母いわく、私はドアマットヒロインなんだとか
過去作『この先死亡予定のドアマットヒロインの母でした』の娘を主人公にして短編にまとめました。
単体でお読みいただけるようになっております。
(最初の設定を少しいじっていますが、連載版以上の新しい情報はないかと…)
夜寝るとき、エリシアの母アンネは手を繋いでくれる。
エリシアはもう六歳。大きくなったので一緒の寝台では寝ないが、寝る前に少しおしゃべりをして、母は「もう寝なさい」と言ってエリシアの手を握る。もうお姉さんなのだから一人でも寝られるが、少し冷たい母の手をエリシアの温かい手で毎晩温めてあげているのだ。
この日はたまたま寝つきが悪かった。うとうとしつつもなかなか寝られない。
だが、母はエリシアがもう寝ついたと思ったようで、そうっとエリシアの手を離した。
まだ繋いでいて、と目を開けて言うほどの元気も残っていない。諦めて目を閉じたまま眠りに就こうとしていると母はぽそりと呟く。
「エリシア……あなたをドアマットヒロインになんてさせない。それに何があっても大丈夫。運命の相手の辺境伯様があなたのことを救い出してくれるから……」
――ドアマットヒロイン……? うんめいの相手?
聞いたことのない言葉だったから、明日母に確認しようと思ったが、眠気に負けてそんな思考は霧散していく。
◇
「ねえ、ミカ。ドアマットヒロインって何か知ってる?」
今朝母に聞きそびれたので乳兄弟のミカに聞いてみた。
母アンネはエリシアの半年遅れで生まれたシギー男爵家の子息であるミカの乳母をしていたのだ。今も母は男爵子息のナニーをしており、エリシアもこの家で一緒にお世話になっている。
「ダマッテヒロイン? うるさいとだめなんじゃない?」
「ドアマットヒロインだ。ミカ」
ミカのとんちんかんな答えに割り込んでくる男の子。
「レオン!」
「兄さま!」
レオンはミカの兄。
「俺、メイドが流行りの小説にあるドアマットヒロインがーって話をしてるの聞いたぞ。たしか、不幸な目に合ったり、虐げられたりする女の登場人物のこと」
「しいたげ?」
しいたけの仲間だろうか。
「早くに親が死んだり、姉妹からいじめられたりする女の子だよ。ほら、幼いころに母親が死んで灰かぶりながら働く女の子が継母と姉からいじめられる物語読んだころあるだろう? ああいう話に出てくる女の主人公のことをドアマットヒロインっていうらしいぞ」
「へえ! レオンものしり!」
エリシアの三歳年上のレオンはいろんなことを知っている。
エリシアには父も母もいる。父は仕事の関係で遠くで暮らしているので、エリシアは会ったことはないが、いるにはいる。レオンやミカがエリシアをいじめてくることはない。では、なぜ母はエリシアのことをドアマットヒロインにさせない、だなんて言ったのだろうか。
「ねぇねぇレオン、うんめいの相手っていうのもわかる?」
「結婚する相手のことじゃないか? 灰かぶりのお姫様は運命の相手である王子様と結婚したって書いてあっただろ?」
「そっか……」
運命の相手と結婚? となるとエリシアの結婚相手は母の言った『へんきょうはくさま』ということになる。『へんきょうはくさま』という名前の人にはまだ会ったことがない。
少し考え胸がもやもやした。
そしてちらりと目の前の男の子を見る。
金髪碧眼の男の子。物知りで背が高くかっこいい。でも彼は男爵令息で『へんきょうはくさま』ではない。
――やだな……。結婚するならレオンみたいな男の子がいいのに……。
「灰かぶりのお姫様のお話読もうよ!」
会話の流れで久しぶりに読みたくなったようだ。ミカが本棚に向かう。
「あれ? こんな本あったっけ?」
本棚から真新しい本を取り出して見せてきた。
お月様とお城が描かれた格好の良い表紙。普段エリシアやミカが読んでいるような可愛らしい表紙とは少し違う。
「あっ、ミカ! それは俺のだっ、返せ!」
「兄さまの? ねえ、兄さま、僕にも見せて! 面白そう!」
「あ、こら。お前にはまだ早い」
レオンが急いでそれを取り上げた。
「やだ! 見たい! 見るだけだもん、見せてよ」
「だめだ。これは父上が俺に買ってくれたんだ!」
ミカがレオンの持つ本を引っ張り、レオンが引っ張り返す。その様子を見ていたエリシアは「あ……」と声を漏らした。
ビリッと音を立てて本のページが破れた。
「ミカっ!!」
レオンが怒鳴る。すぐにミカが「うわーんっ!」と泣き始めた。
こうなると、もう自分たちだけでは収集が付かない。
「おかーさーん! レオンがミカのこと怒鳴って、ミカ泣いちゃったー!」
「あらあら。エリシア、ちょっと待ってて! すぐに行くわ!」
エリシアは廊下で掃除をしている母を呼んだ。
すぐに母は部屋に来てくれ、三人の様子を見て察したように微笑む。
「あら、ミカお坊ちゃまが破ってしまったのね」
母はしゃがみ込んでレオンの持っていた本に手を添えた。
「何度も俺のだって言ったのにミカが無理やり引っ張るから」
「そうですか。聞いてもらえなくてつらかったですね」
母はレオンの頭を撫でてやる。
「ミカが見せてって言ったのに、レオンが見せてあげないの」
エリシアが兄弟喧嘩の理由を説明した。
「エリシア、これはレオン様のものだから、見せるか見せないかはレオン様が決めるのよ」
「でもさ、見せてあげるくらい良くない?」
「それもレオン様が決めること」
それもそうか、とエリシアは口を挟むのをやめる。
母は泣いているミカを見た。
「ミカお坊ちゃま、見せて欲しかった気持ちもわかりますが、レオン様のものを破ってしまうのはよくなかったですね」
「うっ、うっ、だって……っ! 兄さまが……」
ミカがヒックヒックとしゃくりあげ、母はハンカチを取り出し涙を拭いてあげていた。
「レオン様、その本少しよろしいですか?」
母は本の破れたページを確認する。どうにか直せないかと見ているようだ。
「アンネ、兄さまの本、なおる……?」
ミカが真っ赤な目で母のハンカチを握りしめて聞いてきた。
「町の書店で修繕できないか聞いてきましょう」
母はレオンに「この本お借りしますね」と断りを入れて部屋から出ていく。
「お、俺も一緒に行ってくる!」
レオンがすぐに母を追いかけるように出て行った。
「ミカ、レオンの本、直るといいね」
「うん……」
エリシアはミカに「灰かぶりのお姫さまの絵本読もっか」と声をかけたがミカはずっと元気がなかった。
◇
あれからレオンは、破れた本は無事直ることをミカに伝え「あの本は貸せないけど、お前もこの本ならそろそろ読めるだろ」と別の本を貸し、ミカは嬉しそうにしていた。
「レオンのあの本、レオンのお父さんに買ってもらった本なんだって」
「そう」
寝る前の母との会話。
「お父さんに買ってもらった本だったから怒ったのかな?」
「そうかもしれないわね」
母はいつも通り、手を取った。もう少しおしゃべりがしたいのに「もう寝なさい」と言い出しそうな雰囲気だ。
「ねえ、お母さんもお父さんからもらった物ってある?」
エリシアは寝るように言われる前に母に尋ねる。
「あるわよ。これ」
母がぱちりと髪飾りを外してエリシアに見せてくれた。
「ああ! お母さんがいつも着けてるやつ」
エリシアの瞳と同じ青紫色の髪飾り。シンプルで装飾も少ない使い勝手のよさそうなもの。
「お父さんが私にくれた物ってないのかな?」
「っ……」
母が一瞬言葉に詰まった様子を見せたので、聞いてはいけない質問だったかとドキドキして、エリシアは自分で答えを見つけ出す。
「ああ! わかった。これでしょ。私が赤ちゃんのころから使ってるブランケット!」
「ふふっ、エリシアはそれが好きね」
母は笑って否定をしなかった。
「このブランケットは色がかわいくて好きなの。それに触った感じもフワフワして気持ちいいし」
暖かくて好き。大きさも良い。ずっとお気に入りのブランケットだ。ニコニコしながらそんなことを言う。
「ねえお母さん、お父さんに会いたい?」
「うん……会いたいわ」
切なそうな母の声。父を思い出すときはいつも母は悲しそうに笑うのだ。
「私も会ってみたいな……!」
仕事で離れて暮らしている父には会いに行けないらしい。なんで会えないのかエリシアにはよくわからないが、大人には大人の事情があるのだ。エリシアは希望を口にするだけに留めて、わがままを言って母を困らせるようなことはしない。
「会えるわよ」
母が言うならきっといつか会えるだろう。
――いつか……会いたいな……お父さん……
◇
「ミカお坊ちゃま、エリシア。お勉強はいったん休憩にしてお昼になさいましょう」
「え? ばあや、兄さまがまだ帰ってきてないよ」
いつも食事は子ども三人一緒に食べているので、ミカが初老の使用人バーバラに聞く。
レオンは二週間前に修繕に出した本が直ったということで、エリシアの母アンネと共に書店へ行っている。書店までは歩いて三十分程度。とっくに帰ってきても良い頃だったがレオンはまだ帰らない。
「レ、レオン様は……遅くなるかもしれないので、先に食事にしましょう」
バーバラは硬い表情で食事の用意をし始める。何かあったのだろうか。
不思議に思うがエリシアとミカはレオンを待たずに食事にすることにした。
食事を終えるとミカが「さっきの問題の答え、わかった気がする」と言ったので、課題の続きをしに奥の部屋へ戻った。
「勉強中にすまない。エリシア……話がある……」
エリシアを呼んだのはレオンとミカの父、ロベルト・シギー男爵だ。
「え? 私? ですか?」
シギー男爵夫人であるミリアと話をすることはあるが、ロベルトと会話をすることはほとんどない。関係が悪いとかではなくお互いに用事がないのだ。そんなロベルトからの呼び出しにエリシアは驚き、返事に敬語を慌てて付け足す。
「いいかい、エリシア。落ち着いて聞くんだ」
ロベルトの前置きに顔が強張る。
「さっき、アンネが倒れて病院へ運ばれた」
「え?」
予想外の言葉だった。
理解ができずにきょろきょろと周りを見る。ミカは話が聞こえていない様子だが使用人のバーバラは目に涙を溜めていた。きっと彼女は食事のときから事情を知っていたのだろう。
「これから一緒に病院へ行こう」
なぜだかわからなかった。
「お母さん、朝は元気だったよ。レオンと一緒に修理してもらった本を取りに行ったんだよ。ちょっと帰ってくるのが遅いけど、きっとレオンと一緒に外でこっそり何か買って食べてるの。レオンは帰ってきたらミカに直った本を見せてあげるんだよ」
ロベルトには敬語を使うようにしていたが、もう敬語なんて出てこない。
エリシアは抑揚もなく淡々と話した。だが、これは自分の希望。そんなことはわかってる。
そんなときに頭をよぎるのは母の言ったドアマットヒロインと言う言葉。
――『ほら、幼いころに母親が死んで……』
――お母さんが死ぬ……?
