二話 言語と読解能力
俺が新しい自分を意識して、実に二ヶ月という長い月日が過ぎた。人によってはそこまで長くはないのかもしれないが、ほぼ一日中寝たきりだと苦になるほど暇で、時間の流れが非常に長く感じられてしまう。
例えるならば、嫌いな授業の時間進行速度だろうか。
授業と言えば、この一ヶ月で気付いた事がある。俺がこちらへ来たのは高校生活三度目の夏休みだったのだが、今の俺は過去の記憶が酷く希薄になっている。
両親の顔と名前くらいなら何とか思い出せるが、それ以外の事となるとサッパリだ。
精々、修学旅行の一片を思い出せる程度で、それもクラスメイトの顔と名前が一人も思い出せないから、不気味な映像として頭の隅に残っている。
恐らく、この体へ移動する際に切り捨てたのだろう。思い出全てを持って来ては、赤ん坊の脳はパンクしてしまう。まあ、それは俺の勝手なイメージで、真実はどうなのか知れないが。
「失礼します、カノン様」
いつもの時間になると、メイド服を着た中年の女性が二人、少量の昼食を持って部屋に入ってくる。部屋を見て何となく分かってはいたが、母は地位の高い多忙な人間らしく、あまり一緒にはいられない。
父は見た事がない。どういう人間なのかも、母も口にしようとしなかった。
しかし、一週間程前に、メイド達が雑談で一度だけ「御当主」という単語を口にした事があった。その会話から推察した所、恐らく俺の父と呼ぶべき男性は、既にこの世の人ではなくなっているようだ。
この語り様から分かる通り、かなり大雑把ではあるが、俺はこの世界の言語を理解している。
赤ん坊の記憶力には驚嘆するばかりで、コンピューターでデータを保存するように、聞いた言葉を覚える事ができるのだ。
後はそれの使いどころを理解するだけで、知識として己の頭に取り入れる。
それが、この二カ月という長い時間の間、俺が積み重ねて来た作業である。
「それにしても、母親が【竜魔騎士】というのは、子供から見たらどういう気分なのかしらねぇ」
(竜魔騎士……?)
赤子用の小さな椅子とテーブルに座らせられながら、始めて聞く単語に聞き耳を立てる。
「やっぱり、親には危ない目には遭って欲しくないんじゃないかしら。あんなに愛を注いで貰っているんですもの」
彼女らの言う通り、母である《サーラ・ミル・マナード》は、俺に対して並々ならぬ愛情を与えてくれている。
正直、俺も子供として、人間としても彼女の事は大好きだ。仕事の合間を縫って会いに来てくれると、いつも心が躍り嬉しくなる。
「竜魔騎士……奥さまはどう思っておられるのかしら。この子にもその道に進んで欲しいのかねえ……」
「それはないでしょう。現場の仕事が如何に危険か、サーラ様自身が一番分かっておられる筈よ」
危険。その言葉を聞いて、俺は口に入れられたパンを噛む口を止める。
今まで、母がいつも忙しそうにしているのは、デスクワークの激しい管理職の様な物に就いているからだと思っていた。
しかし、竜魔騎士という名称から、それが間違いだった事に気付く。彼女が身を置いていたのは、どうやら椅子の上ではなく戦場だったらしい。
いや、まだそう決め付けるのは早い。俺はぱくぱくと昼食をたらいあげると、赤ん坊の真似声を出しながら、メイドの方を向いて本棚に指を差す。
惨めだが仕方あるまい。メイドさんはやれやれと苦笑いしながら、俺を抱き上げ床に降ろしてくれた。既にマスターしたウォーキングスキルを使って、床の上を歩き本棚へ向かう。
幸い、目的の本は一番下の段にあるので、メイドの方々に苦労を掛けずに済む。俺が手にしたのは、地球でいう所の辞書だ。分かり易く絵までついている。
(竜魔騎士、竜魔騎士、と……)
因みに、文字は母が長い事、毎晩絵本を読み聞かせてくれていたので、読むに関して問題はない。
いつもはメイドの前でこんな事はしないのだが、今日は特に雑談に熱中していらっしゃるので、万遍なく好きなだけ辞書を引く事が出来る。
流石に、まだ一歳にも満たないような子供が、黙々と真剣に辞書と睨み合いをしていては異様だからな。
ああやって、彼女らが話に花を咲かせていたりすると、俺は時々このように本棚の一番下にある辞書群にメンチを切っている。
母が子守唄の如く読んでくれる絵本で学んだ事を、こうして復讐しているのだ。一般常識は可能な限り身に着けておかないと、何となく不安になるからな。
それはそうと、竜魔騎士だ。一体どんな職業なのだろうか。
五十音順の目次からその単語を見付けだし、慣れた手つきで指定されたページを開く。
(これか……何々……)
辞書曰く、竜魔騎士というのは、簡単に言えば三つの栄誉的称号を掛け合わせた物だ。
特に優秀な戦果、成果を上げた者に与えられる【騎士】
竜を従え、共に戦う事の出来る【竜騎士】
そして最後に、熟練魔導士から認められた証である【魔導士】
それらを纏め、その者が如何に優秀であるのかを一言で表す為に生まれたのが、竜魔騎士という称号らしい。
(語呂悪いな……まあそれはいいか)
要するに、俺の母は想像以上に位の高い人間らしい。
確かに、何度か彼女に抱かれ、屋敷を見て回った事がある。その際に一回だけ、庭に佇む首の長い竜を目にした。
その時の俺の感動と言ったらもう、口や文字では表せないほど大きく、衝撃的だった。
赤ん坊になって前世の記憶が殆ど無くなっても、やはりその手の物を好む傾向は薄れていなかったらしく、それを思い返すだけで二週間時間を潰すことが出来た程だ。
「さて、カノン様、そろそろベットに戻りましょうねー」
背後から聞こえて来た声に反応し、俺は慌てて本を閉じ、元の場所へと戻した。
くるりと振り返り、両手を上げる。
「この子は本当に聞き分けの良い子ねー」
「そうね。時々、中に大人が入ってるんじゃないかって思っちゃうくらい、よく言う事を聞いてくれるわ」
(大人じゃないけど、良い勘してるよ)
少なくとも、中に入っているのは赤子ではありません。
そんな風に心の中で呟きながら、俺は相変わらずベビーベットに寝かされるのだった。