一話 轢死後誕生
俺はこの地球という星での暮らしが好きだ。
ついでに言うと、地球自体も結構好きな方だ。向こうはそうでもないと思うが。
普通の幸せそうな家庭に生まれて、特に事故もなくすくすく育ち、七五三の写真を見たりして時々笑う。
中学は流れるように進み、普通に最寄りの高校へ進学。その後は適当に大学へ行って、普通の企業へ就職……の予定だった。
特に面白味もない人生だと馬鹿にされるだろう。俺自身そう思っているのだから間違いない。
それでも、その当たり前のような生活が過ごせない人も、この世界には存在しているのだ。だから俺は、今の自分が十分幸せだと思っていた。
でないと、この上なく勿体ないから。
重りの如く圧し掛かる日差しの下、蝉の声に掻き消された車のクラクション。宙空を舞う自分の体。
その事実を悟った瞬間、急に俺の意識は音を立てて、ボロボロになった身体から剥がれていった。
*
また目を覚ました。同じく白い天井の下で。
(え、何コレ?)
同じ光景に呆れて目を閉じようとして、俺は即座に止めた。
先程意識を手放す以前に見た天井は雪のように真っ白だったが、現在視界を埋めている天井は若干色あせているではないか。
これはどういう事だと身体を起こそうとするが、当然そんな事が出来る訳もなく、体に力も入らない。
事故直後なのだから仕方ない。そんな風に頭を掻く。
(あれ、手が動く?)
ぽりぽりと音を立てる頭。左手も同様に動く事に気付いて、両手を自分の頭の上に持ってくる。
しかし、そこに在るのは見覚えのない、マシュマロのような白い腕だった。
(指は動くし、確かに体と繋がっているな……見た所、天国地獄って訳でもなさそうだし)
そんな風に手を閉じたり開いたりしていると、突然扉を押し開く音が部屋に響いた。反射的に両目を閉じ、寝たフリをしてしまう。
「あら、おやすみ中かしら?」
耳を撫でるような、優しい女性の声。さぞかし美人さんなんだろうな、と右目だけ薄く開く。何を言っているのか分からないが、それでもその声はとても心地よかった。
直後、体が妙な浮遊感に襲われた。頭と背中に回された何かにビックリして、思わず両目とも開けてしまう。
「あ! ごめんね、起こしちゃって。よちよち」
あやし言葉で語りかけるその女性は、人目見て分かる程に美しかった。ストレートの綺麗な水色の髪に、宝玉のような青い瞳。
自分が抱き上げられている事に気付いたのは、彼女に熱烈な頬ずりを受けてからの事だった。
状況を整理しよう。
俺は横断歩道を渡っている所を、Uターン車両に跳ね飛ばされ死亡した。そこまでは何となく覚えているし理解できる。
しかし、一度意識を失い目が覚めると、そこは少なくとも病院とは異なる天井で、両腕はまるで赤ん坊のように短く細くなっていた。
そして、この頬ずりをしてくる美人な女性。
「ん~! ママはすっかりあなたに夢中よ~……」
なんとなく、俺は悟った。
病院からここまでの経緯は不明だが、恐らく俺は彼女の股の下から出て来たのだろう。
失礼、言い方が少々下品だった。つまり、彼女の俺に対する接し方から察するに、俺は彼女の息子で、現在赤ん坊としてこの世に生を持っている、という事だ。
喉から声を捻り出しても、確かに赤ん坊のような単純な、言語とは程遠い物しか口にできない。
「失礼致します。サーラ様、そろそろ会合の御時間です」
顔が変な形になりそうな思いをしながら頬ずりを受けていると、突然別の女性の声が聞こえて来た。
母親と思われる女性は心底面倒臭そうに溜息を漏らして、じろりと扉の在る方を睨みつける。
「分かっているわ。全く……出産後くらい自由な時間をくれたって良いでしょうに、あの頭デッカチ……」
ぶつぶつ何かを言いながら、俺を囲いのしてあるベビーベットの上に降ろすと、頭を二度、三度撫で、手を振りながら扉の向こうへと消えてしまった。
俺は嵐が去った後のように、緊張の糸が切れ息を吐く。母親というのは、我が子に対してあんなにも熱情的になる物なのか。
必死に俺を育ててくれた両親の顔を思い出し、俺はもう少し親孝行をしていればよかった、なんて今更どうしようもない後悔に見舞われる。
いや、今そんな事を考えたって意味はない。この命が続いているというのなら、精一杯生きるべきだ、それが、あの人の願った事なのだから。
(にしても、やっぱり赤ん坊は不便だな。長かった手足が恋しい)
難行だが、首を横に向けたりして、何とか部屋の全貌を確認する。
アニメやドラマ、映画で金持ちが使っているような、絨毯の敷かれた広く綺麗な部屋。天井は高く、今の身体の感覚を計算に入れて、恐らく四、五メートル程度はあるだろう。
俺の寝かされたベビーベット。頭が壁側に来るよう配置されていて、横では大きなベットがこちらを見降ろしている。恐らくこれは、あの母なる女性の物だろう。
ベランダから見える景色は暗く、時刻が夜更けである事を表していた。
(体の年齢は、恐らく生後十カ月から一年。家庭科で学んだ情報が正しければ、そろそろ立ち上がる事の出来る時期だ)
少し離れた場所。壁沿いに並んだ、二メートル程の大きな本棚。そこには隙間なく書物がびっしりと敷き詰められており、色別に分かり易く整理整頓されている。
この世界の言語が理解出来なかったという事は、少なくともここは日本語、英語の圏内ではないという事だ。恐らく、文字についても同様、俺には理解できないだろう。
今は本から知識を得るのは不可能だと悟り、本棚から目を逸らす。
(暫くは人の会話を聞いて学ぶしかないか……前途多難だな)
赤ん坊にあるまじき悩みを抱えながら、俺は押し寄せて来た眠気に従い、そっと両目を閉じた。