ふいにレオンの言葉を思い出して、エリシアはへらりと笑う。
「あ、途中で風邪でも引いて病院に駆け込んだのかな」
だがロベルトの表情は硬い。
「エリシア。アンネは風邪じゃない。病名は私にもわからないから、病院へ行って医者に説明してもらおう」
理解できないし納得もできない。だけどこれ以上ロベルトを困らせるわけにはいかない。
「…………わかった」
エリシアも表情を硬くし返事をした。
◇
目の前で眠る女性は一体誰だろう。エリシアはぼんやりと女性を見つめた。
「エリシア、あなたのお母様よ。声をかけてあげて」
母?
青白い顔で目を瞑る女性。これがエリシアの母?
こんな顔をする母は見たことがない。
母、アンネはいつも血色の良い顔で、優しく微笑む女性だ。エリシアの前でこんな硬く目を瞑る母は知らない。
「ねえ、私のお母さん、死んじゃったの……?」
エリシアの震える声にミリアが泣いた。彼女はエリシアを抱きしめる。
「今はまだ……眠ってる。まだ、かろうじて生きているわ……」
ミリアは嘘をつかない。
かろうじて、の意味はわからなかったが、死にそうだけどなんとか生きている状態、という意味だろう。
「っ……お母さん……これから死んじゃうの?」
エリシアの頬を涙が伝う。
「わからないわ……医者には全力を尽くしてもらっているけど……わからない……」
「そんなのやだっ!」
エリシアは抱きしめるミリアの腕を抜けて眠る母へと駆け寄った。
「お母さん! やだよっ! 起きて!」
エリシアは眠るアンネを揺さぶった。朝でもこんなふうに母を起こしたことはない。
「やめなさい! エリシア!」
ミリアに泣きながら制止された。
「起きてよっ! お母さん! お母さんっ! うわぁーーん……!」
エリシアはアンネの上にかけられたリネンに顔を埋めて泣きじゃくる。
ミリアはそんなエリシアに覆いかぶさるように抱きしめ涙を流す。
ロベルトは見ていられないと顔を背けて部屋を出た。レオンはグッと拳を握りしめて部屋の隅で佇んでいた。
◇
ひとしきり泣いた後、医者の話があるからと、エリシアとレオンは別の部屋で待っているように言われた。
母が倒れたとき、母と一緒に居たレオンはずっと病院にいたようだ。
「レオン、どこ行くの?」
ミリアとロベルトは医者の話を聞いていて、ここにはいない。
部屋を出て行こうとするレオンに話しかけた。
「アンネの状態を聞きに行く」
「ここで待ってなさいって言ってたよ」
「お前は自分の母親の状態が気にならないのかよ」
気になるに決まっている。だが、知り合いを介さずにストレートな意見を聞くのは怖い。
エリシアが俯いているとレオンは部屋を出て行った。
「ま、待ってよレオン……」
一人、部屋で待つのも不安でエリシアはレオンを追いかけた。
「レオン」
レオンがある部屋の前で立ち止まったので、声を掛けると人差し指を顔の前に持ってきて「しー」と静かにするように言われた。
エリシアはごくりと唾を飲み込んだ。
「アンネさんはクーリュー病という血流が悪くなる病気です。遺伝でもなく、感染症でもなく、突然起こる原因不明の病気。医療が進んだ国では治療薬の開発が進められていると聞いたことがありますが、現時点でこの国には治療薬はありません。薬で病気の進行を遅らせるしかできることはなく……」
「治らないって……ことですか?」
「…………はい。意識が戻ることもなく、もって二か月……といったところでしょうか」
「っ……!」
ロベルトが息を呑み、ミリアのワッと泣き出す音が聞こえた。
エリシアには話の内容はほとんどわからなかったが、とにかく助からないような雰囲気で、焦燥感がエリシアを襲う。
「レオン」
「行こう……エリシア……」
レオンがエリシアの手を引いて、先ほどの部屋へと戻る。
レオンはずっとエリシアの手を繋いだままだった。
しばらくするとロベルトと目を真っ赤にしたミリアが戻ってきた。
「エリシア。今日は、アンネは起きることができないみたいだから、屋敷へ帰りましょう」
「……」
今日は、ということは別の日には母は起きるのだろうか。そう追及してもきっとミリアを困らせるだけだ。エリシアは気持ちをグッと堪えてミリアの言うとおりに屋敷へ戻ることにした。
屋敷に戻るとバーバラが泣きながらエリシアを抱きしめた。
「ばあや。今後のことをちょっと……」
「はいっ……すぐに……」
ミリアに呼ばれたバーバラはエリシアを離し「みんなは奥の部屋で本でも読んでお待ちください」と言う。
使用人を集めて母のしていた仕事の分担を決めるようだ。
「エリシア……行こうぜ……」
「うん」
レオンに手を引かれて奥の部屋へと進んでいく。奥の部屋ではミカが心配そうな顔をして待っていた。
「アンネは大丈夫なの?」
「お医者さんは『もって二か月』って言ってた」
「兄さま、もって二か月ってなに?」
レオンはふいっと顔を背けて「わからない」と言う。
エリシアはレオンの「わからない」と答えるところを初めて見た。いつもレオンは「わからない」とは絶対に言わない。わからないときは「自分で考えろよ」と言う。
レオンはわからないわけじゃない。教えたくないようだ。
「ねえ、何回寝たら二か月?」
ミカがレオンの腕を摑んで尋ねる。
「わかんねーよ!」
レオンはミカの腕を振り払う。
強い口調にミカは泣きそうな顔をした。だが、レオンの方も目に涙を溜めていた。
「俺が……俺が本の修理なんか頼んだから……だからアンネは倒れたんだ……」
レオンが肩を震わせた。
「俺の足が遅いから……もっと早く大人を呼んでいれば……」
レオンの目に溜まった涙がポロリと零れ落ちていく。
「その本……僕が破った本だ……」
ミカの目からも涙が零れる。
みんなが泣くので、先ほど散々泣いたエリシアもまた泣けてきてしまう。
「私は……私はお母さんの具合が悪いの気づかなかった……。朝、元気だと思ったけど……そのとき病院に行ってってお母さんに言ってたら……」
そうしたら母は助かっただろうか。
子どもたちは自分たちを責めあった。
母は病気だというのに、皆、自分たちの行動を変えることができればこんなことにはならなかったのでは、という後悔に苛まれた。
◇◆◇
レオンはミカの乳姉弟であるエリシアとはずっと一緒に屋敷で暮らしていくものだと思っていた。
あれから数日が過ぎてもアンネは目を覚まさない。
エリシアは毎日病院へ通っていて、レオンが毎回「どうだった」と聞いてもエリシアは「眠ってた」としか言わなかった。
今のところエリシアはアンネと過ごしていた屋敷の使用人部屋で寝起きしており、レオンとミカと今まで通り一緒に過ごしている。世話役がアンネからバーバラに代わっただけ。
だが、レオンは日に日にいつまでこの生活が続けられるのかと不安になる。
アンネが目を覚まさなかったら、エリシアはどうなるのだろうか。エリシアはシギー男爵家の子になってレオンの妹として一緒に過ごすことになるのだろうか。
エリシアと兄妹というのは違和感があるが、もしかしたらそれが一番良いのかもしれない。
そんなことをぐるぐる考えながら過ごした。
「眠れない……」
アンネが倒れたときのことが忘れられない。書店へ向かう途中の出来事。血の気が引く、というのを九歳で経験した。
怖かった。
手足が震えて、屋敷へ向かって走っているはずなのに地面を踏みつける感触がしなかった。
厨房に行って、水でも飲んでこよう。
レオンは寝台から降り、隣の寝台ですやすや眠るミカを恨めしい目で見ながら部屋を出た。
両親の部屋の前を通り階段を降りようとした。が、両親はまだ起きていたようで、部屋の扉の隙間から明かりが漏れ出ていた。
「ねえ、ロベルト……アンネったら、領の孤児院に顔を出して、自分に何かあったらエリシアをお願いって頼んでたらしいのよ……!」
――エリシアが孤児院に……!?
レオンは孤児院がどういうものかを理解している。
水を飲みに行くつもりだったレオンはそこで立ち止まって、会話の続きを聞くことにした。
「孤児院か……エリシアの父親や、アンネの両親は?」
「アンネ、頑なに自分のこと言わなかったから、何も知らないのよ。エリシアの父親のことも……アンネの出身すら……」
「アンネは仕事もよく頑張ってくれていたから気にしていなかったが……こうなると採用前にしっかり話をしておくべきだったな……」
ロベルトが額を押さえて深いため息を吐いた。
「エリシアをうちで……」
ミリアのその後に続く言葉は「引き取れないかしら」だろう。エリシアと離れ離れになるくらいならそれで良い。
レオンは両親の判断に期待した。だが……
「うちは無理だ」
――っ……!
