
魔法を使うのに必要なのは、その魔法に自分が意味を持たせる事。そうしなければ魔法は世界に出力されず、魔力だけがアースにぶつかったように、体内から外界へ漏出してしまう。
若干地球風に言い換えてあるが、大体書かれている事はそんな感じだ。
「意味を持たせる。意味? 頭の中でイメージしろって事か?」
パッとしない解説だな。
まあ、とりあえず物は試しだ。
最初はサッパリ分からなかった文字群も、今では一字一句完璧に読み取れる。。
どうだ貴様ら解読してやったぞ、と意味の分からない悦に浸りつつ、パラパラとページを捲る。
「明りの魔法……これが丁度良いかな」
頭の中で、常用文字とは異なる魔導文字を、静かに発音にする。
《我を照らせ》
……………………。
何も起きない。少し身体から力が抜けたような、そんな感覚に襲われる。
これが魔力の消費という奴か。結構キツイな。これだと、あと一回くらいが限界だぞ。
気になって【魔力】の解説に目を通した所、魔力は使用者の鍛錬に比例して大きくなるらしい。体力作りの走り込みみたいな感じか。
気合いを入れて再チャレンジ。今度は頭の中で、人差し指の先から淡い光が出るイメージを浮かべる。
《……我を照らせ》
暫し遅れて、イメージ通りに指先から小さな光が現れた。体力的に、これ以上の魔力消耗は厳しい。
それはそうとして、かなり小さいな。こんなんじゃ、蝋燭を持っていた方がまだマシだ。
溜息を漏らし、指先を眺める。どうやって消すのだろうと頭を悩ませ、頭の中で「消えろ」と意識すると、勝手に消滅した。
そろそろメイドが昼食を運んで来る時間帯なので、これにて本日の魔法のお勉強は終了だ。少々名残惜しいが、俺にはまだまだ時間がある。焦らずとも、じっくりこつこつとやればいいだろう。
ベットに上がって、柵を立てる。
にしても、明かりの魔法二回分でガス欠か。先が思いやられるな。
昼食を持ち、部屋に入って来た新人メイドを横目に眺めながら、俺はやれやれと肩をすくめるのだった。
*
「あれ?」
赤絨毯の敷かれた高級そうな部屋の中に、少女の些細な疑問の声が浮かんだ。
彼女の名はヒナ・メルバ。まだこの屋敷に勤め始めて一ヶ月と満たない、新人である。
それも、歳は十三とかなり若い。常識的に、まだ両親の保護を受けていなければおかしい年齢だ。
そんな彼女が、何故この屋敷でメイドとして働いているのか。一言でいえば、二ヶ月前に王国全土を襲った、大嵐が原因である。
彼女の実家は、この【王都ガーディランド】より東にある、海沿いの【港町ポートウォル】だ。
海と隣しているというだけあって、当然、町本体の主な収入は漁業に占められている。それは下で働く者達にも言える事であり、個人の収入もまた、漁業に大きく依存していた。
そして二ヶ月前の大嵐。もうお分かりであろう。
町が大きな打撃を受けた理由は、四つ在った巨大船舶の内、二つが今回の嵐で半壊してしまったのが原因だ。
港町は外交の航路も担っている。故に、航行へ割く船舶を考えると、漁業に出すことのできる船は、一隻のみとなる。
町の景気が悪くなったと同時に、下で働いていた者達の暮らしも落ち込んでいった。ヒナの家も同様に。
ご飯は一日二食。それもご飯一杯満足に食べられない。育ち盛りの彼女にとっては厳しくもあったが、我慢せねばならないという自制心もあり、ヒナは何も言わなかった。
しかし、まだ幼い弟は違う。お腹が減ったと泣き喚き、ヒナにすがって来る毎日。
両親もどうしたモノかと頭を悩ませているのを見て、自分でも働ける場所を探そうと町を歩き始めた。
しかし、まだ子供だからという理由で、働き口は中々見つからない。
遂に十件目の御断りを受けた時、この屋敷の主が現れたのである。
「あなた、そんなに働きたいの?」
後はトントン拍子に進んだ。家からは離れる事になるが、住み込みで働いても良い上、三食も保障するという破格の職場で働かせて貰える事になったのだ。
そして今がある。
一ヶ月に一度入る給料は実家へ仕送り。町からも船の修理が進んでいるという報告があり、何とか立て直している様子。
そんな中、ヒナが任せられている仕事は、主人の息子であるカノンの世話係だった。
まだ仕事に慣れていないという事もあり、今は一つのみしか任されていない。カノンが寝たりしている際には、合間を縫って先輩メイド達に業務を教えて貰っている。
一通り仕事を学び終えたら、他のメイド達と同じ仕事に取り掛かる様になるらしい。
彼女は、今の生活に満足していた。自分で働き、収入を得て、家族の力になっているというのが嬉しいのだ。
弟の子守だけが心配だが、心配せずとも大丈夫と言い送り出してくれた母の顔を思い出し、今は熱心に仕事へ打ち込んでいる。
そんな、ある昼時の事。
「本が一冊はみ出てる……カノン様、じゃないよね。サーラ様かな?」
こんな赤ん坊が、凶器になりそうな分厚い本等に、興味を向ける訳がない。
少し気になって近寄り、本を引っ張り出す。開いて目に飛び込んで来たのは、全く理解できない文字羅列だった。
「うわっ……これ、魔導文字かな……全然分かんないや」
魔導士が魔法を使う際に口にするのが、古代文字とも表現される【魔導文字】である。
(凄いな、これ最新版だ。それでも、まだ解明されてない文字もあるんだよね……)
パラパラと辞書を捲り、サボっていてはいかんと、本を閉じて本棚に押し戻す。
魔導文字は、例え発音だけを知っていたとしても、その意味を頭で理解していなければ意味がない。
故に、辞書でチラッと見て、適当に呟いたとしても、魔法は作動しないのだ。
(サーラ様はやっぱり、魔法が十種類くらい使えたりするのかなあ……五種類扱えたらもう魔導士っていう位だし……)
そんな事を胸中で独言しながら、運んできた昼食をテーブルに並べるヒナであった。