第1話
若い女が1人、深夜ビルの屋上に独り立っていた。
冬独特の冷たい空気のため、吐く息が白い。
寒さのためにコートに首をすくめる。
フェンス越しに、思いつめた表情で外を眺めている。
ビルや家の窓から漏れる明かりが、夜の街を照らしていた。
女は、フェンスを乗り越えビルの淵に立った。
強い風のため、体が持っていかれそうになる。
あわててフェンスに捕まった。
女はあわてた自分に、思わず苦笑してしまう。
「今から、死のうと思っているのに」
女の名前は、宮部 愛。
親が愛に恵まれますようにと、付けてくれた名前。
残念ながら、愛に恵まれなかったけれど。
愛には、恋人がいた。
5歳上の、26歳の彼。妻子がいる彼。
世間で言う不倫。
でも、愛は幸せだった。
彼の事を、愛していた。
彼も愛してくれていると、思っていた。
昨日までは…。
「別れよう」
昨日、彼から電話で言われた言葉。
不意に告げられた、別れの言葉。
いつかは、こんな日がくるとは思っていた。
「別れたくない」口から出掛かった言葉を、押し込める。
言えば、彼を困らせる事になるから。
「わかったわ」
でも、最後に聞いてみたかった事がある。
「私の事、愛していた?」
笑いながら、彼は言った。
「遊びだよ」
その一言を残して、電話は切れた。
愛の中で、なにかが崩れた。
彼とは、バーで知り合った。
かっこよくて、話が上手で、遊びなれている感じだった。
知り合ったその日のうちに、お互いの連絡先を交換した。
次の日の夜、彼から電話があった。
楽しい会話の後のデートの誘い。
愛は、すぐにOKの返事を出した。
彼の事が、好きになりつつあった。
何度かデートしてから、結婚している事を知った。
でも、もうその時には彼のすべてを好きだった。
ただ、彼が傍に居てくれれば良かった。
彼にしてみたら、私は何人かいる女の1人だったのかもしれないけど。
ウソでも良いから、「愛していたよ」と言って欲しかった。
少しは、救われたかもしれないのに。
「遊びだよ」の一言。
生きる気力を無くした。
愛はビルの屋上に立ち、父の事を考えていた。
小さい頃に、病気で亡くなった父。
小さい頃泣くと、頭を撫でてくれた優しい父だった。
父に頭を撫でてもらうのが好きだった。
大きい手で頭を撫でられ「大丈夫だよ」の一言。
父に言われると、安心できた。
死んだら、また頭撫でてもらえるかな?
「お父さん」そう呟くと、目をつぶり、ビルから飛び降りた。