即、一蹴されてレオンは奥歯を噛みしめる。
「わかるだろうが、貴族が養子を迎えるには正当な理由がない限りは多額の手続き費用が掛かる。うちではとてもじゃないがそんな費用用意できないし、仮にエリシアをうちに迎えても、貴族令嬢として満足な教育や衣装を与えてやることができない」
「そう、よね……」
レオンは知らなかったが、貴族の養子入りにはお金がかかるらしい。
「それに、領内の身寄りのない子たちはみんな孤児院へ行っているのに、エリシアだけを特別扱いするのも領民たちへの示しが付かない……」
ミリアがどうにかならないものかと悩んでいた。
「でも……エリシアを孤児院に入れるなんて……。あっ……! あなたの叔母様のところは? 叔母様、子どもが欲しいのに諦めたっておっしゃっていたじゃない。あそこなら養子入りする正当な理由もあるし、エリシアを育てる余裕もある」
「ああ、叔母上のところなら安心できるから良いかもしれないな。ただ、ちょっと遠いが……」
父方の叔母のところへは一度だけ行ったことがあるが、ここから遠く簡単に会いに行ける距離ではない。
――なんだよ……! 父上も母上も、アンネは助からない、みたいな言い方して……
レオンは自分も両親と同じように、エリシアの行く末ばかりを気にしていたのだが、両親の方針を不服に思いグッと拳を握って自室へ戻る。
――アンネが助かれば今まで通りなんだ……
レオンはアンネが助かるようにと祈りながら眠りに就いた。
翌日、いつも通り朝食を食べるエリシアを見て思わず言ってしまう。
「エリシア……よく平気で食事が食べられるよな……」
母親の生死が懸かった状況で神経が図太いのだろうか。つい嫌味のようにそんな言葉が口から出た。
「だって、お母さん。健康のためにごはんはしっかり食べなきゃダメっていつも言ってたもん」
「そっか……」
エリシアは母の言いつけを守っているだけだった。
そしてエリシアはその日の昼前に、朝食べたものを嘔吐した。
レオンはエリシアに言ったことを激しく後悔した。エリシアはずっと無理をしているだけだったのに。
「エリシア……ごめん……」
「私が吐いて汚したのに、なんでレオンが謝るの?」
エリシアはバーバラに看病されて寝台で、青白い顔をしながら横になっていた。
「なんでも……俺が……悪いんだ……」
アンネが倒れたときに一緒にいたのは自分だし、彼女を助ける方法も思いつかない。
「どうしたら……アンネは元気になるんだろう……」
アンネが元気になれば全部解決することなのに。
「お母さんね。お父さんに会えたら元気になると思うんだよね……」
「お父さん……?」
レオンはエリシアの口から初めて父親のことを聞いた。
母からアンネとエリシアにはエリシアの父親のことを尋ねてはいけない、とよく言い聞かされていたので、レオンからも尋ねたことはなかった。
「お母さんね、お父さんに会いたいって言ってた。お父さんが会いに来たらきっとお母さんは目が覚めると思うの」
「お父さんって言っても、父親の名前も住んでるところも知らないんだろ?」
昨日の両親の話では、アンネの生まれた地域すら誰も知らない様子だった。
「へへっ、実は私知ってるの」
「え? アンネが教えてくれたのか?」
「ううん。お母さんは教えたくなさそうだったから聞いたことはないんだけど」
アンネが教えてくれたわけではないようだが、では、なぜエリシアは父親のことを知っているのだろうか。
「これ見て。私が赤ちゃんのときから使ってるブランケット。触ったとき気持ちがよくてお気に入りなの。これお父さんが私にくれた物」
ちょっとダサいと思ったが「うん」と話の続きを促す。
「ほら、ここになんとかタウンって町の名前が入ってる。読み方わかる?」
「フーリナタウン……? かな?」
「聞いたことある? どこか知ってる?」
「ちょっと待ってろ」
レオンは地図を取りに行ってエリシアに見せた。
「ここだ。隣のグドル領にある町だ」
「歩いて行ける?」
「行けない。馬車で三時間はかかるんじゃないか?」
「じゃあ、多分そこだ! お母さん、お父さんはお仕事で遠いところにいるって言ってたもん」
たしかに馬車で三時間もかかる距離はすごく遠い。
だが、大人はその距離で遠いと表現するだろうか。レオンはやや違和感を覚えたが、歩いていくことのできない距離だし、三時間もかかるのだから、きっと遠いところとなるのだろう。
「名前は?」
「ファリオスって言うんだよ。お母さん、たまに寝言で『ファリオスさま』って呟いてた。お父さんのことを愛してるんだよ」
「さま?」
レオンはアンネがエリシアの父親の名に『様』を付けて呼ぶことが気になった。
「まあ、いいや。なあ、エリシア……俺たちでお前の父親を捜しに行こう! 隣の領地なら、俺たちの力だけでも行ける」
「遠いんでしょ?」
エリシアは心配そうにレオンの顔を覗いた。
「行けない距離じゃない」
レオンは自信たっぷりに言ってみせる。
レオンには貯めている小遣いがある。隣の領地に行く馬車に乗るための二人分の運賃くらいはあるだろう。ギリギリだが……。
「それでアンネが元気になるなら安いもんだ! よし、エリシア! 父親、探しに行こうぜ!」
「うんっ!」
エリシアは青白い顔をしながらも、レオンに笑顔を向けてくれた。
◇
「お弁当持った?」
「うん」
レオンはエリシアとエリシアの父親を探しにいく計画を立てた。ミカもついて行きたがったが、ミカには二人の不在を誤魔化す役をしてほしいと頼んだ。
そして、今日は屋敷内でピクニックごっこをするから弁当を用意してほしいとお願いしすると、使用人たちは「それは良い気分転換になる」「エリシアを元気づけてあげて」と、昼の弁当だけではなく、お菓子などを入れたバスケットまで用意してくれた。
「誰もいないから今のうちに……!」
ミカがきょろきょろと見回しながら誘導してくれる。
「俺たちが出たら鍵しろよ」
「わかった」
レオンはエリシアと一緒に屋敷の裏口から外へ出る。
ミカ一人で屋敷の大人たちをいつまで誤魔化せるかはわからないが、今日はミリアもロベルトも終日外出で屋敷にいない。
すぐに探しに来られて連れ戻されるということはないだろう。
絶対にエリシアの父親を見つけ出す。
――アンネ……待ってろ……!
◇
「すごい……! レオン! ちゃんと着いたよ。フリー……」
「フリーナタウン」
「そう、フリーナタウン!」
レオンは初めて自分の力で乗合馬車を乗り継ぎ自領を出た。
乗合馬車の乗り方は「貴族令息といえどもこれくらいのことも知らないのは恥ずかしい」と父ロベルトがお金の使い方と一緒に教えてくれた。
町の入り口には『フリーナタウン』と看板も出ている。この町で間違いない。
エリシアを連れて無事に目的地へ辿り着けたことに安堵した。
「この町のどこかにお父さんがいるんだね」
エリシアがキラキラした目で町を見回していた。
「ねえ、レオン、すごいいっぱいの人だね。この中からどうやってお父さんを探すの?」
「え……?」
レオンの顔が強張る。
目的地へ辿り着いたはいいが、人探しなんてどうやってすればいいのだろうか。
「なあ、エリシア……エリシアは父親の顔とか覚えてるのか?」
「ん? わかんない」
――だよなー……!
「あっ! ちょっと待て。名前ならわかるんだから、町の人に聞いて回ろうぜ! ファリオスなんて珍しい名前だからきっとすぐ見つかるさ」
「うん! そうだね」
エリシアに「別れて聞き込みをした方が早く見つかることない?」と言われたが、知らない町でエリシアを一人にすることは良くないと思い、レオンは「一緒に探すぞ」とエリシアの手を繋いだ。
「すみません。ファリオスって男の人を探しているんですが、知りませんか?」
レオンが町の人に聞いて回り、エリシアは後ろについているだけ。誰もが「知らないなぁ」と首を横に振った。
「見つからないもんだなー……」
ベンチに腰掛け休憩する。
「うん……」
町へ来たときは期待に満ちた顔をしていたエリシアの顔が曇っている。
仕方がない。もう二時間も町の人に聞いて回って、馬車の停留所からかなり離れた場所まで来た。
そろそろ帰りの馬車の時間も気になるし、これ以上町の中心から外れると危ない気もする。
「なあ、エリシア……そろそろ戻って……」
「わ、私っ! あの人たちにも聞いてくる!」
エリシアはレオンが帰ろうとしている様子を察したはずだが、目に付いた男二人組へ話しかけに行ってしまった。
「おいっ!」
身振り手振りも交えて一生懸命町の人に聞いている。
アンネを助けたい気持ちでいっぱいなんだろう。その気持ちはレオンも変わらない。
レオンはエリシアを追いかけた。
「ねえ! レオン!!」
エリシアがレオンを手招きする。
「この人たち知ってるって……!」
「ええ!?」
ここへ来て急展開かと思われた。
だが、ファリオスを「知ってる」と言ったその二人組の男たちに、なにか嫌なものを感じた。
レオンはエリシアを隠すように前に立って、男たちに聞く。
「ファリオスっておじいさんがどこに住んでいるか知ってるんですか?」
「え? レオン?」
エリシアが何を言っているの? とでも言いそうな顔で見てきたので、レオンはエリシアに目線だけで何も言うなと合図を送る。
「あー! 知ってる知ってる! あの品の良さそうなおじいさんだろ?」
「ああ! 町の外れに住んでるよ」
レオンはやはり、と思う。
エリシアの父親なら、アンネと同じくらいの年齢か、せいぜいロベルトと同じくらいのはず。少なくともおじいさんという見た目なら絶対に違う。
「なんだか俺たちが探しているファリオスさんとは別人のようなので、やっぱり良いです。行こう、エリシア」
「う、うん……」
レオンはエリシアの手を強く引く。ここから早く移動した方が良い。本能で危険を感じとる。
「おっと……! そうはいかないぜ」
「うわぁっ……!」
レオンの腕が男の一人に捻り上げられた。
「きゃっ」
エリシアの方ももう一人の男に捕まった。すぐにずるずると裏路地へと引っ張られる。
「エリシアに触るな! 手を離せっ!」
レオンが暴れるが、体格が違い過ぎてびくともしない。
最悪な展開だ。
「ははっ! この坊ちゃん、よく見るとなかなか良い服着てんじゃね?」
レオンは町で浮かないようにできるだけシンプルな服を着てきたつもりだったが、それでも平民の着る服とは違ったようだ。
「脅しの材料に使えそうだな! さーて、僕はどこの家の子なのかなー?」
髪の毛を摑まれ無理やり上を向かされた。
自分が計画をしたことで家に迷惑が掛かる。
エリシアを見ると真っ青な顔で震えていた。怯えるエリシアを見てカッとなる。
自分が何とかしなければ。
「やあっ!!」
レオンは目の前の男の股間を思いっきり蹴り上げた。
「うぐうぅっ……!」
男は股間を押さえて苦しんだ。
「こいつ!」
もう一人の男が、エリシアの腕を離して、レオンに襲い掛かろうとした。
レオンはもう一人の男の股間も思いっきり蹴り飛ばす。
「とやっ!」
「くそぉっ!!」
もう一人の男も股間を押さえて膝をつく。
「エリシア、走るぞ!」
レオンはエリシアの手を摑んで引っ張り駆けた。
とにかく人通りの多い場所へと向かってひたすら走る。
「待ちやがれっ!」
男たちは頭に血が上っているのか、人通りのある場所へ出てもまだ追いかけてくる。
「ちっ、しつこいな……!」
「きゃあ!」
エリシアが転んでしまう。
「立てっ、急げ……!」
「うう……」
エリシアは膝を擦りむいている。涙を堪えながら立ち上がろうとしていたが。
「うわっ」
「捕まえたぞ!」
追ってきた男にレオンは再び腕を捻り上げられた。
「よくもやってくれたなぁ」
悪い顔でレオンを捕まえる男。
――もう終わりだ……!
そう思ったときだった。
「手を離すんだ」
騎士のような装いの男が、レオンに凄む男の腕を摑んでいる。
「っ!?」
見ず知らずの騎士に助けられ、レオンは目を見開いた。腕を摑まれた男の方も物凄く驚いた顔をしている。
「こ、こいつが俺の財布をすったんだよ」
男が苦し紛れの嘘を吐く。
「俺はそんなことやってない!」
レオンはもちろん否定した。
騎士が後ろを向いてすぐそばに立っていた壮年の男性に目配せで指示を仰ぐ。
その男性は前へ出た。
「うちの孫が財布を? ふん……では、この領の自警団に連れて行って確認させよう」
「ま、孫!?」
男が声を上げ、レオンもびっくりして声を上げたくなったが、グッと堪える。
この男性はレオンの祖父ではない。
「もしでまかせなら、孫を泥棒扱いした名誉毀損で訴えるか。お前も来い」
壮年の男性が威圧感たっぷりでそう言うと騎士も続いて口を開く。
「では来てもらおうか。そっちの男も一緒に」
騎士がレオンたちを追いかけてきていたもう一人の男に目を向けた。
「お、俺は関係ねーよ!」
その男は一目散に逃げだした。
「あ、あいつ、逃げやがって! くっ……勘違いだったみたいだっ」
騎士に腕を摑まれていた男も、摑まれた腕を振り払って逃げ出した。
「追いますか?」
「ほっとけ。こっちを自警団に連れて行く方が大事だ」
壮年の男性がレオンとエリシアに目を向けてギクリとした。
「さあ、少年。自警団へ行くか、家名を名乗るか、どちらが良い」
じろりと睨まれレオンは親に叱られることを覚悟した。
壮年の男性は貴族男性らしい。家名を名乗られたがレオンにはわからなかった。
そしてこのグドル領へは仕事で来ていただけという。
レオンはこの町でエリシアの父親を探すことを諦めて、叱られる覚悟で家名を名乗ると屋敷まで送るから馬車に乗るようにと指示された。
「おじさんは……」
「お嬢さん、こういうときは卿とお呼びするのがよろしいかと」
話しかけようとしたエリシアに助言をしたのは、護衛騎士らしい。裕福な貴族には常に護衛が付くようだ。
エリシアの擦りむいた膝は護衛騎士が手当てをしてくれた。
「ケイは……」
「呼びづらければローガンと呼びなさい」
エリシアの卿という呼び方に違和感を覚えたようだ。
「ローガン……さまは、ファリオスという男の人を知っていますか?」
仕事でこの領へ来ただけなら、彼はフリーナタウンの人ではない。エリシアが問うが、レオンは聞いても無駄だと思った。
「ファリオス?」
ローガンが眉を顰めて怪訝な顔をエリシアに向けた。
「私のお父さんなんです」
「は……?」
彼は目を丸くした。
「…………エリシアといったかい? 母親の名は?」
「アンネです」
ローガンが「いや……まさか……」と小さな声で呟き、レオンは首を傾げた。
「お母さんが病気で倒れたの。お医者さんの話は全然分からなかったけど、モッテ二か月って言ってた。それって二か月で死んじゃうって意味だよね……」
「っ……!」
レオンはアンネの状況を再認識し、また泣きそうになってしまう。
エリシアの話にローガンはひどくショックを受けた様子だった。アンネのことを知っているのだろうか。
「お母さん……ずっと眠ったままなの。毎日話しかけても何も答えてくれない。お母さんはお父さんに会いたがってた。お父さんが会いに来てくれたら、ずっと眠ったままのお母さんはきっと目を覚まして元気になってくれると思うの」
ローガンが真剣にエリシアの話を聞いている。
「お母さんが、お父さんはお仕事で遠くにいるから一緒に暮らせないって言ってたけど、本当は違うの、私知ってる。仕事なら手紙の一つも書けるでしょ。でも一回もお父さんから手紙をもらったことはない。お母さんもお父さんへ手紙なんて書いてないよ。きっとお父さんは知らないの。お母さんが頑張ってることや、私がいい子にしてること」
「いい子は子どもだけで遠くまで出かけたりしない」
ローガンが険しい顔をして言った。
「ごめんなさい。私が悪い子だからお母さんはお父さんに手紙が書けないんだね……」
エリシアが目に涙を滲ませるので、レオンは声を上げた。
「エリシアはいい子だ! 父親を探しに行こうって計画したのも俺だ! エリシアはアンネが倒れてからも、アンネの言いつけを守って、毎日無理してごはんを食べて吐いたんだ。そんな子が悪い子なわけがないだろう!」
「レオン、言葉遣い……!」
ローガンに話の内容ではなく敬語を使わなかったことを注意されて、レオンはイライラしながら「すみません」と謝った。
「とにかく。子どもだけで遠出するなんて危ないことは二度とするんじゃない」
ローガンの言葉に、レオンとエリシアは声を揃えて「ごめんなさい」と謝った。
エリシアがしょんぼりと俯いていると、ローガンは少しの沈黙のあと言いづらそうに小さな声で言う。
「…………エリシアがいい子なのはわかった」
悲しげだったエリシアの顔がパッと明るくなる。
「とりあえず、レオンの親とは一度話をしなければな」
じろりと睨まれ、このあと両親に盛大に叱られるのだろうと覚悟した。
「あとは……エリシアの母親にも会わせてくれ。できれば医者とも話がしたい」
◇
シギー家の屋敷に到着すると案の定、両親やバーバラたちが屋敷の前で右往左往していた。
レオンとエリシアは当然叱られ、特にレオンはロベルトから特大の雷を落とされ大目玉を食らった。
「男爵家の嫡男であるお前に何かあれば、お前をしっかり見ていなかった、バーバラたち使用人の首を切らなければならなくなるんだ! お前の行動が使用人の人生を左右する。そういう自覚を持って責任ある行動をしろっ!」
強く叱られ、レオンは大変なことをしてしまったと反省した。
遠出した経緯は自分たちで説明した。
「お父さんに会ったらお母さん元気になると思って」
エリシアが言うと、ミリアがワッと泣き出しエリシアを抱きしめた。向こうで起きた出来事などはローガンが説明してくれた。
そして、大人だけで話をしたいと、子どもはいつも通り奥の部屋へと放り込まれた。
「もう一時も目を離しませんからね」
バーバラが部屋の扉の前で腕を組んで立っている。
「心配をかけてごめんなさい」
バーバラにもエリシアと一緒に謝った。
「ご無事でようございました」
バーバラはよほど心配をしたのだろう。涙を流しながら二人いっぺんに抱きしめてくれた。
それから、大人の話は終わったとローガンが応接室から出てきた。
「エリシア、卿をアンネの病院へお連れしてくれないか?」
ロベルトが連れて行くのではないのか、と不思議に思ったが「俺も行く」とレオンもついて行こうとした。
「レオン、今日はもう遅いからお前は明日にしなさい」
ロベルトに言われ、今日はさすがに大人しく言うことを聞こうと諦めたが、ローガンが「エリシアが心配なんだろう。レオンも一緒に来ればいい」と言ってくれたので、レオンも行くことになる。
病院へ行っても、アンネはやはり眠っているだけだった。前見たときよりも痩せてしまっている。
「ローガンさま……私、本当はわかってるんです。お母さんはお父さんに会っても……元気にはならないって」
それはレオンも薄々感じていた。助からないと思うと、縋るものが欲しくて父親探しをしようと提案したのだ。もし奇跡が起きてそれで目覚めてくれたら良いと思った。
「でもっ……っ……うっ……」
エリシアは話しながら嗚咽を漏らし始めた。大きな瞳から涙がぽろぽろこぼれ落ちる。
それを見ていたレオンも目の奥が熱くなる。
「お母さんが……っ、お父さんにっ……会いたいって……」
アンネを見つめながら必死に話すエリシアを、ローガンは何を思って見ているのだろう。
「死んじゃう前に……うぅっ……っ、会わせてあげたくてっ……」
とうとうエリシアは「わーん」と上を向いて大きく泣き出してしまう。
「お母さーん……死んじゃやだよぉ……私を一人にしないでよぉー……っ」
そんなふうに泣くエリシアを見て、レオンも一緒に涙した。
すると涙を流すエリシアをじっと見ていたローガンが言葉を発する。
「父親のことは私がなんとかしよう」
「え?」
泣いていたエリシアは驚いた顔でローガンを見た。
「父親は私がエリシアの母親の元へ連れてくる」
アンネとは一番関係のなさそうな人物の言葉だった。
◇
それからエリシアはローガンと共に王都へ行くことになった。
ローガンがエリシアの手を引いているのを見ると、レオンは胸がもやもやした。
仕方がない。子どものレオンではエリシアの父親を捜すことはできない。ローガンが何とかしてくれると言うなら任せるしかないのだ。
エリシアのことを想うなら……。レオンはグッと拳を握る。
「レオン、私お父さん見つけてくるから」
「ああ! 探し出せたら、俺にも会わせろよ。一言モノ申してやる!」
レオンはそんな軽口を叩いてエリシアを送り出す。
「っ……!?」
ローガンとエリシアが並んで立って驚いた。二人ともダークブラウンの髪に青紫の瞳。どことなく顔立ちも似ているようで他人には思えない。
――ああ、そうか……
ローガンはきっとエリシアの父親を見つけてくれる。レオンはそんな確信めいたことを思いながら旅立つ二人に手を振った。
◇◆◇
エリシアに寄り添ってくれたレオンと離れることには不安があったが、ローガンは意外にもエリシアにずっとやさしかった。
ローガンはゼノビオ子爵家の当主で、エリシアを王都にあるゼノビオ家のタウンハウスへ連れてきてくれた。
「おい、ファリオス! ファリオスはいるか!!」
ローガンが玄関先で叫ぶ。
「はい、父上、僕はここにおりますが……──っ!?」
ファリオスと呼ばれた男性がやってきて、エリシアとローガンを見て大きく目を見開く。
――ファリオス……?
「ローガンさま、この人が……?」
「エリシア、まだ確証はない。メイドに部屋を用意させるから少し待っていてくれ。先に私が話をする」
「……わかりました」
驚くファリオスと呼ばれた男性をちらりと見てホッとする。優しそうだし格好良い。
「え? ち、父上……? そ、その子は……」
男性はエリシアを見て動揺を露わにしている。
ローガンは彼を無視してメイドを呼び指示を出し、エリシアは「行きなさい」と背中を押された。
彼の反応から、ローガンの息子であるとわかる。歳はロベルトより少し下だろうか。
それからエリシアはローガンの屋敷で過ごすことになり数日経過したが、いつまで経ってもローガンはエリシアに彼を紹介しなかった。
そしてエリシアはローガンに別件で話しかけられる。
「エリシア、母親の……アンネの転院が完了したようだから見舞いに行こう」
ローガンは母の治療は地方の小さな病院でするより王都の大きな病院でした方が良いと、転院の手続きを取ってくれた。医者を遣わせ、母は腕に点滴をし、鼻からチューブで栄養を取った状態で男爵領から移動してきた。
その日からエリシアは毎日ローガンと共に母の見舞いに行く。王都で最新の治療を受けられれば母の病気は治るかもしれないと期待もしたが、そんな簡単にはいかなかった。
前の病院で散々泣いた。エリシアはぎゅっと拳を握りしめ、涙を堪えて青白い顔の母を見つめた。
◇
屋敷に帰り食事を終え、寝支度を終えたころ。
「ファリオスさま?」
「っ……! エ、エリシア……」
廊下でファリオスと呼ばれていた男性に会った。外套を手に持つ様子を見る限り、今外出から帰ってきたところという感じだ。
「ローガンさまならお客さまがきててあっちのへやに……」
「そうか。ありがとう。エリシアはもう食事は済んだかい?」
背の高い彼は少し腰をかがめて威圧感の出ないようやさしく質問してくれた。
「うん……じゃなくて、はい。食べました。すっごく、おいしかった……です。ごちそうさまでした」
敬語を意識してペコリと頭を下げた。
「それは良かった。屋敷の生活で不便があれば何でも言って。できる限りのことをするから」
やさしく微笑まれて心が温かくなる。
「そしたら……あの……えっと……」
お願いしたいことがあるが、言っても良いものかと少し躊躇う。
エリシアが言いづらそうにしていることを察した彼はそばにいたメイドに「僕の食事の準備をするように厨房に言ってもらえるか?」と頼み、すぐにメイドは厨房へ向かう。
エリシアはメイドがいなくなったのを見届けてから言おうとした。
「えっと……あの……」
それでも言いづらく、エリシアは「やっぱり良い。メイドさんにお願いするから」と言った。
「ええ? ここまで焦らされたら逆に気になるじゃないか!」
彼はエリシアの前で片膝を突いて目線を合わせる。
「怒らないから遠慮せずに言って良いよ」
エリシアの手を取り目を見て言ってくれた。
ようやく言う決心ができ、小さな声で「寝るときに、手を握ってほしいの」と言う。
「へ?」
エリシアのお願いが想定外だったのか彼は目をぱちくりさせていた。
「そ、それは……メイドにお願いした方が……あっいや、いいよ! 君が寝るまで手を握ろう!」
彼が受け入れてくれてホッとする。
「もう寝るのかい?」
「はい」
「じゃあ、着替えてくるから待ってて」
エリシアが寝台に入って待っていると楽な服装に着替えたファリオスが扉をノックしてから入ってきた。
「よろしくお願いします」
横になった状態で手を伸ばした。エリシアの小さな手が大きな手に包み込まれた。
「メイドじゃなくて僕で良かったのかい?」
「はい。ローガンさまのお客さまがなかなか帰ってくれないから」
「父上の?」
よくわかっていない様子だったので説明する。
「ここまでくる間に泊まった宿屋でローガンさまは私が寝るまで毎日手を繋いでくれました」
「ええ!? ち、父上が!?」
彼は大きな声を出した後すぐに慌てて口を押えてトーンを落とす。
「ほ、本当に父上が毎晩君の手を握って?」
「はい。ファリオスさまはローガンさまと似てるから」
ローガンはエリシアにとても優しくしてくれるが、それがファリオスにとっては意外だったようだ。
「ファリオスさま。私が寝るまで繋いでてくださいね」
びっくりしていたファリオスだが、エリシアに話しかけられすぐに優しい表情をしてくれた。
「ああ。大丈夫だよ」
ファリオスの手は温かい。
母の手はいつも冷たくてエリシアが温めていたが、今日はファリオスに温めてもらっているような心地だ。
「一人は、怖いの……」
「うん」
ファリオスの手の温かさに眠気が襲う。
「一人ぼっちになりたくない……」
「大丈夫」
その大丈夫という言葉がエリシアの心によく響いた。
◇
「それでは、クーリュー病の治療方法はこの国にはないというのか……」
「ジファーレ公国で開発された治療薬あって、それをこの国でも認可を、と急いでるところですが……とても間に合いそうになく……」
応接室の前を通るとローガンとファリオスの会話が聞こえてぎくりとした。
――『もって二か月……といったところでしょうか』
男爵領で聞いた医者の言葉が頭によぎる。
あれから何日が経っただろうか? 『もって二か月』の時期はもう過ぎてしまったのではないかと、嫌な緊張が走る。二人の会話はあまりいい話ではなさそうで、急いでそこから離れて自室に向かい、深く考えないようにした。
「ファリオス! 話があります!」
屋敷に一人の婦人がやってきた。ローガンと同じくらいの年代の女性。廊下の陰から玄関の様子を覗いていたエリシアは何か動きのありそうな雰囲気にハラハラした。
すぐにメイドに「お嬢様はお部屋でお待ちくださいね」と促されて自室へ戻る。
そしてしばらくしてからローガンに呼ばれる。
説明される内容にずっと胸がドキドキしていた。一通りの説明が終わってから口を開く。大事なことを一つだけ確認するように。
「ファリオスさまがお父さん……?」
「ああ。エリシア。ようやく確認ができたんだ」
ファリオスが、先ほど来た婦人と目を合わせてから、彼女はエリシアを見てコクリと頷く。彼女の確認によって父だと断定ができたようだ。
「僕が君の父親だ。君がここに来るまでずっと、僕は君の存在を知らなかった。頼りなく、情けない父親で本当にすまない」
ファリオスの言葉にぶわっと顔が熱くなる。目に涙がたまっていく感覚がした。
顎を震わせポツリと呟く。
「おとうさん……」
すぐに溜めてた涙がつーっと一筋零れ落ちる。
――レオン、やったよ! お父さん、見つかった……! 見つかったよ。
この感動を一番にレオンに伝えたいと思った。
「ローガンさま……私はいい子にできましたか?」
エリシアが問うとローガンは「エリシアはずっといい子だった」と優しい目をして言ってくれた。
「お父さん知らないでしょ? 私はいい子だし、お母さんは頑張り屋さんだったんだよ」
エリシアが泣きながらへらりと笑うと、ファリオスはエリシアのことを抱きしめた。
「ああ。知らなくてごめん! これからいっぱい教えてくれ。エリシアのこともアンネのことももっともっと知りたいんだ……!」
ファリオスは膝をついてエリシアと高さを合わせてがっちりと抱いた。
エリシアはファリオスの腕の中で「ううっ」と嗚咽を漏らし「おとうさーん」と大きな声を上げてからワーンと強く泣き出す。
エリシアがひとしきり泣いたところでファリオスはエリシアの小さな肩を摑んで目を見つめる。
「エリシア……君は僕を父親だって認めてくれる?」
ファリオスの問いにエリシアは「うん」と頷いた。
「私、ファリオスさまに会ったとき、ファリオスさまがお父さんだったらいいのになって思ったの」
「なぜ?」
「ローガンさまは、私のお父さんがファリオスって名前じゃないかもしれないって言ってたけど、お母さんが眠りながら寂しそうに言ってたのはファリオスさま、だったから、どうせならお父さんはファリオスって名前の人がよかったの。それにね。かっこいいし優しそうな人に見えたから」
説明が難しいがファリオスは理解したように「そうか」と言ってくれた。
「エリシア。もう僕のことをファリオスさまだなんて言わなくていいよ。そうだな……お父さんという呼び方が呼びやすければそれでいい」
「うん。お父さん!」
ファリオス──父の言葉にエリシアは笑った。
「あと……エリシアがローガンさまと呼んでいた人は君のおじいさまになる。僕の父なんだ」
「おじいさま?」
「ああ。それと、彼女が僕の母で君のおばあさまだ」
婦人が「おばあさまよ。よろしくエリシア」と言うとエリシアは大きなまん丸な目をぱちぱちさせた。
そしてローガンを見て一言呟く。
「おじいちゃ……」
「おじいさまと呼びなさい」
「おじいさま」
ローガンは敬語や呼び方にうるさく、エリシアはたびたび注意されていたが、今回も言いかけている傍から注意された。
「ロ……おじいさま。お父さんと一緒にお母さんの病院へ行っても良いですか?」
「ああ。行っておいで、エリシア」
よかった。これで母に父を会わせてあげられる。
「おじいさま、おばあさまも一緒に行ってくれますか?」
エリシアは二人に聞く。
「でも……エリシアがアンネとお話をするのに私たちまで居たら、邪魔じゃないかしら?」
するとエリシアは「ううん」と首を振った。
「お母さんに新しい家族を紹介したいの。お母さんに私は一人じゃないよって安心させてあげたくて」
その言葉に祖母は目に涙を滲ませ「では、ご一緒させてもらおうかしら」と言った。
◇
「お母さん。今日はたくさんのお客さんが来てくれたよ」
「っ……!」
エリシアが皆を病室に案内して寝台で横たわる母に声をかける。
母の病状はどんどん悪くなっている。倒れてすぐも青白い顔をしていたが今では死んでしまったのかと思うほどに真っ白な顔になった。頬はこけて、髪の毛にはハリがない。掛けられたリネンから点滴を通すために出された腕はやせ細って、鼻には管が通されている。栄養を摂るための管らしい。
母を見た父と祖母が信じられない様子で息を呑む。
「お母さん、私のおばあさま。知ってる?」
「ええ。エリシア。アンネは私のことを知っているわ」
祖母は母に近づき声をかける。
「アンネ。久しぶりね。いつか、あなたとはまた会いたいと思っていたけど、こんな再会になるなんて……っ……」
祖母は堪えきれずに涙を流し始めた。
「アンネっ……。頑張らなきゃ……っ、頑張らなきゃダメよ。こんな小さな子を置いていくなんて……、私っ……許さないわ……」
祖母が涙を流すものだから、つられてエリシアも泣けてしまう。目元を袖でごしごし拭って、すぐに切り替えるように前を向く。
「そして……お母さんにビッグサプライズ! なんと今日はお父さんが来てくれているんだよ! ほら、お父さん来て!」
呆然と母を眺める父の腕を引っ張った。
「ほら、お父さん……! お母さんに何か、話をして!」
「あっ……うん……えっと……」
言葉がうまく出てこない様子の父は一言「アンネ」と呼ぶ。
そして少しの沈黙。
「すみません。父上と母上は、一度部屋から出ていてもらえますか?」
祖父母は顔を見合わせ「行こう」と部屋から出てくれた。
「お父さん、私は良いの?」
「いいよ。エリシアには聞いてもらいたい」
父は母の寝台の前で膝をついて母の細くなった手を両手で握る。
「アンネ……。こんなに痩せてしまって……」
元の母を思い出しているのだろうか。すごく悔しそうな表情だ。
「アンネ。会いにくるのが遅くなってごめん。ファリオスだ。昔一度君を見かけたのに、君には新しい家族がいるものだと僕は勘違いをして、君にもエリシアにも会わずに逃げ出した。そのせいでエリシアにたくさん寂しい思いをさせてしまったんだ。すべては僕のせい。ごめん……」
握った手を額に当てて懇願するように謝罪した。エリシアにはよくわからなかったが大人の事情があったようだ。
「君が僕に会いたがっていたって話を聞いたよ。本当にそう思ってくれていたならすごく嬉しい。僕もずっと君に会いたかった」
今度は握った手を優しく撫で、心を落ち着かせるよう息を吸う。
「アンネ、君を助ける方法を探してる。必ずなんとかするから。だから……っ、お願いだから死なないでくれ。目を覚まして、アンネ……二度と君を失いたくないんだ……」
父の目からもポツと涙が零れていた。
「アンネ。愛してる……ずっと……ずっと……愛してる……」
エリシアはまた目元をごしごし拭ってから「ほら、お父さん」と父の腕を引っ張った。
「お父さん! お母さんにキスして! キスで目が覚めるんだから……!」
「えっ……」
物語では眠ってしまったお姫様は王子様のキスで目覚めるのだ。
エリシアのお願いに父は逡巡するが、すぐに心を決めてくれた。
「そうだね。キス……しよう。えっと……さすがにお父さんもエリシアに見られるのは恥ずかしいから、目を瞑っていてくれるか?」
「うん。こうでいい?」
エリシアはすぐに目を瞑る。
何かが動く感じがした。きっと父が母に口づけてくれたのだ。
「いいよ。エリシア」
「キスした?」
「うん。したよ」
エリシアはじっと母のことを見つめ、父も母を見つめた。
目を覚まして。そんな気迫の漂った顔でエリシアは母を無言で二分ほど見つめていた。
それでもなんの変化も訪れず、エリシアはもう二分ほど母を見つめて変化を待つ。
いつまで待っても何も起きない。もう限界だった。
「お母さんっ……起きないよぉっ……! お父さんっ、来てくれたのにっ……お母さんっ! 起きてよぉ」
本当はわかっていた。母が父に会っても病気が治ることはないと。そんな奇跡みたいなことで簡単に母が元気になるなんてことはないとわかっていた。
それでも奇跡が起きる可能性を信じたかった。
エリシアが泣いていると父がぎゅっと抱きしめてくれた。
「エリシア……! アンネは絶対に死なせない。アンネが助かる道を探しているから……! 必ず、アンネを助けるよ」
「お父さんっ! お父さんっ! うわぁーん」
エリシアは大泣きして父にしがみつく。
父はエリシアの悲しみを受け止めるようにしっかりと抱きしめてくれた。
◇
病院を出ると父はやることがあると言って別れ、エリシアは祖父母と一緒に屋敷へ戻る。
そして夜遅くに帰ってきた父は何やら祖父母と話をしていた。エリシアはメイドに「さあ、もう寝ましょう」と促されて寝台に入る。
手が冷たい気がしたが、皆たぶん大事な話をしているのだ。エリシアは寝台の中で蹲って涙を堪えて一人眠った。
翌朝すっきりした表情の父に言われた。
「エリシア、アンネを治す方法を見つけた。長旅になるけど一緒に来てくれるかい?」
「お母さん……治るの……?」
最期のときまで可能性を信じたかったが、ずっと不安だった。無理だと思いたくないのに、無理だと思ってしまう瞬間があった。
まだ可能性を信じても良いと言われて心が震える。
「ああ。ちょっと遠いが、アンネの病の治療薬を投薬できる国があるんだ。僕はアンネを治したい。できることすべてをして彼女を救い出したい」
「行く……私、長い旅でも大丈夫……!」
父はやさしくエリシアの頭を撫でる。
「父上から聞いてるよ。男爵領からここへ来るときも、わがまま言わずにいい子にしてたって」
「今度もいい子にできるよ!」
エリシアが張り切って言うと父は「よし」と頷く。そしてすぐに準備が進められてエリシアは旅立つ。
「さあ、行こう。エリシア。僕たちが向かうのはジファーレ公国だ」
「うん」
◇
病床に伏している母を乗せた馬車は公国へ向かってゆっくりと進む。母は医療器具と主治医を乗せた馬車に乗り、父とエリシアは一つ前を走る馬車に乗っていた。
父が事前連絡をしていたおかげで公国にはすんなり入国でき、病院へ着くとすぐに病室へと運ばれた。
主治医と公国の医者、父とで話をするから、とエリシアは別室で待つように言われる。
しばらくすると父が戻ってくる。
「どうだった?」
「あ、うん。大丈夫。治療薬は投薬してもらえるよ」
「よかったぁ!」
エリシアは喜んだが、父はどこか浮かない顔だ。まだ心配事があるのだろうか。
◇
「お父さん、お母さんの点滴なくなりそうだよ」
「わかった。今新しいのを持ってくるよ」
父は看護師から渡されている新しい輸液剤を持って母の元へ向かう。
「お父さんできる? 看護師さん呼ぼうか?」
「大丈夫。できるさ」
父は看護師から教えてもらった手順で輸液バッグの交換をする。
「そろそろ身体を動かして向きを変えようか」
「うん。私も手伝う」
「ありがとう。エリシア」
寝たきりの母は身体を動かすことができないので筋肉が拘縮しないよう、適度に動かしてやる必要がある。
「お母さん、触ってもいい?」
エリシアが母に声掛けをするが反応はない。
エリシアは一度だけ目元を拭ってから、すぐにまた声掛けをする。
「お母さん、腕、触るね。動かすよ」
エリシアは母の腕を掛けてあるリネンの中から取り出し、ゆっくりと曲げ伸ばしをするように動かした。
「お父さん、できたよ」
「ありがとう、エリシア。じゃあ身体の向きを変えてあげよう」
動かない母が床ずれを起こさないように眠る体勢を変える必要がある。
「アンネ、少しごめんね。向きを変えるよ」
父も母に声を掛けてから身体に触れて体勢を変えてやる。
だが、母の反応はやはりない。
公国に来てクーリュー病の投薬を始めてからもう二か月この状態である。
投薬をしてすぐに治ると思い込んでいたエリシアは、投薬を始めて一週間くらいで母に変化が現れないことを不安に思って父に聞く。
「ねえ、なんでお母さん起きてこないの? 病気のお薬もらえたんじゃないの?」
「エリシア。薬を入れてもらったからといって、すぐに良くなるわけじゃないんだ。ゆっくりと効く薬なんだよ。ほら、アンネの手を見てご覧。前は指の一部が変色していたけど、治ってきているだろう?」
「本当だ! お薬効いてるんだね!」
父が母の手を取ってエリシアに見せてくれて安心した。
一時は不安が消えたエリシアだったが、さらに一週間したころに再び不安を口にした。
「ねえ、お父さん。そろそろお母さん起きるかな?」
「どうだろう」
「お母さん、いつ起きるの?」
病院の近くの宿に泊まって、毎日母の様子を見に来ている。
エリシアは「今日こそは起きるかも」「今日は目が開くかも」そんなふうに期待をしながら病院へ来て、「今日もダメだったね」「お母さん起きなかったね」と落胆して宿に帰った。
「ごめん。エリシア。アンネがいつ起きるのかは医者でもわからないんだ……お父さんにもわからない……」
「……」
エリシアは泣きそうな顔で唇を引き結んで母の片手を摑んで、じっと見つめた。父が浮かない顔をしていたのは医者からいつ目覚めるかわからないと言われたからなのだと察した。
そのときだった。
母の反対の手の指がピクリと動いたのだ。
「っ!?」
間違いない。エリシアと父は同時に反応し、二人で目を合わせた。
「お、お父さんっ……!」
「い、医者を……! 医者を呼んでくる!!」
父は急いで医者を呼びに行って、母が動いたことを伝えた。
すぐに医者がやって来て、母の様子を診てくれた。
エリシアは期待に興奮してたが、医者の表情は良いものではなかった。
「脊髄反射といって、脳を経由せずに意志とは関係なく何らかの刺激に反応して動いたものですね」
どうやらエリシアが手を握ったことで意志とは関係なく指が動いただけらしい。
「お母さん、起きるんじゃないの?」
言葉の意味は分からなかったが、医者の反応から喜ばしいような動きでなかったことはわかった。
「起きようとしている兆候は見られませんでした」
父に聞いたが、医者の方が答えてくれた。
エリシアは目にいっぱいの涙を溜め始める。
父が診てもらった礼を言うと、医者は「失礼します」と言って部屋から出た。
「お母さんっ……っううっ……まだ目が覚めないんだね……」
エリシアはしくしくと泣き出す。
「ああ。僕も期待したけど、まだだったみたいだね」
「ううっ……ふえっ……うぅっ……」
父が腕を広げたので、エリシアはすぐに飛び込んできて父の腕の中で泣き叫ぶ。
毎日期待と落胆を繰り返して精神的な疲労が大きかった。エリシアの堪えていたものが堰を切ったように溢れ出す。
そんなエリシアを父はしっかりと抱きしめた。
「私が良い子じゃないからダメなのかな……もっと良い子にならなきゃダメなのかな……」
「違うよエリシア。エリシアは長旅でもずっと良い子だったし、僕に気を遣ってわがままを言わないように呑み込んできたのも知ってるよ。そうじゃなくて違うんだ。アンネは……アンネはずっと頑張ってきたから、まだ疲れてて寝ていたいんだよ」
「うんっ、おかあさん……っうっ、ずっと頑張ってた」
父はエリシアの頭を自身の胸にぐっと押し付けた。
「うん……エリシア……病院の近くに屋敷を借りようか。宿屋じゃなくて屋敷で暮らそう。家のことは僕にはできないからメイドを雇うけど。それならアンネが目を覚ますのをゆっくり待っていられるだろう? ジファーレの公都には教会もあるし大きな書店もある。毎朝教会でアンネが目覚めますようにと祈りを捧げてから、書店で本を買うんだ。そして本を読みながらアンネの様子を見守ろう。看護師のやっているような、アンネの顔を拭いてあげることなんかは僕たちでもできるから。エリシア、僕たちでやってあげよう。他にも僕たちでできそうなことがあればしてあげよう。そうしてる間にアンネは起きたい気分になるかもしれない」
ファリオスがそう提案するとエリシアは何度も「うん」と頷きファリオスにしがみつく。
「でもね。エリシア。たとえアンネが起きなくても、アンネを責めたらだめだよ。もしかしたらアンネは起きたいのに起きられないのかもしれない。ずっとアンネが起きられなくても、きっとアンネには僕たちの話は全部聞こえてる。僕たちの喜びも悲しみも全部伝わっている。アンネはエリシアを愛しているし、エリシアもアンネを愛してる。それは眠っていても起きていても変わらない。僕も眠ったままのアンネでも愛し続ける。わかるよね、エリシア」
「うん……! うんっ、うう……っ、わかる。わかるっ……!」
「焦らず、ゆっくりと待とう。いつ目覚めても良いように。毎日……っ毎日……アンネの顔を見に来よう……」
話し終えるころには父の目にも涙が滲んでいた。
◇
エリシアは毎朝、父と教会で祈りを捧げてから書店に寄る。エリシアの読む本を買って母の病院へ行く。
昼はメイドに弁当を用意してもらっているので、病院の談話室でそれを食べて過ごす。
エリシアは父とできる範囲で看護師の手伝いをすることにした。母にも見られたくない範囲はあると思うが、そこは看護師が上手く配慮してくれている。
そして、もう二か月この生活を続けているが、母はまだ目覚めない。
エリシアは今日は落ち着いているが、期待と落胆を繰り返し、ストレスを溜め込みたまに爆発したように泣き叫ぶ。そのときはエリシアの気持ちを受け止めるように父はエリシアを抱きしめてくれる。荒れているときはドンドンと胸を強く叩き、当たってしまうこともあるが、父はそれでもエリシアのことを抱きしめ続けた。
「さあ、エリシア。今日はこれくらいにしてそろそろ屋敷に帰ろうか」
「帰る前にお手洗いに行きたいから待ってて」
「わかったよ」
エリシアは毎日帰る前にお手洗いに寄っていく。行きも出かける前にお手洗いに行く。そういう習慣なのだ。
さっさとお手洗いから戻ってきたエリシアは部屋の扉の前で少し待つ。
「アンネ。今日はもう帰るよ。また明日くるから。エリシアには君の目覚めをゆっくり待とうって言ったけど、本当は僕が一番待てないんだ。目覚めなくてもずっと君を愛し続ける。この想いに嘘はない。だけど、やっぱり君が目覚めてくれた方が僕は嬉しい。エリシアもその方が喜ぶし……」
父の声がそこで途切れ、少ししてからまた聞こえる。
「愛してる。アンネ……」
それからもう少し間を開けてエリシアは「お待たせ」と部屋に入る。
「行こうか。アンネ! また明日」
「お母さん。おやすみなさい」
このとき母の睫毛がわずかに動いていることには誰も気づかなかった。
◇
翌朝祖父母がエリシアや母の様子を見に、公国へと来てくれた。
「おじいさま、おばあさま! これからお母さんの病院へ行くんです。一緒に行きませんか?」
「では、ご一緒させて頂こうかしら」
「病院へはここから歩いてすぐなんです!」
エリシアは張り切って祖父母を病院へと案内する。
皆で途中の花屋で母へのお見舞いの花を買って病室に行った。
「お母さん! おじいさまとおばあさまが来てくれたよ」
「アンネ、こんにちは」
祖母が母に近づき声を掛ける。
「私、花瓶に水を入れてくる!」
エリシアは病室の備え付けの棚から花瓶を取り出し洗面室へと向かった。
「エリシア、手伝いましょうか?」
祖母が声を掛けてくれた。だがエリシアは「大丈夫!」と一人で花瓶を抱える。
「気を付けるのよ」
「うん! きゃっ……!」
大丈夫と言ったエリシアだったが花瓶を手から滑らせてしまった。
ガチャーンと部屋に陶器が割れる音が響いた。
「あら! エリシア怪我はない?」
すぐに祖母が駆け寄って、エリシアが「ごめんなさい」と謝った。
また失敗をしてしまった。「手伝おうか?」と聞かれて「一人で大丈夫」と断り、結局失敗して「ごめんなさい」と謝ることはよくあること。
毎回反省をし謝罪をするが、次は大丈夫だと思って一人で無理をしてまた失敗をする。しょんぼりしているといつも父が「気にしなくていい」と慰めてくれる。
「気にしなくていいわ。それより破片が危ないから、エリシアは離れなさい」
そう言って祖母はすぐに廊下に待たせていたお供のメイドを呼んで、メイドと二人で割れた花瓶を片づけ始める。
メイドは新しい花瓶を買いに行くと申し出てくれて祖母は「悪いわね、よろしく」と頼んでいた。
全ての片付けが終わったころ、何か声にならない声が聞こえた。
「っ!?」
皆が一斉に聞こえた方へ顔を向ける。
声は小さすぎて、聞こえたのは声ではなく誰かの吐息だったのかもしれない。だけど皆顔を見合わせているということは同じ言葉が聞こえたはずだ。「だいじょうぶ……エリシア……」と。
皆が大きく目を見開いて母を見る。母の口がわずかに動いているだろうか。
もう声は聞こえない。だが皆聞いた。
「い、医者を! わ、私が呼んで来よう!!」
すぐに祖父が部屋を出た。
そして祖父と一緒に医者が病室へと入ってきた。
先ほど聞こえたのは本当に母の声だったのかは定かではないが、少なくともまだ唇がわずかに震えている。
これが以前のような脊髄反射のものなのか、母の意志によるものなのか。医者が注意深く母の様子を診ていく。
期待しすぎると、また以前のようにショックが大きくなる。
これで目覚めなくても、落胆なんてしない。そう強く思いながらエリシアは表情を硬くして医者の判断を待った。
「すごい! もうすぐ意識が戻るかもしれませんよ。そういう兆候が見られます……!」
「っ……!」
医者の話ではエリシアの花瓶を割った音が刺激になって目覚めの兆候へと繋がった可能性が高いらしい。
「あ、あの! お母さん、どうしたら起きますか? いつ起きますか? まだ何日も待ってないとだめですか? 腕引っ張っても良いですか?」
エリシアがずいっと医者の前に出て質問攻めにするので、父が「すみません」と謝りエリシアの肩を軽く摑み後ろへ引く。
「いつ起きるかはわかりません。腕を引っ張るのも良くないです。でも目覚めようとしている兆候は見られるので、軽い刺激を与えるのは良いかもしれません。声掛けや、軽く触れてやるのは構いませんから」
「……キスっ!」
エリシアはハッとしたようにそう言い「すみません、みんな廊下に出てください!」と医者と祖父母を引っ張り病室から追い出す。
エリシアの突然の行動に「えっ? えっ?」と不思議に思いながらも皆廊下に出てくれた。
「これでオッケー! お父さん! お母さんにキスして?」
父は一つため息を吐く。
「エリシア、そんな強引にしたらみんなびっくりするだろう」
「でもさ、お母さん起きるかもしれないんだよ! みんな居たらキスできないでしょ? 早くお母さんにキスして!」
エリシアは父を急かした。
「…………でも、エリシア……それは前にも試したけど、ダメだったじゃないか。今度もアンネは目が覚めないかもしれないよ」
「わかってるよ。お父さん。これでお母さんが起きなくても、私、泣いたりしないから!」
エリシアは意思を強く持って父に目を向ける。
父はその目を見て頷いた。
「わかった。やってみよう」
父はすうっと息を吸う。
「もしかしたら、君はこの現状に怒るかもしれないね」
父が母に話しかける。きっと母との結婚のことを言っているのだろう。難しい話でエリシアには理解できなかったが、母がここで治療を受けるために父と母は結婚の手続きを取ったらしい。
「それなら、起きて僕に直接文句を言ってくれ。眠ったままだと全て良いように解釈してしまうよ。眠ったままでも僕の想いは変わらない。だけど……目覚めてくれたら嬉しい」
父はゆっくりと母に近づいた。
「アンネ……愛してる」
そっと母に口づける。
――目を覚まして……!
その様子をじっと見つめて願った。
「あっ!?」
エリシアは驚き大きく声を上げた。
「ちょ、エリシア! 目を瞑っていてくれないと……!」
父はビクッと肩を揺らしてすぐに唇を離してエリシアの方を向く。
父に注意されるがエリシアの視線は父ではなく母に向いたまま。目を見開いたまま固まった。
「あっ……あっ……お、おかあ、さんっ……」
「え?」
母の瞼がぴくぴくと動いていた。それに気づいた父は叫ぶ。
「アンネ! アンネ!」
父が母を起こそうと声を掛ける。
「エ、エリシアも声を掛けてあげて!」
父に腕を引っ張られて母に近づく。
「おかあさん……お、お母さん!! 起きてっ!」
エリシアが強く母を呼ぶと、ゆっくりと、ものすごく長い時間に思えるほどひどくゆっくりと、母は重たい瞼を開いたのだ。
「お母さんっ!」
母の瞳がゆっくりと左右に動き、エリシアはグイッと身を乗り出して母の正面に自分の顔を持っていった。母の瞳が細くなる。
「…………」
唇をゆっくり動かし吐息を溢したが、声にはなっていない。
「っ!」
だが、エリシアには先ほど同様ハッキリ聞こえた。「エリシア」と母の呼ぶ声が。
「医者を呼んでくる!」
父にも聞こえたようで、父はすぐに廊下にいる医者を呼ぶ。
「アンネが……アンネの目が覚めました……!」
「っ……!」
すぐに医者が入室し、祖父母の「よかった」と安堵する声が聞こえた。
「私たちはいいわ。私たちがいたらアンネがびっくりすると思うから。ゆっくりと説明できるタイミングになったらまた会わせてちょうだい」
「じゃあ、屋敷で待っててくれ。帰ったら、どうだったか教えるから」
「わかったわ……ファリオス……しっかりね」
「はい」
開いたままの扉からそんな会話があった。
医者が母に何やら声を掛けながら母を診てくれている。
母はぼんやりした様子だったが、目は開いていた。
医者はまた少し時間をおいてから診察するからひとまず「いいですよ」と場所を譲ってくれた。
母の目は重たそうで再び閉じてしまうのではとエリシアは慌てて顔を覗き込んだ。
「お母さん! 寝ちゃダメ」
エリシアが顔を覗くと母はまた瞳を細める。
「お母さん! お父さんだよ! 会いたいって言ってたでしょ?」
「アンネ! 僕だよ。ファリオスだ!」
父が母の顔を覗き込む。
母の瞳は動揺したようにわずかに左右に動いた。
「…………」
かすかに「ファリオス様……」と聞こえた気がする。
「そうだよ。ファリオスだ」
父の目にも涙が溜まっている。瞳を小さく揺らしながら何度も「アンネ、アンネ」と呼び、母に向かって微笑む。
「お母さん、お父さんに会いたいって言ってたから、会わせてあげたかったの。お母さんのためにお父さんを探しに行ったんだ」
余計なお世話だったらどうしよう、と急に不安に襲われる。
母の本当の気持ちはエリシアにはわからない。
だが……
――ああ。大丈夫だ……
母の表情はほとんど動いていないが、嬉しそうに微笑んでいるように見えた。そして目からは涙が溢れている。
疲れてしまったのかそれからすぐまた母は眠ってしまった。
医者が、しばらく寝たり起きたりを繰り返すから大丈夫だと説明してくれて安心した。
翌朝は父と二人で母の元へ向かった。
しばらく様子を見ていると母は目を覚ます。「お母さん起きたよ!」と父を呼ぶと父は母に挨拶をする。
「アンネ……おはよう、寝られたかい?」
母は身体を動かせないので、父は母の顔を覗き込む。
「ごめん。僕がいて、びっくりしてるよね。えっと……いろいろあって、説明もしてあげたいんだけど、話が長くなるんだ……」
母から返事はないが……
「そうだよね、知りたいよね。でもさ、病人の君に負担を掛けるわけにはいかないから、とりあえず、大事なところだけ」
父は母の気持ちを察して話し出す。
「今、僕はエリシアと二人でこのジファーレ公国に住んでいる。毎日君のお見舞いに来るために近くの屋敷を借りたんだ。君からエリシアを奪うつもりはない。君が回復するまでの一時的な親代わりのつもりだ。そりゃ、代わりじゃなくて、本当の親になりたいとは思うけど、それはちゃんと話し合いが必要だと思うから、また君の身体が回復してから考えよう。それと、僕はずっと君に会いたかった。こんな形での再会になってしまったけど、君に会えてすごく嬉しい。できればこれからも一緒にいたい……」
エリシアも父が母と一緒にエリシアのそばにずっと居てくれたら嬉しい。
だが、父は強引には事を進めない。エリシアにもいつも意思確認をしてくれた。父のそういうところがすごく好きだ。
「ごめん。自分の想いを伝えたくて先走り過ぎた。他にも説明しないといけないことがいっぱいなのに……」
母の答えはないが、顔も身体も動かせない母が瞳を潤ませ嬉しそうな顔をしていたのは気のせいではないと思う。
それからまた医者の診察があり、記憶の欠落等の判断はつかないが脳には異常がなく、時間はかかるがこれから身体は回復してくるだろうということで、父はホッとした様子を見せていた。
そしてまた三人になると父は母に「身体を動かそうか」と提案する。筋肉の拘縮のことを説明すると理解したように母はほんのわずかに首を動かす。
「あっ! 私がやる」
エリシアは母の前に出て母の腕を取り出し、ゆっくりと動かした。
「いつもエリシアがやってくれていたんだよ」
父がそう説明すると母の口が動く。
「ありがとう……エリシア……」
初めて母の声が音になった気がした。
掠れているし、物凄く小さいけれど、ちゃんと聞こえた。
すぐにエリシアは笑った。目元をごしごしと袖で拭う。
「どういたしまして、お母さん」
満面の笑みで応えてくれる。そしてそんな様子を父が目頭を押さえながら見ていた。
◇
それから母は順調に回復した。ひと月で会話は普通にできるようになり、ゆっくりとだが身体も動かせるようになる。
「ねえ、見てお母さん! お父さんがこの本とこの本とこの本買ってくれたの!」
「まあ、いっぱい買ってもらったのね」
「うん、それでね。この本はお姫さまが出てくるんだけど、実は魔女でね……!」
エリシアが読んだ本を紹介して、母が「うん、うん」とそれを聞く。
それを父がニコニコしながら見守っている。
話が途切れたところで母は父の方を見た。
「ファリオス様……」
目が覚めてすぐのとき以降、母は初めて父を呼んだ。
「アンネ」
顔を強張らせる母とは逆に父はとても柔らかく微笑む。
「そろそろ説明をしてもらいたいのですが、良いでしょうか?」
父は軽く頷きエリシアの方を向く。
「エリシア、アンネと話がしたいから談話室で本を読んでてくれるかい?」
「大人のお話だね! わかった。ちゃんといい子にしてるよ」
「ああ。そうだね。勝手に遠くへ行ってはいけないよ」
エリシアは「わかってる! 大丈夫だよ」と言いながら本を持って部屋から出た。
母の声は硬かった。いろいろ心配事があるのだろう。
――でも……大丈夫だよ……お母さん……
エリシアは知っている。母の敵はいないのだ。皆が母のために動いていた。
エリシアの周りは愛に溢れている。
母も早く父の溢れ出る愛を知ってほしい。
――上手くいくといいな……!
◇
それからしばらく父と母の間でも物語があったようだが、母とエリシアも今後、父の家であるゼノビオ子爵家で暮らしていくことが決まった。
母は次期子爵夫人として、エリシアは子爵令嬢としての勉強を、切磋琢磨して頑張った。
母の病気は完全に治ったようで、あれから身体の不調は一切ない。そして父が細すぎる母を心配し、たくさん食事を与え母は順調に健康な肉付きへと戻っていった。
何度か手紙は出していたが、子爵家での生活に慣れたころ、エリシアは両親とシギー男爵家へ向かった。
「アンネー!」
一番に母に抱きつき涙を流したのはシギー男爵家次男のミカだった。
「治って良かった!」
ミカは母にしがみついてワンワン泣いていた。
「そんなにくっついたら夫人の服が濡れるだろう」
そう言ってミカを母から引き離したのはシギー男爵のロベルトだった。
「ロベルト様、ご迷惑とご心配をおかけし申し訳ございませんでした」
母は深々と頭を下げた。
「本当に心配した。病気が治ってよかった。それに君もエリシアも一番良い形になったみたいで……」
ロベルトがエリシアと父を見て、父が前に出た。
「長らく、妻と娘がお世話になり、ありがとうございました。そして、不出来な僕のせいで大変なご迷惑をおかけし、申し訳ございませんでした。それと……今後のことも……」
父もロベルトに深々と頭を下げる。
「ファリオス殿、頭を上げてください! 事情はゼノビオ子爵からお聞きしておりますし、アンネとエリシアが望むなら、私たちは引き止めたりなどしませんから」
「ありがとうございます」
ファリオスがもう一度頭を下げたので、アンネも一緒に頭を下げた。
エリシアが泣き止んだミカに話しかけた。
「ミカ、まだ泣き虫のままだったね」
エリシアがニヤニヤとミカを見て、ミカは目元を拭う。
「もう……うるさいっ」
ミカがぷうっと頬を膨らませるとエリシアは「でも」と続ける。
「私、ミカよりもいっぱい泣き虫だった。ミカのこと言えないみたい」
エリシアがふふっと笑うと、ミカも「なーんだ」とクスクス笑った。
「アンネ……!」
次に母に抱きついてきたのは男爵夫人のミリアだった。彼女も目に涙をいっぱい溜めて母の無事を喜んだ。
「ミリア様。本当に長いことお世話になりました」
「アンネ、これからは貴族夫人同士だから、私たちはお友達になるのよ」
母はミリアに「はい!」と笑顔を向けた。そんな様子をバーバラが目元を拭って見守っていた。
「アンネ……」
シギー男爵家長男のレオンが心配そうに母に近づく。
「レオン様……。目の前で倒れてしまって、怖い思いをさせてしまい本当にごめんなさい。もう大丈夫ですから」
「本……まだ修理に出したままなんだ。一緒に取りに行ってくれるか?」
「はい……! 参りましょう」
母が父に目を向けると父が頷いていたので母はレオンと一緒に書店へ向かう。
母が倒れたとき、レオンはずっと自責の念に駆られていたので心配だったが、本を受け取り戻ってきたレオンはスッキリしたような表情をしておりエリシアはホッとした。
男爵家で一泊世話になってから子爵家に帰る。
「エリシア、俺は立派な貴族になるからお前も頑張れよ」
「うん、レオン……また会えるよね?」
「当たり前だろ」
別れのとき、レオンとエリシアはそんな会話をした。
◇
父と母は書類上結婚を済ませているが、式は挙げていないので、半年後に結婚式をすることになった。
たくさんの貴族を呼んで王都で盛大に、ということはなく、領地の屋敷でごく近しい親族と使用人で小規模な挙式を行うことになっているらしい。
結婚式の前夜、母は以前のように寝る前にエリシアの手を繋いでくれた。
少し冷たい母の手をエリシアの手で温めてあげるのだ。
「お母さま、おやすみなさい」
淑女を目指すエリシアはもう母を「おかあさん」とは呼ばない。
結婚式の準備はエリシアも手伝っている。式前日の今日はくたくたで母の手が温まるころにはもう寝入っていた。
「エリシア……いっぱいつらい思いをさせてごめんね……。ここは小説『虐げられた令嬢は辺境伯に溺愛される』の世界。私は病気で死亡予定のドアマットヒロインの母。子爵家でメイドをしていた私は、身分違いの恋に怯え、私の死後、後妻と義妹にあなたが虐げられる未来に怯え、ファリオス様のことを疑い、彼の元から逃げ出した。でも……エリシア……あなたのお陰で未来が変わった。私のためにファリオス様を探してくれて本当にありがとう。あなたが虐げられる未来もなくなったわ。ただ……小説のヒーロー、レオナルド・ノルダー辺境伯との出会いを潰してしまったことだけが心残りだけど…………」
そんな母のひとり言は熟睡しているエリシアには届かない。
そして迎えた結婚式。
シギー男爵家の皆も来てくれ、父と母は大切な人たちに見守られながら青空の下、領地内の教会で永遠の愛を誓う。
「お母さま、すっごくキレイでかわいい……! お父さまも格好良い!! こんなにステキな人たちが私の両親だなんて、私って幸せ者!」
エリシアは式の後のガーデンパーティーでうっとりと母のウエディングドレス姿と父の正装姿を眺めて幸せに浸った。
「私もいつかお母さまみたいな素敵な花嫁になれるかな?」
「なれるわよ」
母はそう言ってくれた。
「ブーケトスって私がキャッチしても良いのかな?」
エリシアはソワソワしながらブーケトスの準備をする母を見る。
「身内や使用人ばかりのパーティーよ。娘だからって別に遠慮しなくても大丈夫」
祖母がそう言ってくれたので、エリシアは「よかった!」と喜んで前へ出る。
そして母はゲストに背を向けて、後ろに向かって思いっきりブーケを投げた。
母の投げたブーケは綺麗に弧を描いて、スポッと腕の中へと入った。
……レオンの腕の中に……!
「俺かよっ!!」
ブーケキャッチのために前に出ていたわけでもないレオンの目の前にブーケが落ちていき、レオンは落としてはいけないと、手を出してしまったようだ。
「えー! レオンずるいー……!」
エリシアは羨ましそうにレオンの腕の中にあるブーケを見た。
「エリシア欲しいのか?」
レオンに聞かれて「うん」と答える。
「だってブーケがゲットできたらお嫁さんになれるんだよ?」
「エリシアは花嫁になりたいのか?」
エリシアは満面の笑みをレオンに向ける。
「うん! お母さまみたいな幸せなお嫁さんになるのが夢なの」
幸せなそうな母の様子を見て憧れを抱いた。
「じゃあ、これ」
レオンがキャッチしたブーケをエリシアに差し出し、エリシアは目をパチパチさせた。
「やるよ」
「え? いいの?」
「ああ、俺よりもお前が持ってる方がよく似合う」
レオンが持っていてもよく似合うとは思ったが、エリシアはそれを言わずに受け取る。
「ありがとう!」
エリシアが嬉しそうに手に取ると、その瞬間にレオンが言う。
「俺が花嫁にしてやるから!」
「え?」
「俺は将来、辺境伯になる。お前を迎えにいける年齢になったら必ず俺がお前を花嫁にしてやる」
「えっ!?」
驚きの声を上げたのは母だった。
レオンの母、男爵夫人のミリアが説明してくれる。
「実はね、シギー男爵家はノルダー辺境伯家の遠縁にあたるのだけど、辺境伯家に子がいなくて、うちに養子の話が来たのよ。ほら、うちは息子が二人でしょう?」
どうやら始めはミカに話があったようだが、辺境伯が行動力のあるレオンの性格を気に入り、レオンを養子に欲しいという話になったようだ。
下級貴族の子女が高位の貴族の養子になるなどよくあること。レオンが良いならと、とシギー男爵夫妻はそれを了承したらしい。
「ミ、ミリア様……? レオン様のお名前って……もしかして、愛称でした……?」
「あれ? 言ってなかったかしら? レオンはレオナルドって名前なの」
母とミリアがそんな会話をするうちに、レオンがエリシアの前で跪く。
「エリシア・ゼノビオ嬢、近いうちにレオナルド・ノルダーが婚約の申し込みをするので、ぜひ受けていただけませんか?」
エリシアの片手を取ってレオンが懇願する。
エリシアは以前読んだ灰かぶりのお姫様の物語を思い出す。
その絵はまさにヒロインに求婚を申し込むヒーロー。
「俺がお前をアンネ以上に幸せな花嫁にしてやるよ!」
レオンはニヤリと笑った。
「はい! よろしくお願いします」
リーン──ゴーン──と幸せの鐘の音が降り注ぐ。
エリシアは今も未来も愛に溢れている予感がした。
拙い文章でしたがお読みいただきありがとうございました。
過去作『この先死亡予定のドアマットヒロインの母でした』の娘がお気に入りキャラだったので彼女を主人公に短編で書き直させてもらいました。
短編にしては長いので、何度もお蔵入りしようか悩みましたが、せっかく書いたので投稿させていただきました。
評価、感想いただけると嬉しいです。




